旅チャイナ(トップ)ホテル大全レストラン大全ぬいぐるみ屋観光バス情報
楼蘭倶楽部「中国ニセモノ考」のトップ


<カンパイ! ところでこの茅台はホンモノ?>

「茅台酒」という酒がある。「汾酒」や「五粮液」などとならび、中国では最も有名な酒のひとつである。
「茅台酒」と聞くと、田中角栄と周恩来の乾杯を思い出される方も少なくはないだろう。そう、一九七二年。時の首相田中角栄は中国を訪れ、周恩来総理との間で「日中共同声明」が署名され、ここに、日中の国交は回復した。まさに歴史的な一齣であった。九月二十九日であった。
 その夜、周恩来総理は人民大会堂に田中首相を招き祝宴を催した。その時供された酒がこれであった。周恩来は杯を挙げ田中角栄に乾杯を促した。「カンペイ!」、と。満面笑みの田中はこれに応じ一気に飲み干そうとした、「乾杯!」……が、余りの強さに一瞬顔をしかめた。酒の度数は五十三度。田中首相の、そして、日本人の知らなかった中国の酒の強烈な濃さであった。国交回復……未知の国・中国との、あらためての、出会いであった。ともかくも華やかな饗宴であった。そして、このエピソードはそのなかのひとつの「華」でもあった。
「茅台酒」は国酒とも言われる。中国政府が主催するレセプションでは常に供されるからだ。国レベルだけではない、舌の味わいも香りも独特なものがある、知名度も高い、高級感もある、ということで、民間でも、大切なお客さんをもてなす宴席には好んで供される酒である。
「これが有名な『茅台酒』ですか。なるほど美味しいですね」
 もし中国側に招かれた宴会の席で乾杯用の酒として「茅台酒」が出されたらこう言ったらよい。そうすると、中国の人は喜んで周恩来首相が田中首相を招いた時のことを話すだろうか。あるいは、この酒を造るためには、普通の白酒の二倍以上の穀物を必要とすること、六回の蒸留三年のねかせが必要なこと。だから美味いのだ、だから国酒なのだ、と自慢げな講釈をするかも知れない。ともかくも、会話はうまく弾むだろう。商談もスムースに進むかも知れない。勿論、それでよい。かく言う私自身、今までに何回となく「茅台酒」で「乾杯」を繰り返し、こういう会話に参加してきたことか。

 ところが、少し前に、ショッキングな記事が新聞に載ったことがあった。ある調査によると、巷の宴会で使われている「茅台酒」の八十五%がニセモノである、と。
 これが本当だとすると、今まで何回となく用いてきた褒め言葉、「これがあの有名な『茅台酒』ですか」。「さすがに美味しいですね」、はどうなっちゃうのだろう。中国の人からだって何度も聞かされた。「なにしろ、倍の穀物ですから」。「三年ですからね」。これらはどうなっちゃうのだ。白々しいといったらありゃしない。
 それにしても、そんなことがあり得るだろうか? 逆ならまだ分からないこともない。十五パーセント程度のニセモノが混じっている、というのなら。「茅台酒」のほとんどがニセモノ、これは、ちょっと信じにくい。何人もの中国の友人に尋ねてみた。
「そんなことあり得るだろうか?」
 誰の答えも、驚くほどに、似たものだった。「勿論、あり得るでしょう……。中国ですからね」、と
 当の中国人がこれだけ自信を持って言うのだから間違いない?
 だとすると、本当はこう会話であるべきだったのだろうか?
「乾杯! ところで、この『茅台酒』、やっぱりニセモノなのでしょうかね?」
「おそらくはね……。三年どころか三週間でもねかせてあればいいんですけどね……」
 全然盛り上がらないね。こんな乾杯は。
 いや、盛り上がらない以上に、その乾杯とともに約束された友情や協力も空虚な絵空事みたいで寂しい気持ちになる……。でも、もしかしたら、それは日本人の潔癖性からくる感傷だろうか?

「和田さん、いいじゃない。ホンモノだってニセモノだって。どうってことないですよ。ホンモノのつもりで飲んでいれば」
「中国ですからね」、と答えた中国の友人のひとり馬慶明さんは、こう言って私を慰めて(?)くれる。
「ニセモノに高い金を払うのは馬鹿馬鹿しいじゃない」
「高い金を払う限りにおいて、ホンモノの可能性があるんですから。ホンモノの可能性がなければ、はじめから、ニセモノもないんだし。ホンモノかニセモノか分からなくて飲むからホンモノだと思って飲めるんであって、高い金を払わなければニセモノも飲めないじゃないですか。」
 なにやら哲学的な議論になってくる。

 騙されて飲んでいる方も馬鹿馬鹿しいけど、製造元の悩みはもっと深刻だろう。その遺失利益たるや莫大なものになるだろうに。
 値段を高くしすぎて却って損をした? 欲張りすぎたということなのだろうか。田中元首相が訪中した当時、「茅台酒」の値段は一本四元ほどであったはずだ。ところが、今は、同じ酒が一本三百八十元。この二十数年で百倍近くに跳ね上がったことになる。
「これじゃあ、ニセモノが出てくるのもしょうがない?」
 馬慶明さんは即座に答える。それは違います、と。値が高いからニセモノがはびこるのではない、と。
 彼の説明はこうだ。
「二鍋頭」という酒がある。「茅台酒」が高級な酒の代表なら、「二鍋頭」は北京の庶民的な酒の代表である。こちらは一本五元。コストは同じようなものなのかも知れないが、「茅台酒」の七十分の一で買える。で、この酒が、田中元首相の訪中時にはいくらだったかというと、一.七元。つまり、「二鍋頭」は「茅台酒」が百倍になる間に三倍にしかなっていない。ところが、この昔も「格安」今も「格安」のこの酒のニセモノも、ちゃんと、市場に大量に出回っている、と。
「つまり、単価の高い安いじゃないんですね。利益とコストが釣り合うなら、必ず、ニセモノが出回る。コストというのはバレた場合の刑罰を含めてですけどね。また、市場もニセモノを求めている。これが中国なのですね」
 これって市場経済? 「計画経済」から「市場経済」への転換。中国現代史における最もエポックメイキングな事件と言ってよい。一九七八年十二月。中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議。この会議において、「改革・開放」路線への転換が議論され、採用された。まさに歴史的会議であった。その会議をリードしたのがトウ小平であり、彼亡き今も、「現政権の課題は、畢竟、トウ小平が敷いた改革・開放路線をいかに継続、発展させるかだ」などと言われるほどに彼の影は絶大であり、その会議の果たした役割は現代中国の在りようにとって決定的なものであった。ところが、ニセモノの世界では、市場経済などは当たり前のことであって、何十年も前から実現されていた。スゴイ?

「中国ですからね」……。いやいや、確かにニセモノが多い。日本で普通に暮らしているとニセモノのことなど余り意識しないものだ。ところが、この国に住むとちょっと違う。日常の生活のなかで、否が応でも「ニセモノ」に面と向かわざるを得ないことになる。例えばタクシーに乗る。五十元札を払ってお釣りを貰おうとする。すると、運転手が、その札を透かしたり、親指と人差し指で擦ったりする。そうして言う。「これはニセモノだ。別なヤツを下さいな」。こんな経験、日本ではまずすることはあるまい。ところがこの国では日常茶飯事に属す。こんな経験を何度かすると、金を払う度に、これはホンモノだろうか? ちゃんと受け取ってくれるだろうか? なんて心配をしながら金を出すことになる。金を払うのも疲れる。「中国ですからね」。

 と、いうわけで、「中国ニセモノ考」。
 先ず、この国に暮らすとどんなニセモノと付き合うことになるのか、その例を思い付くままに挙げてみることにしようか。


「中国ニセモノ考」の目次に戻ります

「旅は舞台 演じるのは」のトップ・メニューに戻ります