《プルジェワルスキー》
楼蘭を巡る探険について語るには、どうしても、プルジェワルスキーから始めないわけに行かない。
いわゆる「ロプノール論争」の火付け役的存在であるからである。
長澤和俊氏がどこかでこんなことを書いている。張騫の西域への派遣は紀元前二世紀のこと。シルクロードへの探険は、地球のどの地域よりも先に始められた。ところが、それから二千年、海上輸送の発達にもよるが、十九世紀、一番最後に残された探険の場所もシルクロードであった、と。
十九世紀後半。中央アジアのパミール高原の東側、いわゆる東トルキスタンに最も強い関心を寄せたのはロシアとイギリスであった。ロシアは南進を企て、イギリスはインドからの北進を図っていた。双方が探険隊を繰り出す。そういうなかでロシアの探検家・プルジェワルスキーが登場する。プルジェワルスキー自身の関心は、軍事的なことよりも純粋に地理学上のこと自然科学上のことであったが。
1871年から85年にかけて、四回にわたりモンゴル、タリム盆地、チベット、黄河源流を調査している。そして、問題は二回目の探険で、タクラマカン砂漠をコルラからタリム河に沿って南下した時である。
プルジェワルスキーは、タリム河の行き着く先に二つの湖を発見した。カラ・ブランとカラ・コシュンという。そして、タリム河を南下する際に、タリム河から東へ向かう支流を見かけていないことから、カラ・ブランとカラ・コシュンこそが、中国の史書に言うロプノールである、と断じた。すなわち、中国の古い地図に描かれるよりも、実際には、四百キロ南にロプノールはあったのだ、と。
これに対して、直ちに、反論を加えたのはドイツの地理学者リヒトホーフェンであった。この人は、「シルクロード」という言葉の発明者として知られる。つまり、中国人もローマ人もペルシャ人もソクド人も、中国とローマを結ぶ道を「シルクロード」とは呼んでいなかったシルクロードが「シルクロード」になったのは十九世紀後半からである。(実際には、リヒトホーフェンはドイツ語で「シルクロード」と言ったのだが)。
リヒトホーフェンは反論はこうだ。中国の史書によるとロプノールは塩湖でなければならない。しかるに、プルジェワルスキーが発見した湖は淡水湖である。しかも、古い地図と位置が違いすぎる。詳しく探せば、本当のロプノールがあるのでないか、と。
これに対し、プルジェワルスキーもすぐに反駁。これが世に言うロプノール論争である。
こうして、ロプノールの位置を巡る議論は、地理学上の大きな論争を呼び起こした。
プルジェワルスキーは、論争の決着を見ぬまま、1888年、チベットへの探険の途上、イシク・クル湖畔の町、カラクルでチフスに罹り客死してしまう。
探険服のまま棺に納め、イシク・クルの湖畔に埋めて欲しい、と遺言したという。墓は、希望通り、イシク・クルのほとりに建てられた。墓碑には、「内陸アジアの最初の探求者」と刻まれているという。まさに、探険時代の扉を開けた男であった。
彼の死後、論争は、弟子のコズロフとリヒトホーフェンの弟子のヘディンに引き継がれてゆく。
こうして、不世出の大探検家・ヘディンが中央アジアの舞台に姿を現すことになる。
一九六七年に白水社が「西域探険紀行全集」(全十五巻)を出している。その第二巻にプルジェワルスキーの代表作「黄河源流からロプ湖へ」と上に述べた第二回目の探険の記録である「天山からロプ・ノールへ」が収められている。その巻末の解説を深田久弥が書いている。
ヘディンはプルジェワルスキーを尊敬し。その旅行記を熟読していたことは、彼がまだ二五歳のとき、このロシヤの大探検家の紀行をスウェーデン語に訳して出版していることによっても証せられる。年が違うからヘディンはプルジェワルスキーには会えなかったが、彼はこう書いている。「わたし自身は、プルジェワルスキーの探検隊に加えてもらえる未来の幸福を夢みていた。そして一八八八年彼が死んだという情報を読んだときにどんなに苦痛をおぼえたか、いまでもはっきりと覚えている。一八九一年、わたしはイシク・クルのほとりにある彼の墓に詣で、同じ年に彼の旅行記を出版した。」
ヘディンの中央アジア探険は、プルジェワルスキーのそれの延長であった。ロシヤの大探検家が予定線を引いたところを、スウェーデンの大探検家が歩き、前者が問題としたことを、後者が解決した。ヘディンは常にプルジェワルスキーの旅行記を持ち歩き、それから多くのヒントを得たのであった。
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何度読んでも、いい文章だな、と感心する。
プルジェワルスキーが死んで百十余年、その深田久弥を思い出しながらひとりの学者がイシク・クル湖にプルジェワルスキーの墓に詣でる。
その学者とは長澤和俊である。『シルクロード波瀾万丈』でこう書く。
さて、この記念すべき四月一日。私たちはコムソモルから一一三キロのプルジェワルスク市(現カラクル市)までドライブし、まずこの町の郊外一二キロにある偉大な中央アジアの探検家プルジェワルスキーの墓にお参りした。私の山の恩師深田久弥氏は、生涯に一度は必ずプルジェワルスキーの墓へ行きたいとよく語られたが、遂に果たすことができなかった。いま私はこの機会をえて、深田さんの分まで冥福を祈るべくやって来たのだ。
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プルジェワルスキーがいてヘディンがいて深田久弥がいて長澤和俊がいて……。未知の世界への憧れ。探検心。そういったものを軸に世代から世代へ人から人へと想いが繋がっていく、ということなのだろう。
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《スウェン・ヘディン》
1865年、スウェーデン・ストックホルムに生まれる。ベルリン大学でリヒトホーフェンの薫陶を受け中央アジアの探険を志す。
四度、中央アジアへの探険を試みている。
一回目:1893年〜1897年:パミール、タクラマカン砂漠
二回目:1899年〜1902年:タリム盆地、東北チベット、カラコルム
三回目:1905年〜1908年:チベット
四回目:1927年〜1935年:ゴビ砂漠、タリム盆地
これらの探険を通じ、チベットにおいては、インダス、ブラマプトラ両大河の源流をつきとめ、さらには、ヒマラヤ山脈の北にもうひとつ平行して走る山脈があることを発見した。トランス・ヒマラヤである。タクラマカン砂漠においては、一千五百年もの間砂の中に埋もれていた楼蘭の遺跡を掘り出した。
十九世紀後半から二十世紀前半にかけての「探険の時代」のなかでも最も輝ける金字塔の数々である。
さて、このなかで、特に楼蘭と関係が深いのは、二回目と四回目である。
1900年の三月。ヘディンの一行は、タリム盆地の北側からクルック・ターグを越え、アルトミシュ・ブラクのオアシスを経てロプの沙漠に入った。ヘディンの念頭にあったのは、プルジェワルスキーと師・リヒトホーフェンとの所謂ロプノール論争であった。プルジェワルスキーは、中国の古い地図よりも四百キロも南にロプノールを発見したという。リヒトホーフェンは、それは本物のロプノールではないのでは、という。
ロプノールの北から南へロプ砂漠を縦断し、縦断面の高低図を作ることで古代の湖面を見定めようとしていたのだ。
ヘディンたちは、明らかに昔の湖床と分かるところを歩いていた。螺貝の殻が無数に落ちていた。枯れた白楊の林があった。そこで、古代の住居跡を発見した。塔もある。調査すると、中国の古銭、蓮の花の模様を彫った板木なども見つけた。「やった」。かつてのロプノールと、その北岸に営まれていた古代の住居跡の発見の瞬間であった。
ヘディンの一行はひととおりの調査を終え、さらに、南に進んだ。そこで、先ほどの廃墟に井戸掘りように持参していたシャベルを置き忘れていることに気が付いた。エルデックという従者の不注意であった。シャベルは一本しかない。エルデックは、馬に乗り、シャベルを取りに引き返した。エルデックは一昼夜かけて、シャベルを取り、戻ってきた。ところが、このエルデックが持ち帰ったものは、シャベルだけではなかった。彼は嵐のなかを迷いながら、ヘディンらが調査した廃墟よりもはるかに大きな廃墟を見つけたのであった。
実際に、ヘディンがエルデックが見つけた廃墟に立つのは、一年の後であった。直ちに引き返すだけの飲料水の貯えがなかったからである。
一年後、ヘディンは、再び クルック・ターグ を越えアルトミシュ・ブラクで氷をラクダに積み、ヤルダンを越えて、今私たちが楼蘭と聞いて真っ先に思いうかべるあの仏塔や、三間房と名付けられた住居跡を、そしてカロシュティ文書や木簡を発見するのである。
後にスタインがLAと名付けた地点である。
ただ、これは、前年エルデックが見つけた遺跡とは別なものである。エルデックが見つけた遺跡はLAから北北西に十キロ行ったところであり、同じくスタインにLBと名付けられている。
さて、肝心のロプノールについて、彼はこう考えた。
楼蘭遺跡の存在から、今は涸れているタリム河もかつては水の流れがあり、そこにロプノールという大きな湖を造っていた。しかし、その後の河道の変化でタリム河は南下し、ロプ砂漠の南に湖を造った。それが、プルジェワルスキーが発見したカラブランとカラコシュンである、と。
このような河道の変遷が起こるのは、水によって運ばれる砂の堆積作用と風蝕によるのだ。そして、これは長い周期で繰り返すのだ。年代記から見るに、一六〇〇年の周期でロプノールは南北へ移動するのだ、と。つまり、ロプノールは「さまよえる湖」である、と。
それから三十年後。驚くべきことが起こった。タリム河の流れが変わり、久しく乾いていたコンチェ・ダリア(孔雀河)に水が戻ってきた。
それを聞いたヘディンは、1934年、再びこの地を訪れる。かつてラクダに揺られ進んだ地を、今度は、カヌーで下る。コンチェ・ダリアからその先のクルク・ダリア、そして、その先にあるのは水を湛えたロプノールへ。彼の喜びはいかばかりであったか。
ヘディンは多くの探険記を残しているが、最も広く知られる作品である『さまよえる湖』は、その時の記録である。
自らの学説の正しさが証明されたという達成感。カヌーで水の上を進むという安堵感(それ以前の彼の探険記につねに付きまとう渇きや飢えとの闘いから無縁であるという意味で)。年齢的な円熟感。
ヘディンは、この旅で、思いもかけず、エルデックと再会する。エルデック。シャベルを忘れたエルデック。あれから三十年。カヌーで進むヘディン、騎馬で出迎えるエルデック。運命の糸の不可思議性。
そんなものをタップリと織り込んだ美しい作品である。探険のロマンチシズムが凝縮されている、と言ってもよいだろう。
今、ロプノールには水はない。
1934年、劇的な終焉を迎えたように思われたロプノール論争であったが、まだ続きがあったのだ。
1921年、それこそ一六〇〇年振りにかつての河床を流れ出したコンチェダリア・クルクダリアであったが、1950年頃までには、また、水は止まってしまった。乾上がった河床になってしまった。
ヘディンの死は、1952年。彼は、この事実を知っていただろうか?
今、一六〇〇年周期説を支持する学者は、おそらくは、いないであろう。ロプノールに水がなくなった原因は別なところに求められている。単なる川筋の変更や上流での灌漑用水の使いすぎ。あまりに散文的だが、それも、致し方あるまい。探険の時代が終わった、ということなのであろう。
金子民雄氏がヘディンについて、こんなことを言っている。
「ヘディンは常にパイオニアの宿命で、暗中模索の旅をするしかなく、旅の成果も完全というわけにはいかない。たとえばヘディンは一九〇〇年に楼蘭の古都とロプ・ノールを発見するが、あとから来た到着者の方が良いものを発掘している。自分の苦労して作製した地図があるのであとに続く旅行者には無駄がないのだと、諦めるしかない。しかもその地図については、きまって疎漏があったと批判を受ける羽目になる。」(『西域 探検の時代』岩波新書)
磁石ひとつをもって無辺の沙漠に挑む。真っさらな砂の上に最初の足跡を刻む。そういう情熱に取り憑かれた男であった。
ヘディンは生涯において膨大な著書を残しているが、その中でも特に印象に残るのは、上に挙げた晩年の書である『さまよえる湖』と、最初の探険記である『中央アジア探険記』であろう。
一八九五年。マラル・バシイからホコータン河までの280キロの砂漠行を試みる。予定では十五日間。
一行はヘディンを含めて人間が五人、ラクダが八頭、イヌが二匹。
ところが、歩けど歩けど河に着かない。越えても越えても砂丘が続く。やがて水も尽き食糧も尽き、一頭倒れ、一匹倒れ、一人倒れ。また、一頭倒れ、一人倒れ。ようやく、ヘディンひとりがホータン河の羊飼いの家にたどり着く、という壮絶な経験談である。ご一読をおすすめする。
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《オーレル・スタイン》
ヘディンと並ぶ、大探検家である。
ハンガリーに生まれ、イギリスに帰化。二十五歳のとき、現在のパキスタンのラホールに大学事務官として赴任。そこで、探険の技術と考古学の基礎を身につける。ラホールは、当時、英領植民地インドに属していた。
ヘディンと言えば、すぐさま、「さまよえる湖」が連想されるのに対して、スタインの名を決定的にしたのは、敦煌莫高窟から彼が持ち出した大量の「敦煌文書」であった。大英博物館の秘宝となっている。
一九〇〇年、現在第十六窟と呼ばれる石窟に住んでいた王道士は偶然に壁の中に隠された小室を見つけ、中から万巻の古文書を発見した。吃驚仰天して役所に届けたが何の沙汰もないままであった。
スタインが敦煌にやってきたのは一九〇七年。小室の古文書を知って来たのではなかったが、結果として、古写本、薄い絹に描かれた仏画など、木箱にして二十九箱分といわれる大量の文物を只同然に買い取ってくる。
「敦煌文書」ばかりでない。スタインは、本当に、よく掘り当ててきた。ホータンの東北百二十キロの沙漠の中でダンダン・ウィリクの遺跡を発掘。「絹の王女の伝説の図」と呼ばれる、絹の西漸伝説の貴重な資料となる板絵などを発見する。ついで、ホータンの東三百キロの沙漠ではニヤの遺跡の発掘。五二四枚に及ぶカロシュティー木簡を発見。このカロシュティー文書は、何と、六世紀の終わり頃、忽然と沙漠に消えた楼蘭王国の公式文書や手紙だったのである。後に、研究者により、このカロシュティー文書が読みる解かれることで王国に実態が明らかになって行く。
さらには、玉門関の発見。玉門関といえば、敦煌以西の最も重要な関所であるのだが、その位置については定説がなかった。スタインの調査で、敦煌の西に延びる望楼のひとつから、「玉門都尉」と記された木簡が発見され、現在、そこがかつての玉門関とされているのである。
楼蘭の漢文木簡もしかりカロシュティー木簡もしかり。米蘭の「有翼天使像」もしかり。
私たちの楼蘭王国に関する知識のほとんどといってもよいくらい多くの部分は、彼の発掘したものによる、と言っても過言ではない。前にも後にも、スタインぐらい、シルクロードを掘り起こした男はいないのである。
北出晃氏はこういう。
「スタインは家を持たなかった。探検旅行からもどると、カシュミール地方のスリナガルの郊外にある牧場の一角に、テントを張って暮らした。そこで、一日に一〇時間から一二時間、一人で報告書や論文を書いて過ごしたという。駱駝や馬の背に乗っている時間以外は、ほとんどが調査とその膨大な量の報告に費やされたのである。」(「文明は砂漠を越えて」、日本放送出版協会『大英博物館 第五巻』所載)
遺跡を掘り起こすためだけに費やされた生涯。そういえるのではないだろうか。彼の墓は、アフガニスタンのカブールにある。ペシャワールからカブールに着いた時、この地で、風邪がもとで八十二年間の生涯を終えた。墓標にはこう記されている。
「アフガニスタンの首都カブールにスタインの墓がある。古代の歴史をさぐって旅を続ける老探検家は墓石にはこんな言葉が彫られている。「インド、シナ・トルキスタン、ペルシァ、イラクの困難を極めた旅行により知識の分野を拓く」。
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《橘瑞超》
「さてこの楼蘭の埋没した市街をはじめて探険したのは、有名なスウェーデンの探検家スウェン・ヘディン博士で、その次はイギリスのスタイン博士、そして三番目がわたしである」。
「中亜探険」のなかの一節である。淡々とした口調のなかにもロプの沙漠を命懸けで越えていった若者の矜持をのぞかせ微笑ましい。
イギリス、ロシア、ドイツ、フランスなどの列強が探検隊を繰り出す中で、日本はと言えば、西本願寺の第二十二世宗主・大谷光瑞が独自に三度の探検隊を派遣している。ヘディンやスタインがつぎつぎに掘り起こす仏教遺跡は、まさに、仏教東漸の道を示していた。そのことに強い刺激を受けたのであろう。
その二回目から抜擢されたのが、当時弱冠十八歳であった橘瑞超であった。
彼は二度、楼蘭の地を踏むのだが、一回目に、のちに「李柏文書」として大変有名になる手紙を発見する。四世紀半ば、西域長史であった李柏の書いた手紙の草稿である。
二回の探険で合わせて五年の歳月をタリム盆地やチベットにほとんど単身で身をさらした彼の足跡は、『大谷探検隊 シルクロード探険』に辿ることができる。
旅順に「旅順博物館」がある。旅順は203高地、水師営など一部しか外国人に開放をしていない。「旅順博物館」のある地区は未開放である。この博物館に、新彊出土のミイラが展示されている。ミイラの他、やはりアスターナの古墳から発掘された土偶、彩陶なども。
旅順と言えば、日露戦争や乃木大将が思いうかべられるが、なぜそこにミイラがあるのか?
実は、このミイラは、橘瑞超が日本に持ち帰ったものである。彼は、十二体のミイラを将来している。ところが、日本には一体も残っていない。
1914年。本願寺に財政逼迫から疑獄事件が発生する。大谷光瑞も責任をとって法主の座を辞す。華々しい成果をあげていた探検隊も打ち切りになる。その後、西域から将来していた膨大な量の出土品も、散逸されていく。ミイラについて言えば、それぞれ数奇な運命を辿りながら、十体は旅順博物館に、二体は韓国の国立中央博物館に所蔵されている。
寂しい気もするが、ひとつの時代は、こういう終わるものなのだろう。それでも、上述の『大谷探検隊 シルクロード探険』を開けば、そこには大谷光瑞や橘瑞超、野村栄三郎、吉川小一郎などの西域探険に青春をかけた若々しい情熱が、今もたぎっているのである。
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