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* 羊飼いたちの大地 *


<地平線を引いたのは誰?>(1997.5.19)

「時間」が文化であると同様に、「空間」も文化である。

 問題は、例えばこういうことなのだ。
 人にとって、地平線とは何なのか、と。
 勿論、地平線などという「線」が実在するわけではない。
 オレ、昨日ペンチで地平線を切ってきちゃった。そんな人はいない。電話線じゃないんだから。
 南回帰線とか北回帰線とかいうのもあるが、そんな線とも違う。南北それぞれの回帰線とは、中学の理科で習った。南半球上または北半球上で、夏至または冬至に太陽の真下となる地点を連ねた線。すなわち、南北の二三度二七分の緯線である、と。
 地平線とこれらの回帰線のどこが違うかと言えば、一方は、目に見えるけれども越えることはできない線。他方は、目に見えないけれども越えることができる線。こんなところだろうか。
 謎々みたいなものだ。

 内蒙古の草原に立つ。
 それこそ見渡す限り、地平線の果てまで、草の原が続いている。
 風が吹く。
 すると満目の緑が揺れる。目の届く限りの緑が揺れる。豪勢なものだ。
 そういう場所にあって、地平線とは何だろう。
 あるいは、一直線に引かれたアスファルトの道を車で飛ばす。一向に風景の変わることのない大砂漠。そこでは、走っても走っても、地平線はいつまでもどこまでも、地平線のままである。
 そういう場所にあって、地平線とは何だろう。
 夢か希望か、はたまた、桎梏か。地平線とは何と何の間に引かれた線だろう。地平線の向こうは何なんだ、こっちは何なんだ。

 そう、同じ地平線でも、大草原の地平線と沙漠のそれとでは、人がそれについて抱く意味合いが違うのかも知れない。
 先ず、沙漠における地平線から考えてみよう。

 先に、シルクロードのゴビ灘のことを書いた。
 ここに立つと誰でも、自分はいかにも沙漠の真ん中に居るんだな、という気になるだろう。目に見えるものは、ゴビ灘しか、ない。
「どうなってんだ、この風景は……」。唖然として、眺めやる。視覚の焦点をどこに定めてよいやら。視線は、しばらく、宙をさまよう。やがて、視覚は都合のよいものを見付ける。それが、地平線だ。
 茫漠とした風景の中で、最もくっきりとした輪郭を描いているのが、地平線だからである。砂礫の大地。そこには、色彩もない。アンジュレーションもない。あくまでも無味、しかも真っ平らである。その中で、地平線だけは横に一線、紺碧の空と灰白色の地の合わさるところ、くっきりとした直線を描いている。途中でその線を切断するものは何もない。線を追いながら身体を廻すと、それが、三六〇度つながっている。
 地平線がなかったら、どうなるのだろう? 足下のゴビ灘を見つめ、視線を次第に遠くに移しても、見えるのは、ゴビ灘のまま。視線の角度が水平を超え更に上がってもゴビ灘。上四十五度を超えてもゴビ灘。真上を向いてもゴビ灘。ゴビ灘の壁。逆に頭上の空から次第に視線を低くして行く。見えるのは青空。ズーッと青空。水平線を超え、視線が下がっても青空。足下を見ても青空。青空の壁。そういう風景は想像しにくい。地平線がなかったら、世界はどう見えるんだろう。
 地に這うアリには地平線はないだろう。ゴビ灘の壁の世界。
 空に棲む鳥にも地平線はないかも知れない。青空の壁の世界。
 地と空の間に生きるものに、地平線は与えられた。
 何かを区切っている。とりあえず、天と地を区切っている。区切りがないと、アリか鳥になってしまう。地平線は、人のために引かれている。こう言っても、誰も信じまい。砂漠の中に、羊飼いと羊がいる。羊飼いは、地平線を見つめている。羊には、その地平線は見えているだろうか。時間と同じだ。人が、地平線を創ったのだ。地平線のかなたと地平線のこなたを想ったとき、人に、地平線が見えた。(今述べたことには、言葉の上の矛盾があっただろうか。でも、矛盾なんかたいしたことではない。恐るに足りない。)区切りだ。区切りがなければ、人は見捨てられたと感じるだろう。絶望を感じるだろう。区切られることは、人が生きていくうえで、おそらく、必要なのだ。

 自分を取り巻き尽くす砂漠。ただただゴビ灘。三六〇度の地平線。確かに広い。確かに広いが、この場に立った人間が抱く感慨は、決して開放感ではないはずだ。遠くに山もない、近くに木もない。あるのは、ただ沙漠と空と地平線。こういう風景は、「茫漠としている」、というのだろうが、「茫漠としている」と口に出して言うのが馬鹿馬鹿しいほど茫漠としている。
 もう一度言おう、四方八方、視力の限りの沙漠。その視力の限りが地平線。地平線の向こうは、空。こんなところでは、「広々としていていいなあ」、なんて絶対に思わない。
 どう感じると思います?
 人は、こう感じる。
 自分は閉じこめられている、と。地平線が、自分を閉じこめようとしている、と。生きていくうえで必要であった区切りは、同時に、桎梏でもある。砂漠の民は、このバランスにおいて、世界に在るのだと思う。
 ゴビ灘では、私たちは地平線に閉じこめられている。何故ならば、歩いても歩いても地平線が近づいては来ないことを、私たちは知っているからだ。地平線に向かって、つまり三六〇度どの方向に向かってでもよいという意味であるが、一キロ歩く。すると地平線は一キロ近くなるか。ならない。一キロ歩いても、十キロ歩いても、地平線はそこまでの距離を変えない。地平線も私たちと一緒に動いていくからだ。このようにして、地平線は私たちにまとわりつき、私たちを閉じ込める。
 地平線とは、どこにある線なのだろう。
 地平線と自分との距離は、視力と視点の高さで決まるのだろうか。
 視力 1.2の人の地平線は、視力 0.5の人よりも遠くにあるのだろうか。同じ視力なら、身長一六〇センチの人の地平線は、身長一八〇センチの人よりも近くにあるのだろうか。
 地球が球形だから地平線があるのだろうか。
 視力が無限の人が、地平線を見たらどうなるのか。地平線の向こうが見えないから地平線なのだろう。すると、どうなるのか。視力は、地球の引力の影響を受けて曲がるのだろうか。それとも、「直線」だろうか。無限の視力は、砂漠の先に、土星や天王星や冥王星をみるのだろうか。それとも、自分の背中を見るのだろうか。
 どちらにしても、はっきり言えることはこうだ。世の中に、同じ地平線は二本とはない、と。
 人が、地平線に閉じこめられてしまう理由は、ここにある。
 私は私の地平線をもっている。あなたはあなたの地平線をもっている。私の地平線をあたなに見せることはできない。私は、あなたの地平線を越えてどこかに行くことはできるかも知れない。しかし、私自身の地平線を越えることはできない。
 見えない南回帰線を越えることはできても、見える地平線を越えることはできない。いや、逆だ。遥か遠くに見えている限りにおいてのみ、地平線は地平線なのだ。私たちを閉じ込めていることにおいてのみ、地平線は地平線であるのだ。

 さえぎるものは何もない大地の真ん中で、人は地平線に閉じ込められる。閉じられることで、人は安息する。同時に、地平線のかなたへの脱出を想う。こういう空間にあって、閉じられた世界から抜け出るためのよすがとして、人々に、期待を掛けられるものは何だろう。私たち日本人は、幸か不幸か、こういう空間を知らない。国土は狭い。山に囲まれている。その上、湿気が多く靄に覆われていて視界が利きにくい。日本の自然の何と優しいことか。地平線の孤独を知らない。地平線の恐怖を知らない。地平線の悲しさ、切なさを知らない。地平線の憧れ知らない。当然に、そこから抜け出すよすがも知らない。
 そのよすがとは、おそらく、道である。
 人は、何の目印もない沙漠を、ただ地平線に向かって歩き始めることはできない。意味を見出せないからである。だが、それがどんなに細いものであっても、あるいは、どんなに消えかかった頼りないものであっても、道さえあれば歩いていける。
 道こそは、「地平線を越える」、という不可能を可能に変える可能性をもった唯一のよすがである。
 古来、この地の沙漠には一筋の道がかよっていた。
 この無辺無窮の大沙漠に、一筋の道が厳然としてあったことは、決して偶然ではない。人々がそれを必要としたのである。しかも、道は一本でなければならない。一本しかないからこそ、信用にたるのである。地平線に囲まれて生きたエルサレムの砂漠の民は、一つの神を信じ、その神はこう言った。「私は道である」、と。これも決して偶然ではない。
 漢とローマ。唐とペルシャ。道のりは、ゆうに一万キロを超える。遥かに隔てられた東西の文明の出会いと交流という壮大なドラマの舞台であったこの一筋の道は、後にシルクロードと呼び慣わされることになるが、この道に沿って運ばれたものは、絹や宝物だけではなかったはずだ。地平線を越えてみたい、という人々の願いも運ばれていたはずだ。
(写真の左に見えるのは土で築かれた万里の長城、先に小さく見えるのは嘉峪関の楼閣)
 そうでなければ、誰が駱駝の背に揺られ、無人の荒地を何ヶ月もの命懸けの旅をするものか。張騫も、法顕も、玄奘も、マルコポーロも。誰の物語にも通底しているのは、常人を遥かに超えた強い強い意志である。自分の地平線を越えるという不可能性に挑む意志である。張騫は長安を出発してから再び長安に戻るまで十三年かかった。玄奘は十八年。半端な時間ではない。「あれ、オレは何のためにこうして歩いているんだっけ」。歩いているうちに、いつか、初めの目的は忘れてしまう。沙漠の真ん中で地平線に囲まれながら、私はそういう彼らを想像する。ただ、それでも、歩き続ける。何のためではない。ただただ、自分の地平線に向かって、一本の道を歩く。何よりも明らかなことは、自分の地平線に向かって歩き続けることができるのは、自分だけであることだ。彼らは歩き続ける。何故なら、そこに地平線があり、道があるからだ。歩くことの意味は無意味になり、無意味が意味になる。
 それでも、地平線は依然として、人を閉じ込めることを止めない。
 沙漠における地平線とは、そういうものだ。

 始めに、「地平線と南北の回帰線とは違う」と書いた。何故、突然に回帰線が持ち出されたのか。突飛に感じた読者も多かったろう。実は、私なりの理由があった。地平線、沙漠における地平線に想いを巡らしているうちに、わけもなく、ヘンリー・ミラーを思い出していた。
「ぼくは月の表面にぶら下がっている。世界は子宮に似た恍惚感にひたり、内なる自我と外なる自我の平衡を保っている。おまえから多くの約束を与えられたぼくは、永久にここからでられなくなろうと、いっこうにかまわない。(略)地平線上のあらゆる物が、ぼくにははっきりと見える。まるで復活祭の日のようだ。死も誕生も、ともにぼくのうしろへ去った。ぼくは今から、生の病の中で生きるつもりだ。」
『南回帰線』(河野一郎氏訳、講談社文庫)の巻末である。
 そう。地平線とは子宮である。閉じた世界の中で、安んじ心穏やかに眠ることもできる。同時に、産道という道もある。道に頼って、外の世界への脱出を夢見ることもできる。同じ道を頼って、子宮への回帰を夢見ることもできる。
 地平線を、ああでもないこうでもない、と考えているうちに、このヘンリー・ミラーの文章が思い浮かんできた。そこから、地平線・回帰線という言葉の連想を得た。そこで、ああなった。
「生の病」。それは、生への意志だろう。狂おしいまでの生への意志。それは、閉じこめられている、と感じる者だけを突き動かす衝動である。
 地平線。それは、人が創ったものである。その地平線だけが、人をして、地平線を越えて行こうとする意志を生み出し得る。その意志が、砂漠における生である。
 シルクロードの砂漠に来る。地平線に驚く。羊飼いを見る。羊飼いの眼差しに、鬱勃とした「生の病」を想う。「いつか、あの地平線を越えてやる」。勃勃と、その胸に沸き上がる意志を想う。  日本人の知らない世界であり、日本人の知らない意志である。

 さて、話は内蒙古の大草原に戻る。
 ここでは、同じ地平線でもシルクロードのそれとは違う。
 緑に満ちた草原であること。そして、柔らかい起伏をもったそれであること。
 そこには、どういう違いがあるだろう。どちらにしても、日本人の知らない世界ではあるのだが。


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