《沙漠》
<沙漠は宿命>
楼蘭王国は沙漠の中のオアシス国家であった。
今は、沙漠の中に埋まっている。
沙漠の中に埋まっていること。
このことは、楼蘭にとって、何か、決定的なことであるように思われる。ジャングルに埋もれているのでもなく、海底に沈んだわけでもなく、流砂に埋もれている。
もし、そうでなければ、1900年のヘディンの発見は、世界をあれほどには興奮させることはなかったであろうし、今なお、私たちをこうも引き付けはしないであろう。
楼蘭は沙漠の中のオアシスであった。漢の時代。敦煌を出て西に向かう。沙漠の中を歩くこと二十余日。最初に辿り着くオアシスが楼蘭であった。シルクロードを行く隊商はどうしてもそこに寄らねばならない。それ故に、楼蘭は栄えた。沙漠あっての楼蘭であった。その楼蘭が、沙漠に埋もれて滅ぶ。そして、沙漠の中で千五百年以上眠り続けた。それ故に、ミイラが残り、仏塔が残り、木簡が残り、様々な文物が残った。そして、今、沙漠に埋まった王国であるが故に私たちを魅了する。
そう。沙漠は、楼蘭という王国の宿命であった。
<「入ると出られない」砂漠>
「タクラマカン」。良い響きである。ウイグル語だそうだ。意味は、「入ると出られない」。あまり縁起の良い名ではない。
面積において世界で二番目である。一番は、サハラ砂漠。
32万7400平方キロメートル。日本の総面積が37万7800平方キロメートルであるから、日本の国土の87%に当たる。なるほど、「入ると出られない」と名付けたくなるのもうなずける。
「タクラマカン」。声にしてみると、神秘的な響きがする。 「山、高きが故に貴からず」、という。沙漠も、「広きが故に貴からず」。北の縁と南の縁に道がある。古来、数え切れぬ多くの旅人が行き交った。無数の隊商がラクダを連ね往来した。
絹が東から西へ運ばれ、玉やガラス製品や金貨が西から東へ運ばれた。モノばかりではない。仏教を伝えようと多くのインド僧が沙漠の道を東に向かった。多くの中国僧が悟りを求め救いを求めて西に向かった。
タクラマカンは、ただの沙漠ではない。情熱と夢の行き交う場でもあった。
北の縁と南の縁に沿ってオアシスが点在した。
水が湧き旅人の喉を潤していた。ポプラの木陰があり熱射を癒していた。バザールが立ち喧噪が響いていた。人々の暮らしがあり耕地があり交易があり仏塔があり石窟があり祈りがあった。
しかし、そのうちの幾つかからは、いつしか、喧噪が消えた。街が消えた。
河の流れが変わったこともあるだろう、新しい交易路が開発されたこともあるだろう、戦役に滅んだこともあるだろう。
ともかくも、過去の栄光も、喧噪も、人々の暮らしも、すべてが再び流砂に覆われた。砂の下で、静かに眠り続けた。千数百年。楼蘭であり米蘭でありニヤでありスバシである。
タクラマカンは、ただの沙漠ではない。砂の下に埋まっているかつての栄光、かつての人々のさんざめきと対話をする場でもあるのだ。
<砂の海に酔う>
橘瑞超は、彼の二回目の探険すなわち第三次大谷探検隊の時に、ッチェルチェンからクチャまで、タクラマカン砂漠を縦断している。
二十二日かかっている。
瑞超はこう記している。(「中亜探険」・白水社『大谷探検隊シルクロード探険』所録)
私の一行はただ磁石の示すところにしたがって、北へ北へと進んだのだが、二日、三日、五日、七日と経過しても、まわりの光景にはほとんど、どのような変化も起こらない。相かわらず単調で、しかもその寂寞を破るような何物も現れない。(略)一〇日一五日となっても、まわりの光景がいぜんとして変化せず、ただ目にはいるものは果てしない砂の波ばかりで、草一本青いものを見るわけではないから、一行のトルコ人たちは、つぎつぎに砂の海に酔ってきたのであった。彼らの頭はしだいに変になった。生まれたときから中央アジアの土人で沙漠という言葉には慣れきっているはずだが、一〇日行っても一五日進んでも見えるものは相も変わらぬ砂ばかりなので、このさきどうなることであろうかと、ようやく不安な気持ちにおそわれてきたらしい。
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まことに凄いものである。
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《砂の不思議》
<砂はどこから来るか?>
沙漠の砂はどこから来たのだろう?
沙漠は、どうして砂だらけになってしまったのだろう?
不思議に思って調べてみたが、これが、なかなか分からない。そのかわり、「タクラマカン砂漠」について幾つかの知識を得た。
<タクラマカン砂漠は砂沙漠である>
一口に「沙漠」といっても表面の状態によって幾つかに分類されるのだそうだ。ひとつは岩石沙漠。岩盤がむき出しになっている。ひとつは礫沙漠。荒い砂や礫で覆われていて表面が舗装されたように平らになっている。ゴビタンなどと言われるのがこれだ。ひとつは土沙漠。土によって覆われている。最後に砂沙漠。タクラマカン砂漠は、代表的な砂沙漠であり、全体が大きな砂丘に覆われている。
砂沙漠の特徴は、砂が移動すること。砂丘そのものが、砂の活発な移動を示してる。砂が移動しながら砂丘を造る。砂丘は移動しながら姿を変える。
タクラマカン砂漠における砂丘の移動の方向は一定である。北東から南西に向かう。もちろん、風の向きと一致しているはずだ。風に吹かれ、砂丘は北東から南西へ、北東から南西へと移動を続けている。
すると、北東の砂が無くなってしまう?
もちろん、そうはならない。
そうはならない仕組みがある。
<タクラマカン砂漠の下には水がある>
沙漠は乾燥をしている。なぜ乾燥をしているかというと、実際の降水量よりも可能な蒸発量が多いからである。たとえば、チャリクリクの年間降雨量は20ミリだが、可能蒸発量は3000ミリである。だから、乾燥をしている。
しかし、タクラマカン砂漠の場合、その地下には大量の水が貯えられていることが知られている。トルファンのカレイズは、それをうまく利用して地下の水を地上に出す仕組みである。
その水がは、どこから来るか?
南の崑崙、北の天山、西のパミール。これらの山から来る。6000メートルを超える山は、乾燥地帯にあっても、山越えの大気から水を奪いとる。大量の雨や雪が山に降る。それが麓に流れ下る。高いところでは氷河になる。氷河は強い浸食力で岩を砕く。雪解けの時期に、砕いた岩と一緒になって麓に流れ下る。
こうして、大量の砂と水が吐き出され、河となる。タリム盆地は、南西から東北に向けて緩やかに傾いているの。河は、砂を伴い、東北へ東北へと流れてゆく。タリム河もチェルチェン河も孔雀河も。河という河が。こうして、砂がちゃんとタリム盆地の北東部に届けられる。
また、河に入りきらなかった水は、地下を伏流することになる。
たかだか砂の話だが、こうしてみると、実にダイナミックな循環のなかで動いていることが分かる。崑崙、パミール、天山に雨が降る。その水が山を削り砂を麓に運ぶ。麓からは、河が盆地の縁に沿って時計回りに廻りながら砂を地勢の低い北東部に運ぶ。今度は、風がその砂を、砂丘を、ひと山ひと山、吹き動かしながら南西部に届ける。
楼蘭を、「流砂に埋もれた王都」という。その通りなのだ。その通りなのだが、ただ埋もれたのではない。タリム盆地の中にあるタクラマカン砂漠と、外にある山々の大きな営みの中で、砂に埋もれたのである。
さて、ここまでくると、こんな疑問が湧いてくる。
砂が山から下りてきながら循環する。すると、砂がどんどん増えることになる。そうなのだろうか?
<新しい砂古い砂・タクラマカン砂漠の砂は新しい>
タクラマカン砂漠の砂は新しいのだそうだ。
含まれる鉱物で調べるのだそうだ。サハラ砂漠やアラビア沙漠の砂は、ほとんどが石英の粒子でできている。年を経て最後に残るのが石英の粒子である。
一方、タクラマカン砂漠の砂は、多くの鉱物からできている。特に、長石類、角閃石、方解石、雲母など、柔らかくすぐに磨耗をしてしまう鉱物を含む。このことから、新しいことが分かる。
その、「新しい」というのがどれくらいの歳のことを言っているのかは分からないが。十年単位のことなのか百年単位のことなのか、千年、万年?
ともかくも、タクラマカン砂漠の砂が新しい、と言うことは、何を示しているか?
回転が良い、ということである。
先ほどの疑問に戻ろう。循環しながら砂が増えるか? 答えは、増えない。古い砂は、絶えず、どこかに行っちゃうのである。だから、新しい砂しかない。
では、どこへ行くのか?
この答えは、最新の研究でもまだ分かっていないようである。
とにもかくにも、分かったことはこうだ。
岩が崩れて礫になる礫がこすれて砂になる。岩が崩れるのは、氷河の圧力であったり、岩に染みこんだ水が氷って膨張したり、岩が太陽に強く照らされたときに、岩に含まれる鉱物の膨張率の違いによったりである。
したがって、山に近いほど礫沙漠になりやすいし、離れるほどに砂沙漠になりやすい。
そして、タクラマカンにおいては、砂は右回りに廻っている。西北から南東へは水が運び、西南から北東へは風が運ぶ。砂丘は、風に吹かれ、北東へ北東へと移って行く。
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《風》
<風と沙漠>
沙漠にいると風に敏感になる。
おそらく、これは誰でもが経験することだろう。砂しかない。二日歩いても三日歩いても砂しか見ない。動くものがない。音もない。そういう世界では、風に対して敏感になる。それなりに自然なことだ。
沙漠には砂丘がある。果てしなく砂丘が連なっている。砂丘には風紋がある。沙漠は、しばしば、海にたとえられる。砂の海。砂丘が波なら、風紋はその波のなかのさざ波。これは、実に美しいものだ。特に、朝と夕。光が横から当たるとき、大きな波も小さな波も陰影をひときわ際だたせる。
「ああ、風が吹くのだ。風が風紋を刻むのだ」。こういう想いは私たちを安心させる。動くものを発見した安堵感だろうか、それとも風に対して人間くさい優しさを見出しているのだろうか。
夜、テントの中で聞く風の音も悪いものではない。夜目覚めると、真っ暗だ。本当の暗闇。その中で風の音を聞く。それがなければ、何の音もしない。何の音もしないよりは、どれがけ心地よいことか。
「ああ、風が吹く」。今日自分が沙漠に残したラクダの足跡をキレイに消しているのだろう。明日の朝には、新しい風紋を刻んでいるのだろう。こんなことを想いながら、眠りに引き込まれていくのはいいものだ。
ともかくも、沙漠にいると、風に敏感になるものだ。
<瑞超の出遭ったカラ・ブラン>
風が風紋をつけるだけなら可愛いが、どうも、そうではないらしい。橘瑞超がこんなふうに言う。(「新彊探険日記」・白水社『大谷探検隊シルクロード探険』所録)
また私が通ったロプ砂漠やタクラマカン砂漠は、夏になると非常に風が吹く。この風は現地の土人も恐れて、カラ・ブランと呼んでいる。カラはトルコ語で黒いということ、ブランは暴風である。この砂漠の状態はどうかというと、ことごとく細かい細かい砂である。そしてそこにあるものは、何でもことごとく砂が埋めてしまう。少し風が吹けば、その風は強くなくても、砂が舞い上がって天をおおい、そのため天地は暗くなる。(略)私の遭ったもカラ・ブランは、実に一日半も間断なく吹き通していた。こうなれば物を食うこともできぬ。ただテントの中で小さくなっているだけである。
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<椎名誠が楼蘭で見た風>
椎名誠の『砂の海』、楼蘭への紀行文だ。読後、風のことばかりが書かれていた印象が残った。例えば、こんなふうに。
時おり風がひとかたまりになって「ひゅるるるる」と岩山の上をくねるように突っ走ってくる。この風こそがこのあたりの固い砂漠の唯一の生き物のようなかんじさえする。
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これは、敦煌から楼蘭に向かう途中、アルチン山脈の北麓を走っているときの描写である。
椎名誠が楼蘭に行った時には、楼蘭までの最後の直線距離にして二十キロの区間を徒歩で走破しているのだが、次の一文は、ヤルダンと灼熱の渇きと疲れとの悪戦苦闘の末、ようやく、楼蘭に辿り着いたあとの感想である。
楼蘭は砂に埋もれた幻の王国、などと呼ばれるが、実際には風の中の幻の王国と言ったほうが正確だ。とにかくそのあたりひっきりなしに風が吹いている。強い風の日は常に風の中に砂がまじっていて、それがぶつかってくる。風がこの大地の完全な支配者だった。
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いろいろな人がいろいろに言うが、分かっていることは、楼蘭には風が吹いていると言うこと。
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《ラクダ》
<ラクダがいなければシルクロードもなかった(?)>
古来、中国と西域を結ぶ道があった。その道は、遙かローマまで繋がっていた。後にシルクロードと言われる。
東から西へ絹が運ばれた。ローマからはガラス製品や金貨が中国に伝わった。仏教もこの道を伝い中国へ、そして日本へのと運ばれてきた。
それらは、みな、ラクダの背に乗って運ばれてきた。もしも、ラクダがいなければ絹は西へ運ばれただろうか? ホータンの玉は東へ運ばれただろうか? 仏教の経典は東に運ばれただろうか?
楼蘭を想い、シルクロードを考える上で、ゆめゆめラクダの存在を忘れてはならない。
<飲まず食わずで一週間>
灼熱の沙漠で、飲まず食わずで一週間歩ける、というから凄い
地球に沙漠にあるということ。ラクダという生き物がいるということ。そして、沙漠にラクダがいるということ。何で、こんなにうまくできているのだろうか?
偶然で、こうなるものだろうか?
創造主の存在。創造主の配剤の妙に思い致しても不思議ではないかも知れぬ。
昔の日本の女性の足には座りダコがあった。もちろん畳に座るからである。ラクダにも座りダコがある。お行儀が良いから? そうではない。生まれながらについている。座ったときに、この部分が熱い砂に着くことで火傷を負わずにすむ。前足と後ろ足の膝。後ろ足のフトモモの表。腹部。
人は沙漠に行くときにゴーグルを持って行く。ラクダは持っていない。しかも目玉が大きい。目に砂が入って困る?
どうも困らないらしい。二重のマブタになっていてしかもマツゲがびっしり生えている。砂嵐でも大丈夫。
耳は?
耳のなかにも長い毛が生えていて砂の侵入を防いでくれる。
鼻は?
外の熱い空気を直接入れないために、「鼻甲介」というセクションがあり、そこで空気を一度冷却してから吸っている。しかも、鼻腔は開閉自由。
まことに優れた、目と耳と鼻を持っている。その上、座りダコ。完全装備で生まれてくる。
<コブには何が入っている?>
中央アジアのラクダのコブはふたつ。西アジアや北アフリカのラクダのコブはひとつ。なぜだろう?
ラクダの側の事情は別にすると、フタコブというのは、座るのに、実に具合が良い。創造主の配剤の妙……? ヒトコブラクダには人はどうやって座るのでしょうね。
子供の頃、ラクダのコブのなかには水が入っていて、アラビアの隊商は沙漠のなかでいよいよ水がなくなるとそれを飲むのだ、と教えられた。どうやって飲むのだろう。ストローを差すとか。椰子の実じゃないんだから。
実のところ、コブに詰まっているのは水ではなく脂肪である。その脂肪を燃やしながら、ラクダは沙漠を旅するのである。
確かに、実際に乗ってみれば分かるのだが、乗って前のコブを手で触る。コブが隆として張っているときもあれば、ペシャと垂れ下がっているときもある。
さらに凄いことに、ラクダはコブの脂肪を使って体内に水を作り出すことができる。手品みたいなものだ。
ともかくも、旅をするために生まれてきた動物なのだ。ラクダは。
<橘瑞超の語るラクダ>
橘瑞超が、実に活き活きと、ラクダについて書いている。チェルチェンからクチャに向かう直前のことである。やはり、ラクダに乗り二十数日かけて沙漠を縦断した人だけに言葉に迫力がある。
(「新彊探険日記」・白水社『大谷探検隊シルクロード探険』所録)
わたしは出発点であるチェルチェンに数日間滞在し、氷塊や燃料や食糧等について十分な準備を整え、いよいよ北に向かって出発した。ところで、出発に先だってわたしはラクダに十分水を飲ませた。ラクダのあるものはバケツに五、六杯、またあるものは一〇杯以上も飲んで、みるみるその毛皮はまるでヒルが血を吸うように膨れあがって、勇気にあふれ、ほとんど足を踏みならさんばかりであった。
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《楼蘭美女》
<3800年前の美女>
日中国交正常化二十周年の紀年行事のひとつとして「楼蘭王国と悠久の美女」展というのが開催された。1992年のこと。「悠久の美女」というタイトルは、言葉に対するセンスを疑いたくなるような命名であり、如何かとは思うが、まあそれはそれとして、このとき一体のミイラが展示され注目を浴びた。
美しいミイラであった。眼は深く、鼻は高く。髪は黄褐色。明らかにヨーロッパ系の人種である。最初に、楼蘭に住み着いた民族なのであろうか。炭素14の測定からは、3880年前(+−95年)という数字が導き出された。
1980年、中国新彊文物考古研究所の穆舜英女史を中心とするグループにより発掘された。場所は、土垠の東、孔雀河(コンチェ・ダリヤ)の先端である鉄板河がロプノールに注いでいたかつての湾の付近である。
発掘されたとき、全身が毛布でくるまれていた。毛布は胸で合わさり、木製の針でとめてあった。
頭にはフェルトの帽子の被り、足には羊の皮の靴を履いていた。
帽子には雁の羽が二本、さしてあった。頭の近くには、生前に使っていたものだろうか、草で編んだ籠が置かれていた。
土を掘り、こういうものを目にしたときの気持ちというのはどういうものなのだろう?
胸元の木の針をはずし、毛布を広げると、上半身は裸身であった。下半身には羊の皮の下着を着けていた。
3800年前に楼蘭に住んだ人。
このミイラは、現在、ウルムチの新彊ウイグル自治区博物館に展示されている。
<ヘディンの美女>
「楼蘭」と聞いて、もうひとり、思い出される「美女」がいる。
井上靖の「楼蘭」は、ヘディンが『さまよえる湖』のなかで言及したミイラに想を得て書かれた。その「美女」である。
ヘディンは、発見した時の様子をこう綴る。
この時ヘディンはすでに六十歳をこえ、中央アジアの探険に費やした一生を静かに振り返るかのように、思い出の地、楼蘭へ向かっていた。しかも、舟で。ロプノールは1600年を周期に移動を繰り返す湖なのだ、やがて、再びコンチェダリヤの水は戻ってくるのだ、との仮説を発表しておよそ三十年、今、実際に、水が戻ってきた。その流れに乗って、かつてラクダで進んだ地を、今は、舟でゆく。そういう至福な時のなかにあって「美女」を発見する。
静寂と至福。『さまよえる湖』の美しい文章のなかにあっても、特に印象に残る箇所である。(白水社発行、関楠生訳)
その孤独な墓のある円錐形の小さなメサは、縦に北東─南東の方角に走っていた。その最高点は水面から九メートル、まわりの地面からは七・五メートルの高さがある。大きなメサの上から見ただけで、この小さな丘に、墓のあることがわかる。それは、タマリスクの木で造った柱が立っているからで、メサの頂上はいつも裸でなに
も小えないことからすると、柱が自然の木であるわけはないのだ。
ぽつんと立っているその柱は、掘ってみたいという気持をそそった。それでみんなは仕事にかかった。しかしこのメサの粘土はまるで瓦のように固く、もう粘板岩に変わりかけていた。それで、固い土を砕くために上陸場所から斧を持ってこなければたらなかった。墓は直角で、メサの北西の縦の面にすぐ近いところにあった。発掘者たちは、0・七メートルの深さで木の蓋にぶつかり、最初は斧で、次にはシャベルでそれを掘り出した。その蓋は、たいへん保存状態のいい、長さ一・八二メートルの板二枚で造られていた。幅は頭端が五二センチメートル、足端が四五センチメートルで、板の厚さは四センチメートル、頭は北東を向いていた。
その蓋をきれいに掃除してみるとすぐに、棺が粘土の囲いにちょうどぴったりはいっていて、掘りあけた穴を拡げずに棺を持ち出すことはできないのがわかった。それで、粘土でできている北西の縦の壁を取りのぞくことにきめた。これは時間と精カを使う仕事であった。しかしとうとう最後の障害が取りのけられ、棺を注意深くそ
ろそろと引きずり出してメサの頂上に置くことができた。
棺はいかにも沼沢地らしい形をしていた。船首と船尾をのこぎりで挽き落として水平の横木を渡したふつうのカヌーにそっくりなのである。
メサの外壁をこわす前に、われわれは蓋になっている二枚の板をはずしておいた。われわれは緊張にみちみちて、かくも長いあいだ平安を乱されることなくまどろみつづけてきた未知の死者が今こそ見られるのだ、と期待をかけた。ところが見つかったのは死者ではなく、死者をくるんでいる灰色の毛布にすぎなかった。それが死体
を頭のてっぺんから足のさきまですっかり覆いかくしているのである。この覆いは非常にもろく、さわっただけで粉々になってしまった。われわれは、頭を覆っている部分をとりのけた──そしてわれわれは彼女を見たのだ。砂漠の支配者、ローランとロプ・ノールの王女の美しさかぎりないすがたを。
彼女はうら若い年ごろに不意に死におそわれ、愛情のこもった手で毛布に包まれて、清められた丘に運ぱれた。そしてそのなかで、後の世の子らが長い安息からさますまで、約二〇〇〇年間まどろみつづけることとなったのである。
顔の皮膚は羊皮紙のように固かったが、顔のかたちと輪郭は、時のカにも変えられなかった。閉じたまぶたは、ほんのわずかばかり落ちくぽんだ眼球を覆っていた。唇のまわりには数千年間消えることのなかった微笑が今なおただよっていて、この謎のような人をいよいよ魅カある、好感の持てる存在にしている。しかし彼女は、生涯の数々の冒険についての秘密を洩らしてはくれない。ローランの多彩な図絵、湖沼地方の春の目ざめ、カヌーでの河旅などの思い出を、墓のなかへ持って行ってしまったのである。
そして彼女の眼は、どのような光景を見たことであろ! 匈奴やその他の蛮族との戦いに出て行くローランの守備兵、弓矢と投槍の戦士をのせた戦車、ローランを通過したり町の宿屋で休んだりする大隊商、シルクロードを通ってシナの高価な絹の梱をヨーロッパヘ運ぶ無数のらくだ。──そして彼女もまたきっと愛し愛されたことであろう。だがわれわれはそういうことを何一つ知ることはできないのだ。
心のなかの扉はとざされ、
秘密の部屋にはいる鍵を知るものとてない、
部屋に燃えるランブの油は、
われらとともに滅びゆく秘密。
棺の内部の長さは平均一・七一メートルで、未知の王女は身長約一・六メートルの小柄な女性であった。
午後の日を浴びて、チェンと私は、彼女が土に委ねられたときに着ていた着物をかなりくわしく調べはじめた。彼女は頭にターパンに似た帽子をかぶり、そのまわりに簡素なリボンを一本巻いていた。上体は麻の肌着で覆われ、その下には、これと似た黄色の絹の衣類をなお何枚か着ている。胸は、刺繍でかざった赤くて四角の絹の布で覆われ、青いきれで造った肌着がそれにつづいている。からだの下の部分は二重の絹に包まれている。これは一種のスカートで、黄色の絹の着物と肌着とのつづきになっている。白いきれで造ったスカートが同じように、青い着物のつづきになっている。その下に薄いスカートとズポンをはき、模様入りの上靴をはいている。腰にはまず、一種の救命帯が巻かれていた。
われわれはこれらの衣類のすぺてから見本を持ち帰った。髪飾りとか上靴のようないくつかのものは、そっくりそのまま取った。さまざまの色をした美しい模様入りの絹のきれをいっぱいつめた袋も同様である。棺の頭端の外側には、低い保護用の縁がついた四本足で四角の低い机と、赤く塗った木の椀が一つと、一頭分まるまるあ
る羊の骸骨とが見つかった。あの世への旅の途中食べるのに必要だったのだ
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ヘディンは、再び彼女を棺に収め、墓に入れ直して、その場を立ち去る。王女は、ほんの一晩この世に呼び戻されただけで、再び深い眠りについた。
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《ミイラ》
<ミイラの作り方>
ミイラといえば、先ず、エジプト。
エジプトのミイラの作り方をご存じだろうか? 何かの役に立つこともあろうかと以下に説明を……。
先ず曲がった刃物を用いて鼻孔から脳髄を摘出する。次に鋭利なエチオピア石で脇腹に添って切開して、臓腑を全部とり出す。つづいてすりつぶした純粋な没薬と肉桂および乳香以外の香料を腹腔に詰め、縫い合わす。そうしてからこれを天然のソーダに漬けて七十日間置く。水分をとり脂肪や筋肉組織を破壊し、皮膚と骨だけを残すためである。七十日が過ぎると、遺体を洗い、上質の麻布を裁って作った繃帯で全身をまく。一丁、できあがりである。
没薬というのは辞書を引くと、「北東アフリカ、アラビアなどに産するカンラン科の低木から得たゴム樹脂を含む固形樹脂。古来、薫香料として珍重された」などと書いてある。
同じく、肉桂を調べると、これも生薬として使われた植物である。
さて、十五世紀から十六世紀にかけて、ヨーロッパでエジプトのミイラが大変な人気になったことがある。誰もがミイラが欲しくてしょうがない。
何に使ったのかというと……。
ミイラは万能の薬として絶大な人気があった。
中毒、偏頭痛、膿傷、潰瘍、打撲傷、めまい。何にでも効くと信じられた。ミイラをすり鉢で粉々に砕いて、飲む。
そのために、墓は暴かれ、大量のミイラがヨーロッパに運ばれた。
死者の再生は、古代エジプト文明の最大のテーマであった。霊魂は不滅である。その霊魂がこの世に戻ったときの肉体を用意しておかなければならない。当時の科学の粋を集めた保存処理が施されたのがミイラであった。それが、三千年後にヨーロッパ人の万能の薬に利用されることになるとは、何とも皮肉であり、悲劇である。
中国人がミイラを食べる話は聞かない。新彊に行っても、ラクダの掌の料理はあるが、ミイラ炒めなんて聞いたことがない。食材に関して、あれほどの探求心と好奇心と勇気を発揮する中国人も、この点ではヨーロッパ人に負けている。
もっとも、ミイラの作られ方も違う。中国のミイラには、没薬やら肉桂やら天然のソーダやら、思わずかじりたくなるような「味付け」がなされていないようである。
<ミイラと帽子>
楼蘭で発見されるミイラは、どういうわけか、みな帽子をかぶっている。
なぜだろう。
1980年に穆舜英女史に土垠の近くで発掘されたミイラは、フェルトの帽子をかぶっていた。帽子には雁の羽が二本挿してあった。3800年前の女性である。この女性には、ウルムチの新彊ウイグル自治区博物館で会うことが出来る。3800年前の女性。
確かに、フェルトの帽子と鳥の羽は、見るものの印象に残る。
どう言ったらよいだろう。「いつまでも可愛くあれ」。送る者の未練、せめてもの想い。そういったものを感じるからだろうか。
楼蘭で最初にミイラを発見したのはスウェン・ヘディンである。1934年のこと。のちに井上靖が『楼蘭』の素材にした二体である。
先ずは、ヘディンが「砂漠の支配者、ローランとロプノールの王女」と呼んだうら若い美女である。「彼女は頭にターバンに似た帽子をかぶり、そのまわりに簡単なリボンを一本巻いていた」。
ターバンに似た帽子。どういうものだろう。
おそらくは、モンゴロイドではなく白人種の若い女性。彼女がかぶっていたターバンに似た帽子。ヘディンならずとも、「彼女の眼は、どのような光景を見たことであろう」、と言いたくなる。
もう一体は、ヘディンの謂う「孤独の老婦人」。「頭には、先端が羽毛の房になっている棒を二本まっすぐに立てたふちなし帽をかぶっている。帽子にはそのほか、赤いひもと、前に頭のぶらさがっているいたちの分断された毛皮とが飾りについていた。これにはきっと何か特別な象徴的な意味があるのだ」。
同じ探険で、ベリイマンがヘディンとは別行動を取り小河墓で見つけた女性のミイラも、やはり、フェルトの帽子をかぶっていたという。
なぜ、女性のミイラは、みな、帽子をかぶっているのか?
ミイラにはフェルトの帽子がよく似合う?
たまたま『染料の道』(村上道太郎氏、NHKブックス)を読んでいたらこんな記述にぶつかった。穆舜英女史が発見した若い女性がかぶっていた帽子についてである。
カラー写真で見ると、ただ茶色に見えます。
私はひそかに「赤いトルコ帽」を想い浮かべていました。あれはフェルト製です。その赤は、おそらくケルメス虫で染めたものでしょう。あの帽子はおしゃれのためではなかったようです。
「西部アジア人が無縁帽染色にケルメスを愛用する主なる理由は其の治病的性能を有するという信念によるものにして眼病、頭痛を予防する能力ありとせり」(後藤捷一『染料植物譜』はくおう社)
となると、彼女たちのかぶっていたフェルト帽は、イランあたりからコータン→ニヤ→ローランと渡ってきたのでしょうか?
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ケルメスというのはケルメスカシなどの枝に黒い実のように張り付く虫のこと。これが赤染めの染料になるという。
ミイラは頭痛にならないように赤いフェルトの帽子をかぶっていた、ということになるのだろうか?
まあ、いずれ四千年前のことだから……。
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《NHKスペシャル》
<魔鬼城>
2005年の10月10日の「NHKスペシャル」で『魔鬼城』という番組を放送していた。
放送で言うのには、新疆ウイグル自治区には合計七つの「魔鬼城」があるという。ヤルダン地形で、形が町なり城なりに見えるところがたくさんあることは想像できるが、それにしても七つとは多い。
どうも、観光客を呼び込むための命名、ということらしい。
放送でも、最近、よその「魔鬼城」の成功を見て、名を「魔鬼城」に変えたという例が紹介されていた。ややっこしいことは止めたほうがよかろうに。
実は、我が楼蘭の近くにも「魔鬼城」がある。玉門関を出て西に向かうこと60キロ。ヤルダンの奇怪な景色に入り込む。ここの「魔鬼城」は本当に凄い。東西に10キロ、南北にも10キロの広大なヤルダンが拡がる。ヤルダン。日本語で風化土椎群という。この辺りの土は、洪積粘土層。強風が土を削る。何百万年も。風は、同じ方向に吹き続けてきた。東北から南西へ。東北から南西へ。軟らかい土が削られ硬い部分が残る。それが、ヤルダンである。風が削るだけではない、強風が運ぶ砂が削る。大地がヤスリでこすられたように削られる。
低いもので、30メートルから50メートル。高いものだと、500メートルから600メートルにも及ぶ。その巨大な土の塊が駱駝にみえたり龍にみえたり軍艦にみえたり城にみえたりビルにみえたり町にみえたりする。夜になると、魑魅魍魎の大群にもみえる。
それが、「魔鬼城」である。
<小河墓>
2005年のNHKスペシャル「シルクロード」全十集の巻頭を飾るのは「楼蘭」である。2005年1月2日の放送。その「楼蘭」の目玉は「小河墓」であるらしい。(これを書いているのは2004年10月12日)。
ほとんどの方は「小河墓」という名さえ聞いたことはないかも知れない。ただ、これは物凄い遺跡である。
1934年、ヘディンは三十数年ぶりに楼蘭に入る。ちょうど折りも折り、三十年前のヘディンの予言どおりタリム川に水が戻ってきたそのタイミングでヘディンは楼蘭に戻ってくる。その水はロプノールにも注いでいる。ヘディンの名著、『さまよえる湖』の世界である。
彼はそこで三十年ぶりにエルデクに再開する。ヘディンが1900年楼蘭を発見したときの幸運は、よく知られるように、彼の従者がシャベルを忘れたことにある。一本しかないシャベルを忘れた従者が、それを取りに戻ったとき、たまたま見つけたのが楼蘭であった。そのシャベルを忘れが従者がエルデクであった。
そのエルデクが、三十年ぶりにヘディンが楼蘭にきたことを聞いて訪ねて来る。彼はずっとヘディンを待っていたのだ。彼が見つけた遺跡のことをヘディンに言いたくて。
楼蘭の西のある場所で彼は不思議な墓を見つけた。「固い木で造った無数の棺が二層に積みかさねられていた。棺をいくつかあけてみると、その内側には彫刻と彩色がふんだんにほどこされていた。棺には、りっぱな着物を着た保存状態のいい遺骸のほか、奇妙な文字の書かれている、はなやかな飾りのついた紙がたくさんはいっていた」、と。
ヘディンの弟子のベリマンがエルデクの案内で墓を探しに行く。
そのとき、ベリマンが見つけたのが、「小河墓」であった。
『さまよえる湖』はこう書く。
「最も主要な死者の都、いわゆる《エルデクのネクロポリス》は、河の東側の平たい穹窿状の丘の上にある。これは、おそらく墓標と思われる直立した柱が小さな林のように並んでいるために、遠くからでも見える。ごく単純な彫刻をしたものがなかに数本あり、全部が多角形をしていた。倒れているものもたくさんある。墓は一二〇見つかったが、柱の数はそれよりもかなり多かった。」
ただ、この発見は、このまま砂の中に埋もれてしまった。
それが、再び人の目に触れたのは、2000年の11月。地元の中国人のグループによって再発見された。「これは凄い」、とマスコミも大きく報道をし、日本でも長澤和俊さんなどが「ロプノールで最もレベルの高い墓」と評価をしているという。
これが、「小河墓」遺跡である。
楼蘭からは南西に170キロ。今も中国の専門家による発掘調査が続けられている。NHKによると、1000を超える巨大な墓地群という。35の木製の舟形棺が出土したという。「楼蘭の美女」をしのぐ美しい女性のミイラが発見されたという。白い肌、亜麻色の髪、彫りの深い西欧系の顔立ち。
これだけ大きな墓群があるにもかかわらず、都市の跡はいまだに見つかっていない。
時代は今から3000年から4000年前。楼蘭が歴史に登場するのが2200年前。その間の1000年は、まったくの空白である。
「小河墓」の再発見により、楼蘭の謎はさらに深まることになってしまった。
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