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<ニセ札という悦楽>

 私の目の前に一枚の百元札がある。いましがた、天津甘栗を買おうとうして店のおばちゃんに受け取りを拒否されたものだ。ちゃんと透かしも入っている。毛沢東、周恩来、劉少奇、朱徳とちゃんと四人が仲良く並んでいる。並び方も一緒だ。序列が変わっているなんてこともない。
 本当にニセモノだろうか?
 財布から別な百元札を数枚取り出して比べてみる。なるほど、並べて見ると少し色がくすんでいる気がする。実際にニセモノなのかも知れない。
 大きさはどうだろう。重ね合わせてみる。ああ、これは間違いない。縦が一ミリほど小さい。
 考えてみると、ちょっと不思議だ。ニセ札を造るとして、何を真似るのがたやすいって、それは、大きさだろうに。色や図案を識別できなくするのは難しいだろう。透かしを入れるのも大変だろう。これだけ精巧にできているのに、ちょっと小さい。なぜ、そんなニセモノを造ったのだろう。
 それにしても、あのおばちゃんよく見破ったね。くすんでいると言っても、それは灯りのしたでじっくり見較べるからのことであるし……。一ミリの違いなんて見ただけでは分からないし……。
 撫でていたんだよな。こう。親指と人差し指で。手元の数枚の札を順に撫でてみる。フムフム。少し厚ぼったいか……。しかし、これで見分けるとは、あのおばちゃん、なかなかデキルな。あれこれ撫でているうちに、混じって、どれがどれだか分からなくなる。あれ、どれがホンモノのニセモノだっけ。そう、大丈夫。重ねればすぐに分かる。ふと、思う。ちょっと小さいのは、ひょっとして、造った本人が簡単にニセモノを見分けるため? 

 今日の甘栗はなかなかに美味い。
 一度、十月の上旬に北京から東へ百五十キロ、河北省の遵化の辺りを車で走ったことがある。丁度、栗の収穫の時期であった。一面の栗林、そして、いがを剥かれ、大きな竹の籠に入れられ栗、栗、栗。これが日本へ運ばれ天津甘栗になるのか。この時期になると、北京の街でも甘栗が売られ始める。こちらでは「天津甘栗」とは言わない。「糖炒栗」。店の奥で、男が、大きな釜をシャベルで掻き回しながら栗を煎っている。店先には、油でテカテカになった栗がスイカの種やヒマワリの種と一緒に並べられている。スイカの種やヒマワリの種は一年中あるが、「糖炒栗」はこの時期だけだ。初秋から冬にかけての北京の風物詩と言っても良いだろう。
 甘栗を食い、ニセ札を眺める。ニセ札を眺め、甘栗を食う。ニセ札って何だろう? いや、それ以前に、札って何だろう。こんな紙切れとの交換で甘栗が手に入ること自体が、そもそも、おかしいのだ。人間特有の幻想なのだ。サルに聞いてみる。この紙切れと栗とどっちがいいかって。サルは迷わない。その意味では、すべての札はニセ札なのだ。
 言葉と同じだ。世界を抽象化させる。欲望を抽象化させると札束になる。札束は食べることも着ることもできない。それだけに無限の物欲をその中に積み込むことができる。何が買いたいのではない、何が欲しいのではない。ただ、金持ちになりたい、こういう人はきっとこの世にワンサといるだろ。
 札束が欲望の抽象化なら、ニセ札造りというのは、札束をさらに抽象化したものだ。札を印刷する機械を手に入れるということ。一万円札を好きな時に好きなだけ印刷できる。今日のところは、三百枚ぐらいにしておこうか、とか。こういう悦楽。サルには、こういう悦楽は分からない。やっぱり、一袋の甘栗のほうがよい。

 ニセ札というのは、海賊版のVCD とかニセモノの陶磁器とかとは明らかに異なる次元にある。それは、札という抽象性にある。VCD はどこまで行っても、VCD でしかない。何万枚作ろうが何千万枚作ろうが、VCD でしかない。甘栗と同じようなものだ。サルにも分かる楽しみ。
 金持ちになる、ということではない。権威を手中に収める、ということ。先ほども述べた。すべての札はニセ札である。そのなかで、特定のものだけを「ホンモノ」と認定する。その認定権は、国家権力そのものである。今ここに一ミリだけ小さいニセモノがある。くすんではいるが、如何にも楽しそうに、ここにある。「王侯将相いずくんぞ種あらんや」。この寸詰まりの百元札を眺めていると、こんな言葉が浮かんでくる。秦への反旗を翻し世を乱世に導いた男、陳勝の言葉だ。オレが皇帝になって何が不都合なことがあろうか、と。二千二百年前の陳勝に限らない。日本人とは異なる中国人の性行の一面を表している、と言ってもさほど的外れにはなるまい。
 よく言われるように、彼らは交通信号を守らない。赤だろうが何だろうが一向に気に掛けない。自分の都合で道を渡ろうとする。「なぜだろう?」。中国の友人に尋ねてみる。「中国人はね、嫌なんですよ。人のいうことを聞くのが」。これは、ひとつの正解だろう。また、勤めていた会社をある日、サッと辞めてしまう中国人は多い。辞めてどうするかというと、自分で会社を興す。「なぜだろう?」。本人に聞いてみる。たいていの人はこう言う。「嫌なんですよ。人の下にいるのが」。社長になりたいんだ。これも、ひとつの正解だろう。

 大量のニセ札が出回る。昨年発見されただけで日本円にすると七十億円。そのことと、赤信号でも渡ること、会社を辞めて社長になること、これらは何らかの関連があるのだと思う。
 欲望の抽象性、権威性。それを国家ひとりに独占させず、自分もその一角に割り込む。王侯将相いずくんぞ種あらんや」。他人の権威を認めぬ、万人の万人に対する闘い。目の前の寸詰まりの百元札は、おそらく、そういう悦楽として、ここにある。


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