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* 羊飼いたちの時間 *
<人は時間を無駄に使うことができるか>(1997.3.29)
ここで、こんな哲学的な疑問が浮かんでくる。
果たして、人は時間を無駄に使うことができるのだろうか、と。
フランクリンから二世紀。カミュが、ギリシャ神話のシジフォスの物語を題材に、生の不条理性を言挙げする。
地上での重なる悪業の罰として、地獄での苦業を命ぜられる。大きな石を山頂へ押し上げて行く。山頂まで辿り着くと、手を離す。石は、いま登ってきた、山の斜面を転がり落ちて行く。シジフォスは山を降り、また石を押し上げる。山頂まで運んだところで、手を離す。石は転がり落ちる。山を降り、また、押し上げる……。
果てのない同じ行為の繰り返し。
永遠に報われることのない労働。
カミュは想像する。重い石を、全身の力をもって押し上げるシジフォスの姿を。張り詰めた脚の筋。盛り上がった肩の筋肉。首筋から背中いっぱいに滝のように流れる汗。努力が報われよとする瞬間に、彼は手を離す。彼の耳は聞くだろう。ゴロンゴロンと辺りに響きわたる音を。彼の目は見るだろう。大きく跳ねながら、アッと言う間に小さくなって行く石を。シジフォスは黙して山を降りる。また、石を運び上げ、転がり落とすだけのために。
シジフォスが課せられたのは、不条理という罰だ。
カミュは言う。生きることは、同様に、不条理だ、と。
さて、無駄の話だ。
「無駄」ということから、人生における「時間」というものを考えることになっていた。
シジフォスの行為は、無駄だろうか。
勿論、無駄だ。力を絞って運び上げた石は、また、転がり落ちることになっているからだ。努力のすべてが無に帰すからだ。
だとすれば、そこに費やされた時間は無駄だろうか。いや、この問いは曖昧すぎるかも知れない。宇宙全体がもつ時間が無限なものであるなら、そこには、無駄という観念は生じないからだ。無駄という観念が成り立つためには、何か有限な資源というような観念が一方でなければならない。例えば、こう言い直したほうがよい。そこに費やされた「シジフォスにとっての時間」は無駄だろうか、と。
無駄だ、と答えてもよいだろう。
そりゃ、無駄にきまっている。無味乾燥。何の報いもなく費やされた時間だからだ。
しかし、無駄って何だろう。
客観的な「無駄」というものがあるのだろうか。そうは考えにくい。客観的・絶対的な「無駄」なんてものを想定するのは難しい。むしろ、誰かに主観される「無駄」なのだと思う。だから、ここでの無駄というのは、シジフォス自身に感じられる「無駄」、ということなのだろう。
シジフォス自身が知っている。全身の力を込めて押し上げているこの石は、頂上を前に必ず転がり落ちていくことになる、と。また同じ石を押し上げてこなければならない、と。
もしも、彼がそれを知らなかったとしたら、どうだろう。次に運び上げる石が前とは別なものであると勘違いしていたとしたら、どうだろう。やはり、無駄だろうか。それとも、事情は、変わるだろうか。
そう、少しは変わるかも知れない。
少なくとも、カミュの、「不条理だ」と嘆く深いため息の少なからぬ部分は、目的地である山の頂上が、同時に、苦労を水泡と化す地点であることを知っていて、なお頂上に進まなければならない、というシジフォス自身に意識されたジレンマにあることは確かだろう。
しかし、シジフォスが知ってようが、知っていまいが、やはり、そこに費やされたシジフォスの時間は無駄である、と言ってもよいのではないだろうか。私たちとしては、である。つまり、シジフォスから後ろに引いた私たちの目には、やはり、無駄に感じられるのだ。
おそらく、ここがポイントなのだ。
「無駄」という概念そのものは、第三者の目において生じる。行為から離れた第三者の目には、あらゆる行為が無駄に見え得る。
中国人がのんびり仕事をする。それが、私たちには無駄に見える。私たちが必死に仕事をする。それが、中国人には無駄に見える。で、本当はどうなのだ。
本当は、こうだ。
本当は、両方とも無駄なのだ。私たちでもない、中国人でもない、双方から少し離れた目を想定すればよい。間違いない。両方が、ともに無駄なのだ。勿論、シジフォスも無駄だ。
無駄だから、止めろ。
シジフォスが神々からこう言われたら、どうだろう。
シジフォスは喜ぶだろうか。喜ぶだろう。喜んで、ゴルフにでも出かけるかも知れない。でも、プレイが終わったときにはこう思うだろう。
なんだ、十八ホール汗かいて廻ったけれど、また、第一ホールに戻ってきただけじゃないか、と。きっと、何ラウンド廻っても同じことだ。石を山の頂へ運ぶのと変わりないじゃないか、と。
その通りだ。
ゴルフに限らない。
マラソンなんか、四十二キロも走って、また、スタートした競技場に戻ってくる。あれは、何のために走っているんだ。時間の無駄じゃないのか。
生業だって同じだ。真夜中の十二時まで残業して仕事を片づけても、翌朝にはちゃんと新しい仕事が山となってやってくる。仕事をやり尽くしたサラリーマンはいない。生意気な三年生をやっとの思いで卒業させても、すぐに同じくらい生意気な一年生が入ってくる。生徒を教え尽くした教師はいない。手紙を配り尽くした郵便配達もいない。赤ん坊を取り上げ尽くした産婦人科の医者もいない。誰だって同じだ。疲れ果てた一日がどうにか終わっても、すぐに明日が来てしまう。
それでは、新しい仕事はない方がよいか? 新入生は入ってこない方がよいか? そんなことはない。クビになることを意味するだけだ。別な、同じく果てのない仕事を探さなくてはならないだけのことだ。明日は来ない方がよいか? そんなことはない。それは、死ぬということだ。
もう一度問おう。
「シジフォスよ、無駄だからもう止めてもよいぞ」。こう言われたら彼は喜ぶか?
そう。誰も喜びはしない。
勿論、シジフォスとマラソンランナーの違いを探し出すことは難しいことではない。楽しみか苦しみか。苦労の成果が残るか否か。自主的か強制的か。こんな区別ができなくはない。しかし、行為自体から少しでも離れて、無駄かどうかという観点から見てみればよい。そんな区別は、何の意味もなくなるだろう。
別に楽しいから生きているわけではない。望んで生を受けたのではない。目的があって生まれてきたのでもない。そもそも、この世に生まれてきたこと自体が無駄なのだ。
行為の成果って何だ?
野球をやって、ヒットを二千本打ったら、どういう成果が上がったことになるんだ。シジフォスも「成果」を確認するために、石を上げた回数を「正ちゃん印」で石に刻んでいけばよいのか。そんなことはない。何をしたって無駄なことに、何の変わりもないのだ。
そう。何をやっても無駄なのだ。シジフォスも無駄。マラソンも無駄。二千本も無駄。かと言って、何もしないのも無駄。この世は、無駄だけで出来上がっているだ。無駄を食って、無駄を息して、無駄に生きて、無駄に死ぬ。
費やされるすべての時間は無駄なのだ。
カミュは言う。真に重大な哲学上の問題は、この世に、ひとつしかないのだ。そして、それは自殺ということだ、と。人生は生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の答えるべき根本的な問題である、と。
この世のすべては無駄である。では、何をやっても無駄であるなら、人は自殺をした方がよいか。そうかも、知れない。しかし、自殺をすることだって無駄のうちだ。自殺に使われる時間ほど無駄なものは、ない。
私たちがすべての事に、無駄である、と感じること。それは、言葉を換えれば、私たちが自分を超越したところで、あるいは、自分の行為を超越したところで、目標を設定できないでいる、ということに他ならない。何のために四十二・一九五キロ走るんだと聞かれたら、「走りたいから」、としか答えられない。二千本ヒットを打ったらどうなるんだと聞かれたら、「いや……ただそれだけ……」、としか答えられない。
すべての行為の意味が、その行為自体の中に自己収斂する。すべての行為が自己目的化する。これは、もうひとつ言葉を換えれば、すべてが「遊び」になった、ということである。
「遊び」……、そう、人間を「遊ぶ存在」と最初に捉えたのは、ホイジンガであった。彼はかの名著『ホモルーデンス』で、遊びの場を「それだけで完結しているある行為のために捧げられた世界」と定義づけた。
「すべてが『遊び』になった」と言う時の「遊び」とは、そういう意味での「遊び」である。
ただ、ここが最も重要であるのだが、ホイジンガの時代と私たちの時代は同じではない。
彼は、遊びの本質を「完結性と限界性」とした。その時、彼は、その「遊び」を「現実」に対峙する「時間」として考えていたのである。ホイジンガにとって、「現実」とは、初めも終わりもなく、反復することもなく過ぎて行く「時間」であった。つまり、「遊び」とは、現実の日常世界の中に特に設けられた一種の聖域としての一時的な世界であった。
今から見れば、健全な思想であった。彼が生きた、十九世紀の終わりから二十世紀の半ばというのが、健全な時代であったのだろう。
二十世紀の末に生きる私たちは、そんなふうには考えられない。
私たちは、「遊び」を「現実」と対立するものとして眺めることはできない。スタートラインとゴールの距離を「現実」から切り取り、誰かの合図で走り出すマラソンは、確かに、ホイジンガの「遊び」の概念に合致するだろう。それには異存はない。しかし、私たちには、ランナーにとって走ること以外の「現実」が、どこかに存在するとは思えない。
ランナーがレースを終え、電車に乗って家に帰る。それは、彼が「遊び」から「現実」へ帰る道筋だろうか。そんな風には思えない。そこには、断絶はない。
行為の意味は、当の行為の中にしかない。これが「遊び」の定義であるなら、「現実」の定義は何だろう。行為の意味が、当の行為の中にある、そういう世界?
幸か不幸か、そういう世界を、きょうび、私たちは信じていない。
マラソンが「遊び」であるなら、サラリーマンの会社勤めも「遊び」ではないだろうか。社長ごっこと社員ごっこの「遊び」ではないのか。家庭も「遊び」ではないのか。夫婦ごっこ、親子ごっこの「遊び」ではないのか。
要は、「現実」なんかない。すべては「遊び」である。これが、今という時代のささやかな信念ではないだろうか。
シジフォスの神話の中に、私たちは、おそらくカミュ程には不条理性を感じない。シジフォスの石を運び上げる行為と、自分たちの会社勤めに違いを見出さないからだ。勿論、会社勤めに限らない。マラソンにも、家庭生活にもである。私たちは、自分たちをシジフォスであると思っているからである。シジフォス以外の人生はあり得ないと思っているからである。
「行為の意味は、当の行為の中にしかない」
フランクリンは、性交はもっぱら健康ないし子孫のためにのみ行え、と言う。あれが健康に役立つとは知らなかったが、それしても、この考え方は上に述べてきた文脈のなかでは、健全あると言ってよい。フランクリンは、行為の意味は、行為を超えたところにあると信じているからである。そして、私たちにはこの健全さが滑稽に見えるのである。私たちには、行為がその行為だけで完結している方が安心なのである。性交は性交だけのためにしたいのである。
こうして、すべての行為は、無駄になった。
これは、現代という時代が私たちに吹き込んだ、ペシミスティックな、そして同時に、オプティミスティックな夢であるのだ。
健全か不健全かと聞かれたら、不健全かも知れないと思う。良いことか悪いことかと聞かれたら、何と答えよう。おそらくは、どちらでもない。良いことではない、悪いことでもない。ただ、とにかく、事実であるのだ。私たちの生を縛っている事実であるのだ。すべてが無駄だということは。
で、あるなら、無駄に徹した方がよい。少なくともかっこいい。シジフォスは石に何も刻まない。「名球会入りだ」、なんて喜ばない。それが、シジフォスのダンディズムだ。少なくとも、私たちを取り巻く時代的な宿命だ。私は、この時代が私に与えた宿命を、最高にいとおしく思う。この宿命にたっぷりと浸かって生き、そして、死にたいと願う。
嗚呼、私たちの時代、何といとおしいことか。
さて、すべては無駄になった。生きることも死ぬことも。
すべての行為は無駄になった。仕事も、遊びも。歌うことも。性行も。読書も。
人生は空っぽだ。
そう。間違いない。人生は空っぽだ。
ただ、そのなかで、ただひとつだけ確実に残っているものがある。
それは、時間だ。
すべてが無駄であるなかで、私たちは、こう言える。生きるとは、時間を使うことである、と。無論、それは無駄な時間にきまっている。それにしても、そこに費やされた時間だけは、紛れもなく私自身の人生である。
人生とは、時間である。
生きるとは、時間を浪費することである。
シジフォスについて言えば、こうだ。
彼の努力は無駄だった。何も生まなかった。何の報いもなかった。不条理であったと言ってよい。だが、それこそがが彼の過ごした時間であったなら、シジフォスにとり、そん時間をいとおしむ以外にどうすることができるのだろう。
誰の人生も等価だ。そして、人生は時間だ。
だとすれば、どの時間も等価なはずだ。
シジフォスが石を押し上げる時間は、日本の総理大臣が国政の執務に費やす時間と等価である。
つまり、両方とも同じように無駄であるのだ。だから、この章の最初の問い、「人は時間を無駄に使うことができるか」という設問に対して、こう答えるべきなのである。
人は、時間を無駄に使うことはできない、と。
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