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* 羊飼いたちの時間 *
<無一物の私と無一物の羊飼い>(1997.4.27)
私たちは無一物だ。
四半世紀前の人のことは知らない。二十世紀の世紀末に生きる私たちは無一物だ。何も持たずに生まれ来て、何も持たずに死んで行く。
ただ、その間の時間だけは持っている。その時間だけは、私個人に属する。私だけのものだ。たとえ、それがシジフォスが地獄で石を運び上げるための時間であったにしても、である。サラリーマンが金と引き替えに会社に売り渡した時間であったにしても、である。
いや、むしろ、こう考えるべきなのだ。シジフォスにも、私たちにも、今こうして、時間を費やしているということ以外の人生はない、と。
前章に言った。人に費やされるすべての時間は、ひとしく無駄である。だからこそ、人は時間を無駄に使うことはできない。どんなに矛盾をしているようでも、これが、現代という時代が見ようとしている夢の形だと思う。
この考えを、私が、ハッキリとした言葉で意識したのは、シルクロードをバスで旅行していたあの時のことであった。
ポツン、ポツンと羊飼に出会った時のことであった。
彼らは、広い広い砂礫の原に羊の群を追っていた。羊の数は、少なくて二十頭多くて四、五十頭。
ポツン、ポツン。
誰もがひとりでいた。
ポツン、ポツン。
若者もいた。老人もいた。一様に痩せていた。
ポツン、ポツン。
石に腰掛けている者もいた。腕組みをいたまま突っ立っている者もいた。一様に悠然としていた。
その周りを、羊たちは、目の前の土だけを見て、ちょこちょこと、草を食うことだけに関心を集中させていた。
羊飼いたちは、誰もが、地平線の彼方を遠く見遣っていた。
羊と羊飼い。両者の見ようとしている夢は、遠くかけ離れているようであった。
そう。地平線の彼方まで砂礫が続くばかりの土地である。
ポツン、ポツン。
彼らはどこから来たのだろう。どこへ行くのだろう。彼らは何を考えているのだろう。彼らの頭のなかには何があるのだろう。何が楽しいのだろうか。何が悲しいのだろうか。
私たちは、彼らの脇を、時速八十キロのスピードで駆け抜けた。
私は何を考えているのだろう。私の頭のなかには何があるのだろう。何が楽しいのだろうか。何が悲しいのだろうか。
私は、彼らの生の姿を想像しようとした。
幾つになった時から羊を追い始めたのだろう。幾つになったら、止めるのだろう。日曜はあるのだろうか。本を読むだろうか。歌を歌うだろうか。いつも独りなのだろうか。羊飼いたちも恋をするだろうか。いつ、どうやって、結婚の相手を見つけるのだ。どんな、結婚生活だろうか。生まれた子供は、また、羊飼いになるのだろうか。
分からない。分からないことだらけだ。
でも、一番分からないのは、結局、彼らが持っているの時間の相であるのだ、と思った。
一日は長いだろうか。退屈だろうか。一生は長いだろうか。退屈だろうか。
彼らの身体の中を、時間はどのように流れて行くのだろう。あるいは、時間の上を、彼らはどうやって、動いているのだろう。
おそらく、彼らの持つ時間は、私たちの時間と、何とも違うことだろう。
羊を追うだけの一日。羊を追うだけの一年。羊を追うだけの一生。
何と無駄なことだ。
で、私たちの一日は? 私たちの一年は? 私たちの一生は?
何と無駄なことだ。
羊飼いに与えられる時間。私たちに与えられる時間。同じだけ無駄である。しかし、この無駄以外に羊飼いに生はない。私たちにも生はない。だから、無駄でいいんだ。無駄以外の生はないんだ。
私は、ハッキリと自覚した。これが、私という時代の見ようとしている夢だと。その夢の中で、私は羊飼いに出会った、と。
無一物同士が、この砂礫の原っぱの上で、出会ったのだ、と。
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