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* 羊飼いたちの大地 *
<遊牧の民・何も持たずに生きること>(1997.6.8)
旅をすみかとする。驚くべき生の姿だと思う。それらを生んだのは、地平線の魔術であろう。大草原の地平線が招き、遊牧の民の血がそれに応じる。 それが、草原の民の生のすべてでもある。
パオと呼ばれる彼らの住居は、彼らの生の形を象徴している。
一切の無駄が省かれて、在る。木の枠組みとフェルトの被い。それだけの住まい。組立・解体は家族の作業で、四十分。解体・移動・組立、この繰り返しのための利便性を最優先に考案された住居である。
彼らは、パオ以上の建物を必要としていない。このこと自体が既にひとつの奇跡である。建築への意志とは、カオスの中から秩序を構築しようとする衝動である。永遠であるもの、恒久不変であるものを追求しようとする情熱である。ところが、パオにはそういう要素は微塵もない。正反対である。解体と移動の便利のためだけに、長い歳月の工夫を加えられてきた。何かを削るために、省くために、痩せるために、人々の知恵は積み重ねられてきた。
このことだけでも、恐ろしいことだ。
パオには、蒙古の大草原に生起する「時」と、地平線という「空間」が凝縮されている。
いつでも新しい住居。永遠の現在性という「時」。あるいは、サーカスの一座が村々を転々としながら、テントが張っていくという興業性。いわば、演劇のための舞台作り。そういう「空間」。
彼らはパオと財産のすべてを荷車に載せ、牛に牽かせて地平線を越えて行く。逆に言えば、持って動けるものだけが、彼らの財産である。
どんなに貯め込んでも無駄である。持って行かれなければ、何の役にも立たない。帽子は一個あればいい。頭は一つしかないんだから。靴は一足あればいい。脚は二本しかないんだから。服は一枚あればいい。身体は一個しかないんだから。持たぬことは、徳。持つことの欲望を抱かぬことは、善。
環境は覚悟を生む。覚悟は人を鍛える。
欠乏が日常である。欠乏が理想になる。
世界中の文化が、蓄積を価値として成り立ってきた。モンゴル族は逆を行く。欠乏こそが価値。簡素にすること。省くこと。切り捨てること。
なくても済むものは、ない方がよいのだ。
蓮見治雄氏はこう言う。
「彼らは、一本のナイフで羊も殺し、缶詰を開け、酒のびんも開ける。さらには、自分のはくズボンの布も裁断する、といったふうに、一本のナイフが万能である。日本の台所に入ってみると、包丁一つとってみても、何丁ある。移動する人と定住する人の差であろう」(『チンギス・ハーンの伝説』)。
勿論ナイフに限らぬ。この地では、すべては、ないに如かない。
彼らはその一本のナイフで羊を解体し、骨が付いたままの肉を大きな釜でゆでる。それを、ナイフを使って食べる。最高のご馳走だ。味付けといえば、ひとつまみの塩を、パッツと、釜に放り込むだけだ。香辛料などは一切使わない。料理と言うには余りに単純だ。味付けというには余りに潔い。この簡単さ、この潔さ。彼らの哲学である。
人間は裸で生まれ来る。そして、裸で死ぬ。この余りに自明な真実を一番知っているのは、遊牧の民ではないだろうか。
彼らの唯一の財産である羊でさえ、自分の目に届く範囲を越えてはいない方がよいのだ。執着は、何も生まない。持たぬことだけが、彼らの誇りだ。天と地の間で、独りの人間が裸で生きて行く。これが、すべてだ。
彼らは、元来は、墓も持たない。風葬である。布やこもで包まれ、山や丘の南麓に、岩に寄りかからされて放置される。遺体を、風が綺麗な骨にしてくれる。やがて、骨もバラバラになる。
仰々しい儀式も要らぬ。大袈裟な墓も要らぬ。すべては、なくに如かない。
地平線という舞台が演出する生の姿である。
私たちは、自分たちが裸で生まれて裸で死ぬことを思い起こす必要がある。そのためには、地平線に囲まれて、羊飼いにならなければならない。
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