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* 羊飼いたちの時間 *


<時計を捨てて羊飼いになろう>(1997.4.30)

 私たちは、時計を捨てて羊飼いにならなければならない。

 時計が象徴しているものは二つだ。
 ひとつは、社会的規範。学校にあがって時間表を配られ、今、毎朝間違いなく七時三十六分の電車に飛び乗る。
 でも、本当はどうでもいいんだ。学校も会社も、三十分早く行っても一時間遅く行っても、どうってことはないんだ。
「右向け、右」をしているとき、ひとりだけそっぽを向いたヤツがいても、どうってことはないんだ。それだけのことだ。
 そう。思い出したらいい。私たちはシジフォスだ。所詮、すべての行為は無駄なのだ。だからこそ、どうやって自分の時間を生きるか。それだけが、問題なのだ。
 蒙古の大草原に立ってみろ。時間表も七時三十六分の電車もどうでもよくなること請負だ。
 時計なんか捨てた方がいいんだ。いま、世界が何時だっていいじゃないか。心臓が打つのは二十億回だ。心臓が一回打つ度に一つずつ数が減っていく時計を腕にはめている方がよい。
「今、何時」
「二時半」
 こんな会話より、
「あと何回」
「まだ十二億回ある」とか「あと、九千回しか残ってないわ」
とかの方が面白いし、その人のためになる。
 私たちは社会になれすぎた。「私」に帰らなければならない。そのためには、時計を捨てなければならない。

 時計があとひとつ、象徴しているもの。
 それは、時間の連続性だ。時計の針を見るがいい。四十五秒の次は四十六秒。その次は四十七秒。飛び越えることもなければ、戻ることもない。過去も見えている。未来も見えている。過去の歩みは、現在を決め、未来を約束する。
 因果律であり、歴史主義だ。
 それは、「私」の連続性でもある。
 そんなものは信じない方がいい。昨日の「私」が、何故、今日の「私」でないといけないのだ。明日は、何故、今日の続きを歩まなければならないのか。
 私は夢見る。毎朝生まれ変わる自分を。
 私は夢見る。熊を。秋がくる。鮭が川を上がってくる。熊はそれを知っている。山を下りる。川を見る。熊が初めて川を見るように、川が見ることができたら、どんなに素敵だろう、と。
 私は夢見る。草原に清冽な朝がくる。地平線の彼方より、その日の、太陽が昇る。その太陽が、毎日新しい太陽に見えたら、どんなにいいだろ、と。
 羊を追う。昨日は昨日の道。今日は今日の道。
 羊を追いながら自問する。
 自分はどこから来たのか。どこへ行くのか。
 見渡す限りの大草原。吹く風に聞いてみる。答えがあってもいい、なくてもいい。ただ、風だけはちゃんと吹いている。

「私」に帰るためにも、「私」を捨てるためにも、私たちは時計を捨てなければならない。時計を捨てて、羊飼いにならなければならない。


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