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《「楼蘭・砂まみれの記」とは》 楼蘭に実際に行かれた経験をもつ「紅柳子」さんへのインタビューです。まぐまぐからメルマガとして発信したものを、ここに再収録しています。
《紅柳子さんのプロフィール》
(今回も「小河墓」のお話しとか……)
──ええ、前回のインタビューで、案内してくれた旅行社の社長さんが「小河墓」を発見したグループの一員であったという話をしましたが、旅行中に彼から聞いたお話のメモが見つかりましたもので。
(ナイフの社長さん……)
──1934年、ベリイマンが「小河墓」の遺跡を発見した時の報告書は、世界を震撼させたそうです。広大無辺のタクラマカン砂漠の真ん中に砂の丘があって、そこに百数十本もの杭が立っていた。その杭の下には何層も重なるように木棺が埋めてあった。
ベリイマンはこう報告しているそうです。「それらは全て多角形の柱であった。柱の下の砂をのけると、砂に埋もれた箇所には赤い色が残っていた」。つまり、柱は赤く塗られていたのです。砂の丘の上に真っ赤な杭が立ち、それをギラギラした太陽が真上から照りつけている。
(華麗ですね)
──華麗?
発見した人には不気味だったんじゃないでしょうか。さらに調べ ると、驚くことがいろいろ出てきたそうです。お棺が胡楊をくり抜いた舟形だったことは前回言いましたが、柱の他に、オールの形をした木板も立てられていて、その下の方には模様が彫られているんですって。砂漠の真ん中で、なぜ、お棺は舟形で木板はオール形なのかしら?
(昔は水があった?)
──楼蘭の辺りもかつては水があり胡楊の林があったと言われていますね。ただ、その墓地は、明らかに最初から砂漠の丘の上に造られたものでした。
(フーン。それにしても柱はなぜなぜ赤なのでしょうね?)
──墓地には、また、男女の生殖器を象徴するトーテムが立てられているそうです。ベリイマンは、赤は血の色、生命の色と考えたようですね。この墓は、再生への祈りでもあった、と。
(それにしても、どういう人たちがそんなお墓を作ったのでしょうかしら。)
──3500年から4000年前の白人種であることだけは分かっていますが……。それから1500年、中国の歴史に登場する楼蘭王国との関係も謎のままです。
(面白いですね。前回もうかがったように、墓地は見つかったが、住居跡がまだ発見されていない、と……。)
──そうです。1934年のベリイマンの発見は、凄い発見だったのですが、その後、そのままになってしまったのですね。ベリイマンも若くして死んでしまった。場所も分からない。ですから、ここ二十年の間に「小河墓」の遺跡を再発見するための試みは何度もなされたそうですよ。1979年から80年、NHKがシルクロードに入った時も、それにあわせて、王華炳さんや穆女史など中国の考古学者たちによって「小河墓」を探すための調査隊が編成されたのですが「小河墓」は見つからない。代わりに王さんは太陽墓を発見し、穆さんは「楼蘭の美女」を発見する。
だけど、「小河墓」だけは探せないまま。
(もっとどんどん探せばいいじゃないですか?)
──いや、探険というのはお金がかかるのだそうですよ。スポンサーが付かないとできない。それで、2000年12月。王華炳教授にテレビ撮影のスポンサーが付いた。彼はそこで撮影隊を含めて十名の小河墓探索隊を編成しました。
(そのなかに、経験を買われてナイフの社長が迎えられたのですね)
──ついにナイフ社長になってしまいましたね。社長さんは、楼蘭にある記念碑に名前が刻まれていました。楼蘭協会の会員です。それまでに既に十六、七回楼蘭・ロプノールに足を踏み入れていたそうです。王教授とも旧知の仲で、「砂漠の中での方向感覚の高さ」を頼りにされたそうです。「空に一飛鳥なく、地に一走獣なし」の大沙漠ですよ。そのなかで、米粒のような一点に辿り着かないと行けません。そして、無事に帰ってこなければ行けません。
(砂漠の中での方向感覚、ですか。ラクダさんみたいですね。)
──ラクダ五頭に隊員が十人。12月の極寒の砂漠をコルラ、営盤の方向から南へ南へと下りました。行けども行けども砂また砂。
(一頭のラクダに人が二人乗るわけですか?)
──それじゃ、ラクダさんに余りじゃないですか。歩くんです。ラクダも人も。
(それじゃ、ラクダが楽すぎません?)
──ラクダには食料とか水とかテントとか積むんです。
(なぜもっとラクダを用意しないのですか?)
──ラクダを増やせばラクダ使いも増やさなきゃ。人間を増やせば荷物が増えるのも必然で、予算というものがあるでしょう。
(なるほど)
──歩きましたね。砂丘が山になって行く手を防ぎます。高さ二十メートルから三十メートル。砂丘に一歩足を踏み入れても、半歩は戻る。そうやって、ひと山越えても、又、次の砂丘が待っている。
そうやって砂漠の中を四日歩きました。距離の計算ではそろそろ辿り着かないと行けない。ところが……
(ところが……?)
──周りの風景が、ベリイマンが書き残したものと全然違う。「小河墓」の付近は砂丘ではなく台地状のはず。食料も水も、そろそろ限界に近づいてきた。今回も方向を間違ったのでしょうか。そろそろ引き返さないと、命に関わる。
そこで、王教授がみんなを集めて言いました。
(何て?)
──諦めよう、と。
(みんなは?)
──みんなは嘆願したそうです。もう少し。もう少し頑張りましょう。その熱意に王教授は言いました。では、あと二時間歩いてみよう。それでも地形に変化がなければ、引き返す、と。
(なるほど。あと二時間だけ……。で?)
──で、二時間歩く間に、なんと、砂丘は次第になくなり台地状になってきた。この辺りだ。こう確信しますが夜が暮れてきます。テントを張り一泊します。
翌朝。王教授は、こう言いました。
(何と?)
──もう、食料も水も限界だ。許される時間は三時間。
王教授を真ん中に左右に一列に大きく広がって歩いたそうです。 人と人の間隔は、人影が見える範囲以上には絶対に広げないこと、という指示があって。 社長は右のサイドを歩いたそうです。近くまで来ていることは間違いない。彼は必死に探しました。歩きながら肉眼で左右を見廻す。立ち止まっては望遠鏡で遠くを見る。紅柳包というのが砂漠の中にありますね。
(はい。紅柳すなわちタマリスクが根を張っていると、そこだけ砂が飛ばされないために小高いマウンドになる)
──少しでも高い方がよいだろうと思って、紅柳包があるとそれに上って望遠鏡で見る、ということを繰り返しているうちに、何度目かの紅柳包の上で、彼は見ました。
(何を?)
──砂の丘の上に木が何本も立っているのが。
(エッ)
──一瞬、心臓が止まるかと思ったそうです。次の瞬間、大声をあげてみんなを呼びました。みんな走ってきましたね。65歳の王教授も。全員がその紅柳包の上に辿り着いて、望遠鏡を王教授に渡しました。見て下さい、って。
(王教授は何と言いました?)
──望遠鏡を受け取った王教授の手は震えていました。しばらく望遠鏡を覗いたあとで、言いましたね。「間違いない」、と。で、みんなでそこに行ったわけです。
(それが、66年ぶりの小河墓の再発見なわけですね。)
──言葉で書けば、「小河墓再発見」なのですが、その裏には人々のひたむきな努力があるんだなあ、と思いましたよ。それに、先ほども言いましたようにお墓は見つかったけれど、住居跡がまだ見つかっていない。ですから、ナイフ社長さんは、次は何とかその住居跡を探したいと思っているんですね。謎の連鎖というのは辿っても辿っても尽きることがない、って。
(ふーん)
──そんな話をいまこうやってしていると、何か、夢の話のようですが、その時は、砂漠の真ん中で聞いていて、凄くリアリティがあったんです。水もない。食料もない。砂嵐は襲ってくる。夜間の気温はマイナス二十度になる。だけど「小河墓」の影も見えない。どうしよう、ってね。
(物語の、その場に身を置くことの臨場感、ということになるのでしょうかね。その意味では、楼蘭に向かうことで、本でしか知らないヘディンや橘瑞超をもっともっと身近に感じることができるかも知れませんね。今日は有り難うございました。)
《小河墓》 2004/10/23
(2005年の一年を通じてNHKがNHKスペシャルとして「シルクロード」特集を放映します。全十集だそうです。その第一集が総合テレビでは1月2日の放送ですが、『楼蘭 4000年の眠り』というのだそうです。)
──聞いています。今から楽しみですね。先日もちょうど「NHKスペシャル」でタクラマカン砂漠を横断した熟年隊のことをやっていましたね。皆さんお風呂に入らないでガチガチボサボサのヘアースタイルで、「まるで楼蘭の私じゃない」と思って、懐かしく見ていました。楼蘭へは車で行きましたから、ラクダの旅とは全く違いますけどね。あの砂漠をNHKのカメラがどう捉えるのか。
楼蘭の廃墟も、それを取り囲むヤルダンも。本当に早く見てみたいです。
(NHKの発表している資料を読むと、楼蘭特集の目玉は「小河墓」という古墓群のようですね。聞きなれない名前ですが……。資料には、「四千年前の墓群」とありますね。「墓の数は千を超える」。「1934年にベリイマンというヘディンの弟子によって発見された……赤く塗られた木の柱が高さ十メートルほどの砂山に百数十本立っている……」。奇っ怪ですね。「ただ、ベリイマンが若くして死んだこともあり、そのまま忘れ去られてしまった……」。それが、再度発見されたのは、ベリイマンの発見から67年後、2000年のことである、と。楼蘭古城の南西170キロ、とありますから、紅柳子さんの走ったコースには入っていないですね?)
──ええ、コースも少し外れていますが、それ以前に、現在は中国の専門家による大規模な発掘調査が行われていて一般の人は近づくこともできないそうです。
(と、いうことは、紅柳子さんは、三年前の楼蘭ツアーの時には「小河墓」の名前を知っていた?)
──はい。案内してくれた旅行社の社長さんが……
(以前出てきた、いつもウイグル族のナイフを腰からぶら下げていて、ハミウリをそのナイフで切る社長さん?)
──はい。「小河墓」を発見したのは、彼なんだそうです。
(エー、冗談でしょ。いつもウイグル族のナイフを腰からぶら下げていて、ハミウリをそのナイフで切る社長が、そんな大発見を……)
──はい。正確には、発見をしたグループの一員であった、ということなのですが。
(ヘー、それでも凄いですよね。)
──とにかく古墓や遺跡を見つけることに生涯をかけている人でしてね、時間があったらラクダに乗って心ゆくまで探検をしていたいと。いつも地図を広げて、この辺りには何がありそうだ、あの辺りには何がありそうだ、そんなことばかりをうなされるように話していました。
その時は、何でも著名な考古学者が編成した十名ほどのチームで、この辺の砂漠を一番知っている人、ということでチームに入れられて……一週間ほど探検して、古墓を発見して興奮したということでした。中国のマスコミでも大きく取り上げられ、日本の学者にも連絡したそうです。 あとは、どこかでその人たちが住んでいた場所が発見できたら、それはもうロプノール最大の発見になるって、夢見る少年のような顔をされていました。
(ヘー)
──さっき、コースを少しはずれていると言いましたが、近くは通っているのです。楼蘭を出てコルラを目指し西に向かうと、太陽墓と名付けられた3000年前の墓群があって営盤があります。太陽墓というのは、胡楊で作られた杭が幾十本も同心円状に打ち込まれていてその中心にお棺が埋められている、という変わったデザインのお墓なのですね。また、営盤にも380基ほどの墓群があって、こちらは漢の時代のものだと言われていますが棺桶の造り方が変わって
いて、胡楊の木を縦に割り中をくり抜いて死者を納めてあるのだそうです。楼蘭から営盤までがちょうど車で一日分の走行になるのですが、その太陽墓と営盤の間に開屏西山というところがあり、そこにも漢の時代のお墓があるのですが、そこにきた時に、社長さんが説明をしてくれました。
(はあ)
──「ここから南へ50キロいったところに3000年から4000年前の巨大な墓地の跡がある。1000を超える墓が発見され、若い女性のミイラも見つかった。白い肌……亜麻色の髪……彫りの深い顔立ち……顔の近くにおかれた小麦をいれたタマリスクで編んだ籠……」って。白人系なのだそうです。
(へーえ。確かにNHKの発表している文書の中にも「あまりの美しさに現場の誰もが息を飲んだ」、とありますね……。ミイラでも白い肌なのでしょうかね?)
──楼蘭の美女の歌は、サポート隊がよく歌ってくれましたが、ミイラの歌ではなかったですねえ。ここでも、胡楊の木を縦半分に切って、中をくり貫いて美女を入れて、又元通りに合わせて、それを牛を殺して、その皮で包むんだそうです。そのまま何千年と眠るわけですからね、真っ白というわけではないでしょう。ただ、そう想像させる……。砂漠は、空想と現実の間を行き交っているような……ある種、官能的、非現実的世界でした。
楼蘭が歴史に登場するのは2200年前、この巨大なお墓は3000年から4000年前。この間の1000年は空白でそれを埋める資料は何も出てきていない。しかも、これだけのお墓があるのに都市の形跡が見つかっていない。すべてが砂の中なんですって。想像の世界は果て知れませんよね。「砂を掘るだけでも価値がある、土が秘密を宿している」って、社長さんは熱っぽく語ってました。 「彼らはいつ、どこから来たのか? 彼らは、前漢の時代に『史記』に登場する楼蘭王国の住民の祖先なのか?これらは、楼蘭最大の謎だ」ってね。 今行われている発掘はそれらの謎を解き明かすことができるのかどうか……。
(なるほど。太陽墓にしても営盤にしても小河墓にしても、お墓はあるが住居の跡が見つかっていない……。ナイフの社長さんはそれを言っているのですね。)
──そうです。特に小河墓は、千を超えるお墓ですから。
(その社長の旅行社にツアーを頼むと小河墓の見学が可能になる、なんてことはないのでしょうかね。発見者のひとり、っていうくらいですから。)
──そうはいかないでしょう。その時もうかがったのですが、この調査に対する中国政府の熱の入れ方は大変なものだそうです。「空前の規模」、って言っていました。調査が終わるまでは外国人の見学は無理でしょう、って。
(いつ終わるのでしょう?)
──「早ければ、2005年の夏と言っていましたが……。
(と、いうことは、行くのはそれまで待った方がよい?)
──さあ、どうでしょう。楼蘭の魅力の大きさの中でそれがどの程度の大きさを占めるのか。二千年前の廃墟があって、広大無辺の砂漠があって、ヤルダン地形の凄みがあって……。これが私の住んでいる地球だとは信じられないような世界です。負け惜しみではなく、私にはそれだけでも十分でした。価値観が変わる価値、生きている不思議を感じる価値っていうのかしら……。
(なるほど。有り難うございました。)
《服装》 2004/7/21
(10月の初旬に行かれたわけですが、その頃のタクラマカン砂漠の気候というのはどうなのですか?大変暑いような気もしますし、大変寒いような気もしますが。)
──その両方ですね。夜と昼の寒暖の差が激しいです。
でも、私には、昼間の暑さの方が印象に残っています。十月だというのに光が強くてね。いかにも、砂漠の太陽、っていう感じでした。真夏ならもっと凄いでしょうね。
(真夏の楼蘭ね。行ってみたいけど恐い気もしますね。走っているうちにだんだんミイラになっていきそうで。昼間、車で移動しているときはどんな服装ですか)
──私の場合、基本は長袖のシャツに長ズボン。それに半袖や長袖のジャケットを着たり脱いだりしていました。
首が隠れるように布が帽子についているもの。日本軍の昔の兵隊さんの帽子にあるような、日焼けを防ぐ工夫のある帽子は便利でした。靴下は2枚の重ね履き。温度調節が便利だし、安全だからです。 靴は登山靴。どこでも歩けますからね。その上に砂が入るのを防ぐためカバーをしました。これも昔の役場の事務員さんが腕にはめていた黒い腕カバーのイメージ。靴カバーです。
(靴カバーではなくて、「すねカバー」じゃないですか?)
──私の場合は、すねがなくて膝から下はすぐかかとなの。だから靴カバー……。
(それって売っているんですか? デパートに行って、お嬢さんにすねカバーください、って言って分かります?)
──そんなもの売っているわけないでしょ、って言いたいのですが、執念で見つけましたよ。登山グッズを扱うスポーツ店で売っていますよ。
(ハア。夜、寝るときは?)
──体を拭いたあとはTシャツ。ズボンは脱いでいたかそのままだったのかもう記憶にありません。
いずれにしてもらく〜な状態。寝袋にくるまってしまいますから暖かいですよ。
(運転手さんとかガイドさんとか、現地の人はどんな服装です?)
──これが絶句もの。全く街で歩いているのと一緒です。普通の布靴や皮の靴やズックでシャツとズボン。
(ヘンではないですか。同じ所に行くのに、一方は、首が隠れる帽子をかぶり、登山靴をはいて、「すねカバー」だか靴カバーだかまでして。一方は街を歩く格好で。向こうが絶句しているんじゃないですか。)
──絶句、悶絶の様子はみられませんでした。あの人たちは、目に入るすべてを日常として受け入れる技に長けてるんじゃないですか?
(こっちは探険、向こうは日常。そういうことでしょうか?)
──そうそう、探険と言えばね、中国側の責任者の方が腰に短剣をさしてましてね……
(タンケンが違うじゃないですか)
──カッコ良いのなんのって。コレには本当にしびれました。短剣でハミウリを切って出されたらもうそれだけで、食べる前から甘いです。
(短剣でオオカミと闘うんじゃないんですか。ハミウリを切るの。ハミウリを切るために短剣を一日中腰にブラ下げているというのも如何なものかと……)
──ハミウリを切るためだろうが、豆腐を切るためだろうが、カッコ良いものはカッコ良い。
(これから楼蘭に行く男性は、登山靴を持って行かなくとも「すねカバー」を持って行かなくとも、短剣だけは持って行け、と。エート、着替えは?)
──表に着るものはそれほど要らなかったように思います。とにかく重ね着できるものを用意するのがいいなと、後から思いました。半袖は調節するのに便利ですし、予想外に雨が降る事もありますから、やっぱりどんな天候にも対応できるものを考えました。
(下着は何枚持っていきました?)
──水が貴重品なので、お洗濯は絶対できませんから、宿泊の数だけ要るのですが、女性の場合(私は女性です。念のため)登山愛好家が使用している、使い捨ての取替えパットを持っていけば、1週間ぐらいなら、パンツ1枚で問題なく過ごせると思います。
(砂塵がスゴイのでゴーグルを持っていくと聞きましたが本当ですか?)
──本当です。私はそうしましたが、そうしない人もいました。だから、大袈裟な格好になって、ウイグルの人たちには笑われました。なにせ、彼らは街のなかの格好ですから。
でも、本当に車で走る時の砂塵はすごいですよ。車の窓を開けなきゃ問題ありませんが、窓を開けて走行する場合は、顔中砂で真っ白になりますよ。無防備なウイグルの運転手さんたちは鼻毛まで真っ白でした。はしたないので言いませんでしたけど。
(しかし、どういう時に窓を開けて走るのですか?)
──冷房が故障しましてね。アツくてアツくて窓を開けずにいられない。ところが、頭も顔も身体も真っ白で、他の車の人から、掘り出したばかりの兵馬俑坑、なんて言われまして。
(もう一度埋め直した方が良いんじゃないか、なんて……。服装以外ではどうですか。これだけは、持っていった方がよい、というものはありますか?)
──帽子は必需品。特別なものは要りませんが、私は農家の女性が作業の時にかぶるのがいいと聞いてその通りにしたのですが、後から考えたら、砂漠のファッションとしては何だか間が抜けていて絵になりません。もっとシュバイツァー博士がかぶっていた様な探険の帽子が良かったかなと思ったのですが、実用としては、けっこうなものでした。サングラスも必要です。それにさらにスカーフでマスクをして口に砂が入らないようにしていましたので、もう月光
仮面です(古いかなあ?)。
靴は、テントでリラックスした時、ちょっと散歩したり、食事したりにサンダルのようなものがあったら、ホッとするかもしれません。持っていけば良かったと思ったものです。
(現地の人はどうでしょう。その、街を歩く格好の現地の人は、砂埃も気にならない?)
──だって、砂漠で座り込んで将棋をやっていた人たちですからね。南極だって北極だって同じ服装で行くと思いますよ。
(女性の場合、お化粧は?)
──皆さんしていましたよ。一つは日焼け止めの為です。水が一日にペットボトルで何本と決められています。ジャブジャブと顔を洗えませんので、最低限のお化粧です。ウェットティッシュをたくさん持って行くと体もふけますし、砂漠の旅行で一番役立ったものでした。
とにかく、服装は、実用重視ですね。「死んだり病気にならないで帰る服装」が砂漠では、美しいファッションだと思いました。
「有り難うございました。砂と闘い、紫外線と闘い、暑さ寒さと闘うための服
装、ということなのでしょう。そうそう、短剣を腰からブラ下げるのも忘れな
いようにしましょう」
《砂漠の食事》 2004/6/28
(今回のテーマは食事です。先ず、お聞きしたいのは、羊のことですが……。古くはヘディンの探険記を読んでも、近くは朝日新聞の「探検隊」記録を読んでも食料として生きた羊を連れて行っていますね。紅柳子さんの場合はどうでした?)
──私たちも一匹連れて行きました。最後の最後の食料なんですね。彼(彼女?)にとっては死出の旅。普通の日本人だったら、羊は羊毛に見えると思うんです。『この毛で冬のセーター何枚編めるかなあ』とかね……。
(そうですかね。私には「何人分のシャブシャブになるかなあ」って……)
──骨折しましてね。
(エッ、誰が?)
──いえ、その羊さんが。トラックが揺れて揺れて、足を骨折してしまったんですが、添え木も包帯もしてもらえませんでした。
長く一緒に旅をしていますと自ずと情が湧いて来るものですが。ウイグル族のサポーターたちにとっては、羊は最高のご馳走。この羊を食べなきゃ、ここまで旅をしてきた意味がないという感じで……。 夕陽の中で解体されて、塩で茹でられ、洗面器にドカーンと出てきたときは、さすがに手が出ませんでした。土地の男たちは、血も飲むんですね。 そして次の日から何日間か、ずっと羊料理ばっかり。今度は肉の塊をトラックの荷台に洗濯物のように引っ掛けて、砂漠の風に晒しながら、砂埃を巻き上げて走りました。夜になると炒めたり、スープにしたり。 最後にキャンプの時に串焼き。これはたまらなく美味しいものです。
(はあ、結局、食べたんですね? 紅柳子さんも。)
──何日かたった頃には、「かわいそう」という気持ちが消えて、「おいしそう」という気持ちに……。私、勝手でしょうか?
(生きたものは羊だけですか。旅行をサポートしてくれる人たちはウイグル族ですね。豚は食べない。牛は連れて行かない? 大きすぎます?)
──そんなもの連れて行ったらエサが大変じゃないですか。他には鶏を5羽。これは、羊よりちょっと前に、毎日一羽ずつ、色々な料理法でいただきました。
つまり彼らを生鮮動物性タンパク質の供給源として旅の供にしたのですね。最初の数日は、出発地点の町で肉を買って行き、それを調理して食べるのでいいのですが、旅が長くなると、生きていてもらうことが必須条件。砂漠の旅を生き抜いて最後に食料になるという過酷な運命です。
(日本料理屋で生け簀で泳いでいる魚を食べるのとは違うと……)
──違います。贅沢ではなく、生きるための必要なんです。羊を連れていくのは。
(なるほど。砂漠の旅行の厳しさのひとつの表現と言うことになりますね。)
──厳しさでもあれば、同時に、冒険心を刺激してワクワクするようなことであるかも知れませんね。特に男の人たちにとっては。
(中国の旅行社のパフォーマンス、ということはないですか。参加者をワクワクさせるための。)
──それでは生け簀じゃないですか。やはり必要からでしょう。
(食事は朝昼晩の三食ですね。砂漠だから二食にしとこう、とはならない? それぞれ何を食べるのですか?)
──朝は油条やさつま芋を入れたお粥がいつも出ました。醤豆腐、塩漬け卵、落花生の炒め物なんかも毎日。
お昼は料理しないで、ナン、ゆで卵、八宝粥(缶詰)、醤肉、ソーセージ。そんなものです。忘れられないのは、砂漠の強烈な太陽の下で食べる食後のハミ瓜ですね。あのみずみずしさ。あの甘さ。思い出しても涎がでます。 夜は、肉とジャガイモやピーマンの炒め物とか、冬瓜と干しえびのスープとか、スライストマトの砂糖かけとか、ごく普通の中国の家庭料理のメニューでした。
(誰かが調理をしてくれるのですね?)
──若い頑丈そうなコックさんが同行していて、彼が全部作ってくれました。
(なるほど。プロのコックさんがいるのですね。自分たちで作るのではなく。)
──そうです。朝も早く起きてお粥を作ってくれて。夜明けの砂漠に朝餉の煙が上るのはの良いものです。
夕食もね。一日の砂塵の爆走が終わって、暮れ惑うなかでご飯ができるのを待つんですね。そのコックさんはトラックからガンガン音楽をかけてまして、東京都ぐらいの広さの中に自分たちだけがいて、最大音量で音楽を聴きながら夕食を待っている。「スゴイ幸せだなあ」と思いました。砂漠の中でご飯を待つ夕暮れのひととき。
(お口に合いました? 砂漠の中の食事。以前のお話しで、風が吹くと、砂が舞って砂のふりかけご飯になるということでしたが、砂を噛むような食事なのかどうか……)
──風の穏やかな日は、キャンプファイヤを炊いて、火を囲んでお酒飲んで、
満腹になって、歌って踊って、そのまま仰向けになると満天の星で……
(原始人みたいですね)
──とにかく、美味しいですよ。後半は、同じメニューにちょっと飽きてきましたが、それでも広々とした砂漠に、小さな折りたたみの食卓をだして、お尻のはみ出る小さな椅子にチョコンと座って、夕陽の中で皆で食べる夕食は、胸がキュンとするほど味わいのあるものでした。
(日本から何かを持っていきましたか?)
──ふりかけや海苔やカレールーや梅干、漬物、コーヒー、飴など。ありふれた日常の食品が、砂漠では貴重品になりました。
砂漠に入って四日目だったでしょうか、友人がトランクからジャコを出してきた時には目が潤みました。
(夕食が終わったら何をするのです? 当然、灯りはないですよね。ということは、日が沈まぬうちに夕食は終わるのですね。お風呂もない。飲み屋もない。本も読めない。何をしますの?)
──星空が楽しめます。もうその素晴らしさは喩えようがないです。毎晩手の届きそうな、今にも降り落ちてきそうな星々の輝きの下で想いにふけっていました。
新聞も配達されてこない。携帯も鳴らない。ひたすら、星を見上げて想いにふける。五十年生きてきたなかで、そういうことってないですよね。それは確実に幸せなことでした。今、思い出してもね。
(やはり、実際に行かれた人の言葉には臨場感がありますね。有り難うございました。寝泊まり、食事ときましたので、次は、服装についてのお話しを伺いましょう。)
《寝泊まり》 2004/6/19
(前回は、砂砂砂砂砂の旅行だ、というお話しを伺いました。今回は、どこに泊まるのか、というテーマで。もちろん砂漠の中でのことですが)
──テントホテル。たたみ二畳くらいに三人並んで寝ました。人間だけじゃなくって、三人の全部の荷物も一緒に横たわりますし、風が強い時は、登山靴もどこかに飛んで行かないよう、テントホテルの中に入れますので。満員御礼の札が出る状態です。
一緒に行った人達は登山家が多くて慣れていました。私は登山靴を砂漠へ行くために初めて買ったくらいの初心者なので……。
(寝る前にひと風呂浴びて、ってなわけにはいかないですよね)
──浴びるとしたら砂風呂でしょうけどね。
(パジャマに着替えて寝るのが砂漠でのエチケット、というわけではない?)
──もちろん着替えたい人はパジャマでも浴衣でも着ればいいのですが。私は、昼間歩いていた服装のまま寝ました。
(顔を洗ったり、歯を磨いたりもしないのですか?)
──顔はウェットティッシュで拭いて、歯磨きをするくらいの水は、一日分のの割り当てから残しておくんですよ。
髪も、洗えませんけど、櫛をあてて砂を落として。帽子を被ってても、ザリザリと音をたてそうな砂まみれ、汗まみれの髪になっちゃいましたからね。
(不自由なテントのなかの寝泊まりで周りの人のことは余り気にならないものですか?)
──友人達がパジャマに着替えたかどうかは知りません。他人の夜のファッションに関心を持つ余裕はありませんでした。寝袋の中だけがプライバシーでしょ。自分が生きてる事だけで精一杯の緊張の世界ですよ。
(エッ、テントの中で、また、寝袋に寝るんですか?)
──そうですよ。お袋さんなんちゃって。お母さんの懐に抱かれるようにね。
(テントは、中国の旅行社が用意したんですね。寝袋は各自が用意する?)
──そうです。ですから、テントの大きさも旅行社によって違うそうです。寝袋も旅行社が貸してくれますけど、私は日本から持って行きました。お袋さんですから。
(テントは誰かが張ってくれるのですか。それとも自分で?)
──エッヘン、私が張りました。いや、私だけじゃなくて一緒に寝る三人で。砂漠で、ツアーのお客様然としていたら、おっぽり出されてバイバイ。それこそ砂に埋もれて美女ミイラになってしまいます。そうならないために必死にテントの張り方を勉強して、皆で協力してルールに従ってキビキビ働きました。鉄やプラスティックの杭を砂にななめに打ち込んでそれにテントのロープを引っ掛けます。寝る時、背中に当たる砂がカチカチでも良くないですし、かといってスコスコだと打ち込めませんでしょ。ですから、砂の質を見きわめるのがとっても大変みたいでした。
(なるほど。前回うかがった波形に固まったロプノールの湖底でテントを張ると、朝起きると背中が傷だらけになっていたりして。そのテントを張る場所は誰が選定するのですか?)
──連れて行ってもらったわけなので、よく分かりませんが、とにかく事前にすごく精度の高い地図で、一日の走行距離を計算して計画を立てたようです。でも、実際は計画通りには行かないですよね。道に迷ったり、行く手が困難なので、予定外の場所だけれども、早めにテントを張ってゆっくり考えようとなったり。
場所は、その時の風の向きの状態や地形、砂質を考えて、テントを張る方向までしっかり指示されました。背後にちょっとした砂丘があって、砂嵐や狼などをちょっとでも防げる地形の場所が多かったように思います。狼の糞も落ちていましたから。テントのなかには入ってこないでしょうけど。 本当に360度何もない、ただただ平らの砂漠でテントを張ったのは一回です。道に迷って、そこに泊まるしかどうしようもなかった時です。
(余り平らだと、翌朝起きてトイレをするのに困るとか……)
──そんなこと、ちっとも困りません。ただ、いつもより遠くまで歩いて行けばいいだけのことです。生死にかかわることじゃないでしょ?
(寝袋の話が出ましたが、寒さはどうです。十月の初めでしたよね?)
──寒暖の差が激しいと聞いていたので、冬物の衣類をいっぱい持って行ったのですが、何とかギリギリで過ごせました。むしろ昼間の暑さで汗がいっぱい出ました。十月も中旬になると、寒さが厳しくて旅行できないそうです。
もちろん夜は、毎日寝袋にくるまって寝ました。そう言えば、テントの床も砂が入ってきますから、テントや寝袋の砂もよくはたきましたっけ。よく眠れましたよ。だって一日中砂漠を走って疲れますもん。私が走るわけでなくて、車が走るんですけど。その揺れっていったら、並ではありません。その揺れが身体に残っていましてね、横になっても揺りかごで揺られるようで。
(夜に風は吹きますか?)
──テントは外に近いですよね。空にも近いし、風にも近い。バタバタバタバタ、ザラザラザラザラ吹きました。外へ出られないほどの風が急激に襲います。すぐ退避命令が出ますので、じっとしていました。テントの中にぶら下げている懐中電灯がとても頼りがいのあるものに見えましてね。朝、起きたらサポート隊の車が風よけになってくれていて、感激したことがあります。ひょっとしたら、風が吹くからこそ砂漠なのかも知れないですね。
むろん、風のない静かな夜もありました。音のない夜。テントの外は闇。闇の下は砂。音が全部、闇と砂に吸い取られてしまっているようなね。 砂漠の中で聞く風の音。砂漠の中の音のない夜。こういった経験だけでも、あの旅行は価値があったと思いますね。
(なるほど。今回はここまでにして、次回は、食事の話を伺います。有り難うございました。)
《砂にまみれて》 2004/6/19
(タイトルが「楼蘭・砂まみれの記」ということですが、実際に楼蘭を旅行された印象としては、それほど「砂」の印象が強いものなのですか?)
──それは、もう。「砂に埋まってしまった謎に満ちたお城があるんだ」ぐらいの気持ちで出かけたんです。そしたら、そのお城に到着するまでが、砂砂砂砂砂。十日間くらい、どこへ行っても砂。地球は砂で出来てるんじゃないかと思うくらい。果てしない砂の向こうに広がっているのも、また、砂ですからね。
(砂漠にいるあいだは、砂漠にテントを張って泊まるのですね? )
──そうです。寝るのも砂の上。
(食事は?)
──もちろん砂の中。風が吹くと砂塵が舞って、お粥を食べていても砂のふりかけご飯みたいになっちゃって……。
(はあ、粒が細かいんですね。カメラなんかは大変でしょう?)
──カメラ類はすべてビニールケースに入れて持って行ったんですが、案の定、その中にも細かい砂がいっぱい入りこんで、帰国してからの機材の掃除や衣類・持ち物の洗濯が大変でした。ジャブジャブ水につけて何度も天日に干しました。
(帰ってもしばらくは砂を見たくない、と……。)
──帰った当座はそうですね。でも、「砂」というのは怪しい魅力を持っているものなんですね。今になって実感しています……もう三四年経っているのですが、今でも砂砂砂砂が夢に出てきますし、今ごろになって、捨ててしまった、その砂たちが、何故か、いとおしく思われて……。
友人と二人で参加したのですが、彼女は服とかケースからでてきた砂を集めて小さなビンに入れて、毎日眺めているんです。私もそれを見て、自分もそうすればよかったって後悔しています。捨ててしまった砂に喪失の想いとでも言いましょうか……。
(砂が夢に出る? うなされる感じですか? )
──いえいえ。とても静かで果てしなく広がっていて、誘われている感じです。
沖縄に星砂ってありますね。星の形をした真っ白な砂。すくうと、手からサラサラと乾いた音をたてて。その向こうにはエメラルドグリーンの夢のような美しい海があって。キラキラと海だけがあって。 星砂は本当は「有孔虫」という生物が死んで残した石灰質の殻ですからね、死んでるものなんですけど、海の懐に抱かれているから、ちゃんと生きてて、まるで安らかに寝息をたてているような感じですよね。 タクラマカンの砂漠も、どこか似ていて、静かに静かに生きている。そんな感じで夢には出てきます。
(でも、現実の砂漠は厳しい。ずっと、同じ感じですか。砂漠って。鳥取の砂丘みたいな……)
──五日も六日も走るわけですが、所によって砂漠も違います。細かい砂で砂丘を造る砂もあれば、礫漠って言うのだそうですが角張った小さな石の砂漠もあります。
また、同じ砂でも、カチンカチンになった砂もあります。ロプノールの湖底は、歩くと痛いですよ。砂と塩が一緒になって硬くなっています。靴底に当たる砂の感触は、もう岩と言っていいです。湖のさざなみがそのままの形でカチカチに固まったって想像してみてください。壮大な波の彫刻です。それが三六〇度。どこを見ても、その砂のさざなみしかないんです。
(はあ、そんな風景は誰も見たことがない。不思議な気持ちになるでしょうね)
──そんな所に一人で立ったら、気が変になるでしょうね。地球ではないみたいです。砂漠なら砂があってもいいじゃないですか。砂漠の中心で「寂しい!」って叫ぶでしょう。でも、手にとる、一握の砂もないんです。
何もない全くの砂漠なんですが、砂もない。カチカチに固まって、全てを拒否する砂の形。「何だこれは。これが地球か!」って。「動けよ!少しぐらい」って感じの砂漠。
(色はどうですか。土色でしょうか? それとも灰色? 場所によって変わりますでしょうか?)
──そういう目では見ていませんでしたが……思い出してみると、所によって、やっぱり違いますね。黄色だったり、灰色だったり、白っぽかったり。
(ふりかけご飯の色も場所によって違ってくるわけですね。)
──ふりかけご飯になりやすいサラサラしたところは黄色です。硬い礫のところが灰色。楼蘭では……薄茶色で表面が白。一瞬、月世界に降り立ったみたいな色感を持ったのを憶えています。あそこでは。
(なるほど。実際にこの目で見ないとうまく想像できない点もありますが、特にロプノールの湖底の固まったさざ波とかいうようなところは……。いずれにしても、有り難うございました)
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