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<新百元札>

 今年は新中国の建国五十周年。それを記念して、十月一日の国慶節(建国記念日)を期して、新しい百元札が発行された。従来の百元札には建国に功績のあった四人の指導者の肖像が印刷されていた。毛沢東、周恩来、劉少奇、朱徳である。新しいものでは、それが、毛沢東一人になったという。また何故だろう? この「非」毛沢東化と言われる、この時代に。
 それはともかく、市民の間では、この新しい紙幣発行の本当の狙いはニセ札の防止にあるのだ、ということがまことしやかに言われている。国中に精巧なニセ札が横行している。この際デザインを一新し、尚かつ、新しい技術の粋を集めて簡単にはニセ札が作れないようにしてあるのだ、と。透かし。蛍光繊維が埋め込めれていることによる発光。磁気を帯びた線が縦に埋め込まれているがその線はよく見ると微小の文字の集まりである。紙にも特殊な技術が施してあり、たとえば毛沢東の服の部分を触ると繊維のようにザラザラしている。等々。「凄いね」。見たこともないうちから感心している。
 そう言われると、ちょっと見てみたいものだ、と思うのが人情だろう。新しくても古くても百元は百元、買えるものは同じ、と分かってはいてもだ。ところが、「十月一日の国慶節を期して」出回っているはずの新百円札に、十日たっても二週間たっても、なかなかお目にかかれない。みんな使わずにどこかにしまっちゃっている? 現実的な中国人がそんなことをする? とにかく、どこへ行っちゃたんだ、新しい毛沢東は。

 十月の十八日。銀行で両替をした。替えたのは日本円の五万円。およそ三千八百元になる。
「新しい百元札あります? あったらください」
「ありますよ。全部そうします?」
 さすが銀行だ。街になくともここには沢山あるらしい。
「そうね。……でも、なんで街で見掛けないの?」
「店で受け取らないからですよ」
「エッ?」
「まだ、誰もホンモノとニセモノの区別がつかないから……これに対応した札の判別機もまだ出ていないし……」
 なるほど。じゃあ、ここで三十六枚もらっても全部ニセ札かも知れない? 少なくとも、使えない? そんなもの三十六枚も持っててもしょうがないじゃないの。
「あっ、全部じゃなくて、二、三枚でいいや。二枚にして」
 なるほど精巧に出来ている。右手の親指と人差し指で擦ってみると、その感覚はいままでのものとはちょっと違う。それにしても、お金なのだから、肌触りがよいだけでは話にならない。絹じゃあるまいし。これを繋ぎ合わせてパジャマを作ろうってわけではないのだ。問題は使えるかどうかだ。と、いうわけで、早速使ってみる。

 先ず、タクシー。運転手の反応は明瞭だった。新しい札をみた途端、ろくに確かめもしないで、「前のヤツない。そっちがいいなあ」ですって。ホンモノだよ、と言っても「ワタシャ、とにかく古いヤツが好きなんで」。やっぱり使えない。
 自由市場でネギとアスパラを買った。彼女は札を灯にかざしたり、掌で撫でたり、両手で引っ張っていた。二十秒ほども。「ホンモノらしい」。そりゃホンモノさ、お釣り頂戴、と言うと、また、灯にかざしたり、掌で撫でたり、両手で引っ張ったり。また二十秒ほど。最後に、「いいや」、と言ってお釣りをくれた。なんだ使えるじゃない。
 ホテルのレストラン。新百元札を出した。両手に持ち、顔に近づけてじっと見る。そのまま何も言わずに受け取った。「大丈夫?」。こっちが尋ねる。
「きっとホンモノですよ」
「受け取ったことがあるの?」
「いえ。初めてです」
「それじゃ分からないじゃない。判別機にかけたら?」
 聞くまでもなく、こういうちゃんとしたところにはニセ札の判別機があるに決まっている。
「どうせウチの機械では新しい札の判別が出来ませんから……」
「やってみなければ分からないじゃない。試してみてよ。ニセ札だったら困るでしょ」
 どっちが客だか分からない。
 機械に通すと、「ホンモノ」と判断された。機械は札からコードを読み、決められたもの以外をはじく仕組みになっている。つまり、コードが正しく読まれたのだ。なんだ、古い機械でもちゃんと読めるんじゃない。みな試してみないだけで。

 百元札一枚で相当楽しめる。新しく出たばかりなのにと言うべきなのか、新しく出たばらりだからと言うべきなのか、とにかく、人々のニセ札に対する警戒心というのは相当に強い。これが中国だ。こう言ってもさほど的外れではないだろう。近く日本でも二千円札が発行されると言う。しかし、こういう反応は日本人のなかには、まず、ないだろう。
 受け取る側の緊張感にこちらも影響を受ける。新しい札を差し出す時の手つきも顔つきも、我ながら今思っても、ぎこちないものであったに違いない。自分が偽造したニセ札を差し出しているような……あるいは、子供銀行オモチャの札を出しているような……。そんな変な、「不安な」とでも表現すべき気分であった。

 その「不安」さというのは、考えるに、自分が秩序によって守られていない、という不安なのかも知れない。秩序? 国という秩序?。法という秩序? 道徳という秩序?


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