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* 羊飼いたちの大地 *


<地平線という舞台>(1997.5.25)

 地平線に取り囲まれて生きること。これは、人にとり、決定的なことなのだと思う。

 そこでは、人は、世界の真ん中に在る。
 先ほども言った。どんなに歩いても、地平線は動かない。つまり、人はいつでも世界の中心に居る。逆に言えば、中心にしか居られない。隠れようもなく、世界の真ん中に居る。しかも、彼らは知っている。自分だけが世界の真ん中に居るのではなく、誰もが、真ん中に居るのだ、と。世界が、そうなっているのだ、と。
 世界とは何だろう。地平線に囲まれて生きる遊牧の民に、試みに、こう尋ねたら、彼らは躊躇なく言うだろう。今、現に、自分が居る所だ、と。自分が見ている所だ、と。視野が地平線に境界づけられて在る、ということは、すべてが自分を視点とした遠近法の中で立ち現れてくるということだ。「山のあなたの空遠く……」とは違う。空間は有限である。有限である分、確たる秩序を約束してくれている。
 世界とは何だろう。日本人である自分に、試みに、こう自問してみる。何と答えたらよいだろう。地図を見てくれ。こんなふうにでも応ずるしかないだろうか。それとも、世界とは意味だ、と答えるだろうか。意味とは何だ。意味とは、因果応報の宗教であったり、血液型の性格判断だったりする、と答えるだろうか。
 自分とは何だろう。地平線に囲まれて生きる遊牧の民に、試みに、こう尋ねたら、彼らは躊躇なくこう言うだろう。言うまでもない、と。この大地に羊を追うこの私だ、と。
 自分とは何だろう。現代の日本に生きる自分に、試みに、こう自問してみる。どうだろう。「われ思う。ゆえに、われあり」。こんなふうに答えるしかないだろうか。で、結局、自分とは何だろう。

 近代的自我意識に毒されていないと賞賛したいのではない。逆でもない。ただ、こう言いたいのだ。
 地平線に取り囲まれて生きるということは、何か、決定的なのだ、と。

 地平線の向こうから、日が昇る。
 暗闇の中、オレンジ色の最初の一筋が自分を照らす。やがて、草原が金色に満ちる。振り返ると、地上に自分の影が異常に長く張り付いている。満目の草が金色に揺れる。気はどこまでも清冽だ。新しい空気だ。新しい風だ。新しい太陽だ。新しい時が始まる。こうして世界が次第に明るくなってくる。
 私たちは地動説を知っている。疑ってもいない。疑っていないというより、どうでもいいのだ。動くのが地でも天でも。満員電車で会社に行き、ビルの谷間のなかで仕事をこなし、また、電車に揺られて帰ってくる。こういう生活のなかでは、教科書に書いてあった地動説で十分だ。
 でも、内蒙古の大草原に立ってみたらよい。
 日は、明らかに、地平線の向こうから昇ってくる。その地平線は、私だけのものだ。その向こう側から、新しい日が昇り、新しい風が吹き、新しい時が始まる。
 モンゴルの遊牧民は地動説を信じている。そんなことを、言いたいのではない。地平線に取り囲まれて生きると、いうことを言いたいだけだ。

「われ思う。ゆえに、われ在り」。人間存在の根拠は、自己自身のうちに現れる自己意識でしかない。近代は、このように自我意識を世界の中で自立させ、それに対峙するものとして自然界を対象化し法則化した。そこから現代の科学文明が築かれてきた。私は想像する。モンゴルの遊牧民に見えてる世界は少し違うのではないか、と。ここでの時が、日本でコツコツコツと秒針が音をたてて刻む時と違うように。おそらく、地平線の囲いは、彼らにとって、舞台に見えるのではないだろうか。世界とは、地平線が区切る空間だ。彼らは、いつでも、その真ん中に居る。その上では、すべてが見通され、隠れるべきところがない。それは、舞台である以外に何であろう。その舞台で、彼らは羊飼いという物語を演じている。
 羊飼いたちは、誰でも主役だ。いつでも、主人公だ。
 黒いハットをかぶり、民族衣装の裾をひるがえし。馬に乗るにも、羊を追うにも。格好いいのだ。彼らは、彼らが尊敬する羊飼いを演じているのではないだろうか。それは、父かも知れない。祖父かも知れない。いにしえの民族の英雄かも知れない。五代目市川団十郎がいるように、八代目羊飼い。
 観客? 大丈夫! 人は、自分という観客さえあれば、いつまででも、俳優をやっていられる。それに、たまには来客という観客もやってくる。モンゴル族の客好きは有名だ。彼らは長い旅に出るとき、予備を馬を連れていくことはあっても、食糧は用意しないという。何処かで、誰かが、暖かく接待してくれることを知っているからだ。諺に謂う。「来客の絶えない家は幸せである、住居の前にいつも客の馬が繋がれている主人には喜びがある」。この客好きを、情報の入手などという実利的な面だけで捉える必要はない。俳優が観客を待っている。そんなふうに考えたらよい。

 もう一度言おう。ここには、劇のための要素が揃っている。地平線に区切られた大地いう舞台があり、遠近法という秩序があり、確たる私という俳優がいる。彼らは、羊飼いを演じようとしている。「われ思う。ゆえに、われ在り」。こんなことをブツブツ言いながら羊を追っている者は、ひとりも、いない。彼らは役を演じきっている。
 夜明け。それは、新しい劇の幕開けである。歩くことで、舞台空間を産み出す。歩くことで、時を創り出す。ここでは、日は毎日新しい。人々は、羊飼いという役を演じきろうとしている。

 地平線に取り囲まれて生きること。そこには、日本とは違うもうひとつの世界があり、もうひとつの生がある。この大草原に立てば、いやでも、分かる。  


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