〈春ですから〉****3月25日 (火)

 確かにカップルが増えている。
 枝に止まる者。空を舞う者。二人(二羽)連れが目に付く。一ヶ月前とは違う。
 春だから。
 市川支店長の言うとおりだとすれば、以前からの夫婦もあるのだろう。新たに、グループ交際を経て生まれたカップルもあるのだろう。
 護国寺の森も、どことなく、木々の芽の膨らみを感じさせる今日この頃だ。
 新たな性への試み。新たな生への準備。いいものだ。
 春だから。

 同時に、三羽でもつれながら飛ぶ光景も増えてきた。出来上がりつつあるカップルに、割り込もうとしているのだろう。動きが激しく、尋常な飛び方ではない。割って入ったのは、オスかメスか。勝者は、どっちか……。
 勿論、私には分からない。ただ、確かなことは、あぶれるヤツがいることだ。性への欲望を抱え、ひとりで春の夕空を飛んでいなければならない。気の毒なことだ。
 春だからなぁ。

〈前世はカラス?〉****3月25日 (火)

 双眼鏡を覗いているのは私ばかりではない。
 最近市川支店長も、近頃、二百倍というリッパなヤツをどこからか買ってきた。
「和田君のに負けたら支店長の沽券にかかわるからな」
 聞いていた女子社員の渡辺さんが溜め息混じりに言っていた。
「支店長と部長でカラスを覗く双眼鏡の倍率を競ってどうするの……」

 並んで双眼鏡で覗きながら声をかけた。
「少し前から、群で飛ぶことが多くなってません?」
「これから繁殖期だから。ああやって群で飛び回りながら相手をさがしているんだよ」
「グループ交際ですか」
「知ってるかい。一度選ぶとカラスは一生相手を変えないんだよ。カラスの寿命は十年ぐらいなんだけどね」
「つまらないですね。酒池肉林。乱交、不倫、スワッピングなんでもありのほうがいいのに。それにしても、支店長、ずいぶん詳しいですね」
「実は、むかし……」
「カラスだったんですか?」
「カラスの研究をしたことがあって……。これからカラス博士と呼んでくれ」
 つまらぬ研究をしていたものだ。
 百羽を超える群が、夕焼けの空を何回となく旋回している。時には高く、時には低く。時には速く、時にはゆったり。変幻自在な飛翔で群が舞う。私たちの会話をよそに、窓の外、実物のカラスたちは見事なものだ。

〈鳥には歯がない〉****3月24日 (月)

 デスクで考え事をしていると、市川支店長が声をかけてきた。
「どうした。深刻な顔をして?」
「いやア、カラスには歯がないんですって」
「それがどうした」
「それで終わりです」
「たまに真面目な顔をして考え事をしていると思えば、そんなことを考えていたのか。予算はどうした……」
「でも、知っていました。目んない千鳥なんて歌はありましたが、歯がないカラスとはね」
「当たり前じゃないか。昔から鳥には歯がないんだよ。虫歯の鳩も、出っ歯の白鳥もいないことになっているんだよ」
「そう言えばそうですね。でも、何故ですか?」
「何故って、何故だっていいじゃないか」
「でも、何故ですかね」
「虫歯になって金歯でも入れると、重くて飛べなくなるからじゃないの」

 本当だろうか?


〈カラスに歯はない!〉****3月23日 (日)

 「カラスの歯の治療でも始めれば好いのに……」。
 先日、歯医者で患者が少ないことを嘆くのを聞いて、こう思ったことを記した。
 そしたら、見知らぬ読者の方からメイルをもらった。
 カラスには歯がない。だから歯医者に行くはずがない、と。

 これを読んで、私は驚いた。
 何にって、ふたつ。
 ひとつは、カラスに歯がないことに。
 あとひとつは、この日記を読んでいてくださる人がこの世にいる、ということに。
 ふたつながらに、私には、大発見であった。

〈カラスの雌雄〉****3月21日 (金)

 いつものように双眼鏡でカラスの飛翔する姿を追っていた。
 見るほどに、その美しさ打たれる度合いが強まってくる。

 そばを通り掛かった市川支店長が声をかけてきた。
「どうだい。それだけ毎日熱心に見ていると、顔なじみもできただろう」
 冗談であっても、皮肉ではないだろう。市川さんは贅肉はあっても皮肉はない。むしろ真面目に聞いているのかもしれない。
 私も真面目に答える。
「いえ、まだまだです。オスメスも分からないくらいですから」
 カラスの雌雄、などという言葉もある。よく似ていて区別がつかないことのたとえだ。まして、個体の区別なんて、簡単にできるもんじゃない。

「カラス同士は区別がついているんでしょうね。美人だと思って結婚したら男だった、なんていうんじゃ困りますよね……。ホモならそれでもいいでしょうけど……」
「いいんだよ。そんなこと、和田君が心配しなくても……。年度末なんだから、予算の方を心配してくれよ。カラスも大変かもしれないけど、俺たちだって大変なんだから」
「そうですかね。カラスの世界で同性愛が増えるのと、当社の予算達成とは、地球史的な観点から言ってどっちが重要な……」
「営業部長として予算には責任があるだろう。カラスの同性愛を、俺たちがどう考えたらいいんだよ」
 ハッハハ。そりゃそうだ。
 それにしても、今日も本当に美しく飛んでいる。

〈遠くを見る目〉****3月18日 (火)

 カッコいいなあと思う。
 どこがカッコいいのだろう。久しく考えていた。
 今日、双眼鏡でのぞいているうちに、答えが一つ見付かった。
 いつでも、遠くを見ているからなのだ。
 確かに。
 枝にあって、近くを見ている表情のカラスなんて一羽もいない。

〈歯医者〉****3月14日 (金)

 歯に詰めていたものが取れたので会社の近所の歯医者に行った。
 歯医者といえばどこでもモダンで明るい診療室だと思っていたが、そこは違った。古色蒼然というのか。江戸時代から続いているような歯医者だった。
 また、治療をしてくれた先生がご老人で、江戸時代から生きているような、「蘭学事始」で医術を学んだような感じの人だった。
 そのためかどうか、他に患者はいなかった。
 雑談の折り、先生は最近患者が減って困る、という話をした。私はそんな話を聞いても仕様がないので、カラスに話題を移したかった。今の私にとって、興味はそこにしかないのだから。
「護国寺のカラスは五千羽ですって? 昔からですか?」
 さすがに、江戸時代からすか、とは聞かなかった。
「ここは、カラスも多いが墓も多い。生きている人間より、地下に埋まっている人間の方が多いさ」
 確かに、この辺り、寺が沢山ある。護国寺、本傳寺、高源院、善心寺、西信寺。事務所から歩いて3,4分でいける範囲でもこんだけの寺がある。
「死んだ人間は、歯の治療に来ませんか?」
「こないねぇ。どういうわけだろう」
 カラスの歯の治療でも始めれば好いのに……。こう思ったが、これも口には出さなかった。

〈黒服〉****3月12日 (水)

 市川支店長が黒服で出勤してきた。取引先の人に不幸があり、葬儀に出席するためだ。
「先週は親戚の娘の結婚式。今日は葬式。近頃、黒い服が多いな」
「何言ってんですか。外のカラスを見て下さい。年中黒い服ですよ。脱いだの見たことがない」
「何でここで、カラスが引き合いに出されなきゃいけないんだ」 「いいじゃないですか。せっかく外にあれだけいるんですから」

〈カラスの出勤拒否〉****3月11日 (火)

 昼間にカラスの姿を見かけるのは稀だ。
 どこに行っちゃうんだ。
 市川支店長の答えはこうだ。
「朝になると、群をなして盛り場へ餌を漁りに行く。サラリーマンが出勤するようなもんだよ」。
 夕方には、ねぐらの護国寺の森に帰ってくる、と。
 本当だろうか。

「ほら、あそこの木の枝に一羽だけ残ってますよ。あれはどうしたんですか?」
「出社拒否だよ。カラスだって休みたいこともあるだろうさ。今日は天気も好いし」
 本当だろうか。  確かにそう言われれば、ボーとしている感じはしますけどね。

〈護国寺とカラス〉****3月10日 (月)

 今の事務所に移転してきたのは去年の11月の終わり。
 初めて事務所に足を踏み入れて、先ず目に入ったのが、窓一面に拡がる護国寺の森。今までいた神田のゴミゴミしたビル街からすると別世界だ。
「へぇー。都内にもこんなところがあったんだ……」

 夕暮れてまた驚いた。
 窓の外。護国寺の森の上を何百羽というカラスが舞っている。思わず息を呑む。こんな光景は見たことがない。

 後で知った。護国寺には五千羽のカラスが住んでいるのだそうだ。どこかの新聞に書いてあったから本当なのだろう。それにしても誰が数えたんだ。カラスは整列して「番号!」なんてやらないし、数えようにも絶えず飛び回っている。五千羽を数えるのは容易いことではない。ご苦労なことだ。
 それはともかく、それ以来、朝な夕な、カラスを見続けてきた。
 枯れ枝に一羽。夕空に百羽。
 見ても見ても見飽きることはない。双眼鏡も買った。カメラも買った。カラスを見るために出社する日々になった。

〈目のゴミ〉****3月07日 (金)

 春特有の強い風が一日吹いた。
 いつもに増して、群舞するカラスの数が多かったのは、風と関係があるのだろうか。風に乗って上昇するスピードが物凄い。普段よりもたくましく、あるいは、凶暴に感じられた。

 外へ出ると、砂塵が舞っていた。
 目が開けていられない。
 見上げると、やはり、カラスの群だ。
 カラスの目には、ゴミは入らないのだろうか?
 羽で目をこすっているカラスがいないのはなぜだ?
 それとも、目をつぶって飛んでいるのだろうか?  誰かカラスのために、「カラス専用目薬」を開発する心優しい人はいないのだろうか?

〈飛翔〉****3月06日 (木)

 相手が鳥だから、「うまく飛びますね」、というのは少しも褒め言葉にならないのかも知れない。
 しかし、それにしても、カラスの飛ぶ姿をじっくり見たらよい。できれば三十分。どうしても忙しいなら十五分。時間の無駄に思われるだろうか?
 そうだろうか?
 必ず、こう感心することになる。
 どうして、こうも上手に飛べるものなのだろう、と。

 自分にはとてもとてもできない。
 実に軽々と飛ぶ。風に乗り舞い上がる。弧を描く。高みから直線的に急降下する。自由自在に、縦横無尽に飛び回る。
 あんなに飛べたら、どんなに気持ちいいだろう。
 感動といってもよい。この感動を得るのに費やされた数十分が無駄であるはずがない。

〈カラスと枯れ枝(2)〉****3月03日 (月)

 美しいのは、枯れ枝の方だ。
 結果から見れば、カラスはいなくともよいのかも知れない。
 ただ、カラスがいなければ、これほどしげしげと枯れ枝を眺めることにはならないだろう。従って、枯れ枝の美しさを知ることもないだろう。
 カラスの鳴き声に驚き、思わず、目を上げる。あるいは、枝の上にカラスを探そうとして大樹を見上げる。
 その時、私たちがカラスよりも先に発見するのは、枯れ枝の美しさである。
 青い空を背景に、凛と張った無数の枝。一番先の先の、細い枝にも、樹木の神経は行き渡り、緊迫感を以て寒空と接する。生体の組織に張りめぐらされた毛細血管のようでもあり、地中に伸びた植物の根のようでもある。  ともかくも、生きるものの緊張感と裡に秘めた力強いさがある。


ご意見でも。質問でも。お便りお待ちしていますメイルの宛先は:
hitsujikai@tabichina.comで す。


「護国寺・カラス日記」の目次に戻ります

「旅は舞台 演じるのはあなた」の最初のページに戻ります