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* 羊飼いたちの時間 *


<私たちの時間 羊飼いたちの時間>(1997.4.30)

 私は心を虚しゅうして思い遣ろうとする。羊飼いたちの時間を。シルクロードのゴビ灘や内蒙古の大草原の上を流れる時の形を。

 羊飼いたちは「時計」を持っていない。時計がなくとも、時間はあるだろうか?
 おそらく、誰もが、「勿論、ある」と答えることだろう。
 そうだろうか?
 時計がなくとも一日はある。日は昇り、日は沈む。ひと月もある。月は満ち、また、欠ける。一年もある。花は咲き。散り。また翌年の春には、咲く。
 それでも、私はいぶかる。時計がなくとも、時間はあるだろうか、と。
 私は繰り返し繰り返しシルクロードや内蒙古の草原で出会った羊飼いたちの姿を思い浮かべてきた。そして、繰り返し繰り返し、果てないゴビ灘を隈無く照らす光を、果てない草原を吹く風を思い浮かべてきた。私は思う。羊飼いたちには「時間」はない、と。少なくとも、ビルと谷間に、コツコツコツと秒針が刻み行くような無機質な「時間」はない、と。

 誰が時計を創ったのだろう。
 ゼンマイ仕掛けの時計が発明されたとき、そこにイメージされたのは、一本の直線としての「時間」であった。その直線の上を、コツコツコツコツ、と「時」が等速に移動して行く。そういう「時間」であった。
 日は昇り、日は沈み、また日は昇る。その間を24で分割することはできる、それをまた60で割ることもできる。さらに60で割ることもできる。
 そしてどうなった?
 コツコツコツコツ。
 宇宙生成のはるかあなたから、宇宙消滅のとおいかなたまで。時は、等速に、自動的に、機械的に、動いて行く。
 本当にそうだろうか?
 ながーく延びた金太郎飴のように、どこを切っても同じ顔。それが、時というものの姿。
 本当にそうだろうか?

『ゾウの時間ネズミの時間』(中公新書)のなかで、本川達雄氏が面白いことを書いている。ネズミは数年しか生きないが、ゾウは百年近い寿命をもつ。これだけを見ると、ゾウが得のようだが、本川氏は違うと言う。大きな動物ほど時の流れが遅くなる。何をするにも時間がかかる。時間は体重の 1/4乗に比例するのだそうだ。ネズミは小さい分、心臓の鼓動も早く、呼吸も短い。早く成熟し妊娠の期間も短い。ゾウは逆だ。心臓の鼓動は遅く、呼吸も長い。ゆっくり歩き、ゆっくり子供を産み、ゆっくり死ぬ。このネズミとゾウだが、一生の間に心臓が打つ回数は同じだそうだ。二十億回。ネズミとゾウに限らない。哺乳類ではどの動物でも二十億回。
 そしてこう言う。
「もし心臓の拍動を時計として考えるならば、ゾウもネズミもまったく同じ長さだけ生きて死ぬことになるだろう。小さい動物では、体内で起こるよろずの現象のテンポが速いのだから、物理的な寿命が短いといったって、一生を生き切った感覚は、存外ゾウもネズミも変わらないのではないか。」

 時計の発明。それは、「時」の発見ではなく、発明であった。
 時計が「一秒」を創ることで、硬直した「時」が創り出された。
 内蒙古の大草原に立ち、目をつぶってみるがいい。
 目をつぶるくらいなら、東京のビルの谷間でも同じ?
 そうではない。
 ゾウとネズミの話は、時間の長さのをテーマにしている。しかし、長短だけの問題ではない。私たちが時間を長短でしか測ろうとしないのは、すべてをできるだけ空間化したいという、五感のながで視覚に多くを頼って生き延びてきた人類のやむを得ぬ性癖であろうが。
 内蒙古の大草原で目をつぶる。時は、長い短いの物差しだけで測るものではないことが分かる。時は、耳に聴こえる。時は、肌に触れる。時は、息に吸い込まれて胸のなかに入ってくる。時とキスをする。舌を絡める。
 時というものが、雲のようにフワフワしていたり、若葉のようにツヤツヤしていたり、犬の腹のように暖かかったりして何が悪いのだ。ある時は春雨のようにしっとりと、ある時は夏の驟雨のように激しくて何が悪いのだ。出会いの夜のように軽やかであったり、別れの朝のように重かったりして何が悪いのだ。
 いったい誰が、時を、小さい時計の中に押し込めたんだ。その結果、いったいいつの間に、時計は私たちの神になったのだ。

 もう一度言おう。
 時計の発明は、「時」の発明であった。
 直線の上を、コツコツコツと進んでいくという「時」は、ひとつのフィクションにすぎない。世界を解釈するひとつの仮説にすぎない。
 時は、本当に、流れるものなのか?
 時は、本当に、どこかからどこかへ進んで行くものなのか?
 時計が刻む「時」しか、この世に、時はないのか。
 あるんだよ。フワフワ、ツヤツヤ、あったか、しっとり、エトセトラ。
 時計が刻む「時」しか想像できないとすれば、それは明らかに、想像力の欠如なのだ。羊飼いたちを見ることで、私たちは、自分たちの想像力の欠如を自覚するのだ。私たちが速く歩き、羊飼いがゆっくり歩く。そんなことではない。長短の差でもなく緩急の差でもなく、時計が刻み出す「時」ではない時を彼らは生きているのかも知れない。羊飼いは、日がな一日羊を追う。雨の日も、風の日も。それを生まれてから死ぬまで繰り返す。彼らは退屈をしているだろうか。何を考えているのだろう。彼らの頭のなかには、何があるのだろう。彼らが知っている時は、私たちが知っている「時」とは全然違うものであるのかも知れない。
 そう、羊飼いたちは、「時計」を持っていない。
 蒙古の大草原には、養殖された「時」ではなく、野生の時が群をなして生息しているのかも知れない。

 私は、羊飼いたちの時間を想像しようとする。内蒙古の草原にある時を、手を伸ばして、掴もうとする。


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