《異界》

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(1) 異界

 チベットはいかにも遠い。

 明治三十年六月、神戸を出発した河口慧海がラサに辿り着いたのは、明治三十四年の三月であった。三年と九ヶ月かかったことになる。厳戒な鎖国政策をとるチベットへ入るのは生半可なことではなかった。身分を隠し「シナ僧」と称しての潜入行であった。ネパールから雪のヒマラヤを越える。高山病に苦しみ、飢えに苦しみ、寒さに苦しみ、幾筋もの河に苦しむ。
 三年九ヶ月……。
 チベットが吐蕃王国と呼ばれていた時代。七世紀に登場したソンツェン・カンポ王はチベットを統一した勢いを駆って唐を攻めた。この時、和議の証として唐が王のもとへ降嫁させたのが文成公主であった。泣きの涙で蛮地チベットへ赴いた彼女であったが、彼女のチベットへの嫁入りは、結果的には、この地における仏教教化に重要な役割を果たすことになった。聖都ラサでも最も聖なる寺院・ジョカン(大昭寺)に本尊として祀られているのは、文成公主がこの時長安から持っていったと言われている釈迦牟尼像である。今でも、チベット全土からこの釈迦牟尼像に詣でべく、無数の巡礼者がラサに向かって群がってくるのである。
 さて、この文成公主が長安の都を発ち、ソンツェン・カンポ王の居城に着くまでに費やされた時間も、三年半の長きにわたった。
 三年半……。
 出発したときには若く美しかった公主も、着いたときにはおばあさんになっていた?
 チベットに行くには、普通、片道三年半はかかる?
 いや、この二人はちょっとかかりすぎだ。それぞれに理由がある。一方は出家の僧。途中チベット語を勉強しながら、官憲の目を逃れて密入国するための間道を研究しながら、チベットに入ってからも、乞食同然の姿で、カイラスなどの聖地を巡礼したりしながら……の潜入行であったから。一方は王妃。峻厳な山道を歩くなんてことはしない。馬車で進む。ところが、馬車で進むような路はない。高度四千メートルのチベットの荒漠たる大高原に路を作りながらの嫁入り行であったから。

 それにしても、チベットは遠い。
 時代は下って昭和。敗戦を挟んで、河口慧海とは逆に、北から南へ降りてくるルートでラサへの潜入を試みた日本人青年がいた。西川一三。青海省のタール寺から一路ラサを目指す。その記録によると、タール寺から西に向かい、シャンというところまで十二日間。シャンで、隊商・巡礼のひとつの群に入り込む機会を待つこと五ヶ月。ようやくチャンスを得、シャンを出発しラサへ向かう。不毛の荒野を横切り、五千メートルを超える峠を幾つも越え、河を渡り、徒歩で歩き続ける。彼もまた身分を隠し、「蒙古人のラマ」と名乗っての潜入行であった。ラサにようやく到着し、日数を数えてみると、シャンから百と八日。タール寺からは、歩いた日数で百二十日。
「一路」でも四ヶ月……。

 四ヶ月かかっても、三年半かかっても、ラサに到達したのであればまだよい。ロシアのブルジェワルスキーもイギリスのウイリアム・ギルもアメリカのロック・ヒルもラサに辿り着くことはできなかった。楼欄の探検で世界に名を馳せたスウェーデン人のスヴェン・ヘディンも合わせて五年の歳月を費やし二度の挑戦をするも、ついに念願を果たすことはできなかった。
 それほどまでに、チベットは遠いのである。

 今はどうだろう?
 ラサと成都の間には毎日ジェット機が飛ぶ。ジェット機はあまりに軽々と雪の嶺嶺を越える。成都を発って一時間半、アッという間に、ラサの空港に降り立つことができる。三年半とはエライ違いだ。チベットは近くなった? 確かに、ある意味では。でも、チベットはまだまだ遠い、本来的な意味で。一時間半が一時間になっても三十分になっても、永遠に、チベットは遠いところにある。

 チベットは<異界>である。私たちの日常とははるかに懸け離れた<謎の王国>である。共産中国の「解放」以来、チベット仏教は壊滅的な打撃を受けたはずである。その現在でも、寺院の数は四千を越えるという。四千。半端な数ではない。チベット自治区の人口は二五〇万人ほどしかいないのだから。いくらお寺が好きでもちょっと多すぎないだろうか。何なのだろう?

 ポタラ宮でもいい、ジョカン(大昭寺)でもいい。マニ車を廻し、燈明を捧げ、「オム・マニ・ベメ・フム」と祈りの言葉を繰り返し呟きながら巡礼をするチベット人の群は途絶えることはない。そして、ダライ・ラマに代表される活仏の転生の信仰が、今なお、深く深く生きているのである。何なのだろう?
 ここが<異界>でなくて、何であろう。

 チベットは、一時間半の現代でも、「探検家」たちを引き付ける「謎の王国」なのである。


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