旅チャイナ・楼蘭倶楽部
<李柏文書>
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 1909年、橘瑞超が楼蘭で発見した李柏という西域長史の手紙の草稿。
 時代は、四世紀中葉。四世紀初めから、439年の北魏による華北統一までの間、華北にはさまざまな遊牧民族が割拠し、十数国が興亡したが、それらを総称して五胡十六国というが、そのうちのひとつに、漢人の涼州刺史張軌が自立して建国(301- 376)した国を前涼という。当時河西を支配していた。その前涼王国が西域長史として楼蘭の地に進駐させていた将軍が李柏である。
 李柏が、焉耆(カラシャール)王に宛てて送った手紙の草稿を二葉、橘瑞超が発見した。

 これが、世界的な注目を集めたのには、いくつかの理由がある。
 一千五百年も砂に埋もれていた紙に書かれていた文書であること。木簡であれば数多く出土されている。しかし、紙に書かれたものとしては最古であろう、と。
 さらに、この手紙が書かれた時期が、ちょうど、コンチェ・ダリア(孔雀河)がロプノールへ流れ込むのを止めた時期と重なること。
 そして、もうひとつ、最も興味を引いたのは、二葉の草稿のどちらにも、五月某日に海頭についた、と書かれていること。「海頭」という地名は、それ以前にも、それ以後も、どんな史書にも出てこない(その後スタインが海頭と書かれた断簡を発掘してはいるが)。海頭とはどこだ? なぜ、楼蘭ではないのか?
 別な場所で書かれ楼蘭に埋められたのか、それとも、楼蘭がその時期海頭と呼ばれていたのか。
 そもそも橘瑞超が発見した場所が、スタインが謂うLAの地点ではなく西南に五十キロ離れているLKの地点であったのだ、いう説もあり、諸説紛々としている。

 ともかくも、一千五百年前の手紙がそのまま出てくるという事実こそが、プルジェワルスキー、ヘディン、スタイン、橘瑞超ら多くの探検家を惹き付けてやまなかった沙漠の遺跡の底知れぬ魅力であろう。