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<「一看、二摸、三聴、四測」>

 既に述べた。こちらで新聞を見ているとニセ札に関する記事が驚くほど多い。こんな具合だ。「2元の偽札が登場」。「台湾籍の漁船から6,200万元分(日本円にすると約8億5千万円)の偽人民元を押収」。「新100元札、発行一ヶ月足らずで早くも大量の偽札」。「偽札取り締まり週間がスタート」。
 そう。中国には「偽札取り締まり週間」があるらしい。日本に「交通安全週間」や「火災予防週間」があるように。記事は言う。「偽札取り締まり宣伝週間が13日、全国規模でスタートした。中国人民銀行営業管理部は本店前に宣伝カウンターを設け、人民元に関する知識や偽札の見分け方を民衆に紹介し、関係資料を配付した。宣伝週間は『偽札づくりに打撃をあたえよう』『人民元を守り、人民元の信用の維持に努めよう』などをスローガンとしている」、と。
 日本人が読むと、何だか、冗談のようだが本人たちは真面目なのだ。それが、また可笑しい。配布された冊子にはこう書いてある。「一看、二摸、三聴、四測」、と。「看」は目でよく見る。「摸」は手でなでる。「聴」は揺すったり弾いたりして音を聞く。「測」とは機械で検査する、というわけだ。
 大変なのだ。この国でお札を受け取るのは。よく見て、なでて、そのうえ音まで聞かなければならない。そして、実際こちらの人はそうしているのだ。前に述べた如く、「ババ」を掴まないために。日常的に十三億人でババ抜きをしている、と思えばよい。
 それでも、と言うべきなのかどうか、一年で発見されるニセ札はいくらぐらいあると思います? まず、フツーの日本人には想像がつかない額になる。一九九八年の統計によれば、何と、四億七千万元、日本円で約七十億円になる。

 世の中にはニセ札とホンモノの札がある。何千万枚、何億枚というニセ札がホンモノの顔をして国中をぐるぐる廻っている。流通している分にはホンモノもニセモノもない。発見されて、ニセ札は初めてニセ札になる。中国というのは、そういう世界なのだ。

 渡したお札を店員がじっと見る。灯りに透かしたり、引っぱってみたり。……。余りよい気分ではない。自分が出した札が疑われている。自分も不安になる。疑われているのは、お札なのか自分なのか。毎日毎日、そういうちょとした不安を積み重ねながら、フト思う。この不安とは、知らぬ間に大きな権力と対峙する立場に立たされてしまっているという恐れではないだろうか、と。国民党時代に、突然に「アカ」と決めつけられるような。文化大革命の時代に、突然に「反革命分子」の烙印を押されるような。みんなで一緒に仲良くやってきた。ところがだ、突然に「お前は異端者だ」、と指差される。「他のみんなと同じです」、と抗弁しても聞いては貰えない。「一看、二摸、三聴、四測」でお前はニセ札だと断罪される。断罪するのは国家権力だ。ニセ札は、グッチのニセモノとは、明らかに、違う。国家の威信に対する反抗なのだ。しかも、ニセ札は自分がニセ札であることを知らない。今の今まで自分は善良な市民だと思っていた。それ故に驚愕と孤独感はさらに大きい。自分も知らなかった素性を暴かれ、一瞬のうちに国家の敵にされてしまう、そういう不安。

 経験的に言って、札が新しければ新しいほど相手は慎重になる。無論、そういうものだろう。手垢にまみれたニセ札というのは、余り、ないものだろう。と言うより……、手垢にまみれているということは、それだけ多くの人の手を経て世の中を廻ってきたということだ。その分、これからも廻り得る可能性が高いということだ。廻っている限りにおいては、ニセ札もホンモノもない。安心して受け取り、安心して使える。
 ぐしゃぐしゃだったり、醤油のシミがついていたり、汚い字で計算式が書いてあるような、そういう古いお札を渡す安心感。それを積み重ねながらフト思う。みんなと同じというのが一番だ、と。国中が共犯者なら、もはや、犯罪ではない。みんな一緒なら、「アカ」だって「反革命分子」だって構わない、と。
 とにかく、この国では、手垢にまみれたお札には何とも言えぬ安心感があるのだ。ニセ札にせよホンモノにせよ、みんなが使ってきたのだという。

 国が「偽札取り締まり週間」を設け、「一看、二摸、三聴、四測」を呼びかける。民衆も国中でみんなが「一看、二摸、三聴、四測」を実行している。しかし、同じことをやりながら、両者がこれに託してものは全然違う。一方は、「人民元の威信」。一方は、とにかく「ババ」を掴みたくない、と。この落差は、そのまま、中国人にとっての「国家」と「私」との間の距離なのかも知れない。


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