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* 羊飼いたちの時間 *
<現代の異教徒としての羊飼い>(1997.4.28)
羊飼いたちは腕時計をしているだろうか?
いや、いいんだ。実際の羊飼いがミッキーマウスの腕時計をしていても、携帯電話を持っていても。私が考えたいことは、こうだ。時計に縛られない一日とはどういうものだろう、と。
彼らは六時五十五分ぴったりに起きる必要はない。七時二十八分に家を飛び出し、七時三十六分の電車に乗り、北千住で八時三十二分の地下鉄に乗り換え、今度は西日暮里で八時四十四分の山手線に乗らなくとも、よい。分刻みの会議もアポイントもないだろう。
だいたい夜が明けたら出掛け、だいたい日が暮れたら帰ればよい。
羊飼いは「時計」をしていない。
で、「時計」をしていない日常とは、どんな日常だろう。
逆から考えよう。時計を必須とする私たちの生活とは何だろう。
時計の発明は、新しい「時」の発見であった。
私たちは、時計の上で生活をしている。
小学校に上がったとき、先生にまず最初に、時間を守れと言われた。そして、時間割をもらった。おしっこは休み時間まで我慢しなければならない。お腹が減ろうが減るまいが、昼の時間は決まっている。
このことは、結局、何なのだ。
ともかくも、今からすれば、その後の人生のほとんどすべてだった。
それ以来、ずっと、時計通りの生活してきた。私が毎朝六時五十五分に起床し、七時三十六分の電車に乗る。一本でもはずしたら、それは、ほとんど罪悪だ。
日常生活ばかりではない。今や、時計は私たちの中で、さらに内面化している。私たちは時間通りに生きている。入学、入社、定年。私たちは、時計が時を刻むベルトコンベアーの上を進んでいく。
現代に神がいるとすれば、それは時計だ。
羊飼いたちが時計を必要としていないということは、どういうことなのだ。
そう、彼らは、現代の異教徒なのだ。
シルクロードの砂礫の原で、八十キロのスピードをもって擦れ違ったとき、私が彼らに感じた親しみ、違和感、あなどり、羨望、これらの感情は彼らが異教徒であることから生まれたものであるに違いない。
では、彼らの神は何だ。時計という神をしらない羊飼いたちは、如何なる神のもと、如何なる一生を送っているのだろう。
私は知りたく思う。
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