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* 羊飼いたちの大地 *
<蒙古の地平線>(1997.5.20)
さて、話は内蒙古の大草原に戻る。
ここの地平線は、同じ地平線でもシルクロードのそれとは違う。
緑に満ちた草原であること。そして、柔らかい起伏をもったそれであること。
見渡す限りの、地平線の果てまでの、草の原。風が吹くと、満目の緑が揺れる。起伏が揺れる。
ここでの地平線は、私たちを圧しない。むしろ、誘っている。
ここに立つと、ひとつの欲望が、身体の底から湧いてくるのを感じる。
あの丘を越えてみたい、と。歩いて、歩いて、歩いて、歩いて、あの起伏の頂に立ってみたい。その先には、何があるだろう。それを、この目で見ていたい、と。
引き込まれるように歩き始める。遠近感が分からない。樹木があったり、建物が見えていたりしないから。地平線まで草の原が続いているだけだ。目指した丘は、歩いているうちに、最初の目算より遠いことが分かる。その感覚の狂いが、気持ちを更にわくわくさせる。自分が日常から開放されるいることの証のように感じられる。日差しは強い。自分の影が足下に小さくできる。足を止めると、影も止まる。
影が止まると、動いているものは、何もなくなる。空には、鳥もいない。地には、人もいない。風が葉を揺する木もない。
音もない。空に鳴く鳥もいない。地に歌う人もいない。葉を騒がせる木もない。
動くものがない。音がない。そこでは、時間が止まっている。
「物が動くから、時は生ずるのだろうか。それとも、時があるから、物が動くのだろうか」。
物が生ずる以前の、時が生ずる以前の、どうしようもなく遠い昔を思い起こそうとする。
陽は燦々と降り注いでいる。惜しげもなく、見渡すかぎりの大地いっぱいに、一点の余すところなく、降り注ぐ。例外は、私が作る影だけだ。目を閉じる。目を閉じても、陽は注ぎ続けているのが分かる。何も聞こえぬ。何も動かぬ。
私は思い出す。
人類が誕生する前の、生物が生まれる前の、地球が存在する前の、太陽系の天体ができる前の、私たちの銀河が在る前の昔を。二百億年前、ビッグバンがあった。それ以前には、すべての天体が一点に詰まっていた。宇宙の密度は無限大だった。世界は一点だった。静寂だった。いや、静寂さえも、なかった。さあ、ビッグバンが起こった。以来、宇宙は急激な早さで膨張を続けている。今や、途方もなく大きい。私を取り囲む見渡す限りの大草原も、地球全体のなかでは小さな一つの点に過ぎない。その地球という惑星も、太陽系のなかでは特に目立つ存在ではない。太陽系は、と言えば、ある銀河のほんの一点に過ぎない。その銀河は、さしわたし約十万光年の大きさを持つ。しかも、そのわが銀河でさえ、大宇宙に何千億とある銀河のひとつに過ぎない。
そう、ビッグバンは確かにあった。それ以前には、空間も時間もなかった。空間がない、そういう場所。時間がないという、そういう時。それを私たちはうまく想像できない。うまく想像できないが、私は何とか思い出そうとする。物が生ずる以前の、時が生ずる以前の、どうしようもなく遠い昔を。
地平線のなかでは、どんな俗人も、一瞬、哲学者になる。嘘だと思うなら、来てみるがよい。顔一杯の皺。いつでも、遠くを見ている目。ここの羊飼いたちは誰でも哲学者の顔をしている。
余りに昔で、うまく思い出せない。
目を開けて、歩き出す。光が生まれる以前を思い出そうとしている間も、太陽は私を照らしていた。風が誕生する以前を思い出そうとしている間も、風は私に向かってそよいでいた。日差しが強い割には、暑さを感じない。汗をかかない。乾燥しているせいだ。日差しはあくまで強く、風はどこまでも涼しい。やがて、丘の頂に着く。一時間ほど歩いたのだろうか。
何があるか。何が見えるか。
何のことはない。同じ風景があるだけだ。満目の草原と地平線とひとつ先のなだらかの丘。初めから分かり切っていたことだ。半ばがっかりし、半ば安心する。林立する高層ビルの群が見えたら大変だ。
「それにしても、あの丘の向こうにあるものは何だろう」。
また、歩き出さずにはいられない。
小一時間後、丘の上に立っている私が見ているものは、満目の草原と地平線とひとつ先のなだらかな丘。
切りがないことになっている。
それでも、また、歩き出す……。
沙漠の地平線が人を内へ閉じ込めるものなら、草原の地平線は人をその外へと誘い出すものだ。沙漠には道が必要だった。人はそれにすがって地平線に向かった。草原に道は要らない。人々は気のおもむくままに地平線に向かえばよい。沙漠では人は強靱な意志をもって地平線を越えた。草原では人々は浮き浮きと心を弾ませながら地平線を目指す。草原に立ったら、誰だって、地平線に向かって足を踏み出さずにはいられない。
沙漠の民はモーゼの物語を生む。草原の民は、日常として移動を繰り返す。沙漠は英雄を必要とし、草原には匿名性という平凡が似合う。
移動すること。それは、草原に生を得た民族の宿命だ。家畜に草を食わせる為だけではないのではないか。家畜がいようがいまいが、草原の地平線は人々を誘っているではないか。羊を連れていようがいまいが、人々は地平線を越えて歩いて行こうと思うことだろう。地平線は、そのために引かれているのではないだろうか。
越えて行くこと。英雄としてではなく、名を持たぬままに、生活者として地平線を越えて行こうとすること。これが、蒙古の草原に生まれついた民の生のすべてである。彼らは一生歩き続ける。どこかへ行くためでは、ない。歩くことが、彼らの生だ。地平線が呼んでいる。草原の民の血が、それに応えているだけなのだ。
この地に立つと、そう観じる。
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