目次
ラサ
シガツェ
ギャンツェ
サキャ
ツェダン
ラツェ
サンサン
22道班
サカ
チョンパ
バヤン
タルチェン
カイラス
マナサロワール湖
ブラン
ツァンダ
アリ(獅泉河)
クッチ
ゲルツェ
ツォチン
チャムド

===チベット自治区===
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《ラサ》(拉薩)
チベット語で「神の地」を意味するという。標高3650メートル。チベットを東から西へ流れる大河・ヤルツァンボ河の支流であるキチュ川の北岸にある。チベット自治区の政治経済の中心であると同時に、チベット仏教という祈りの中心でもある。
 観音菩薩の化身であるダライ・ラマの居住の地であったポタラ宮、巡礼の姿が絶えることない大昭寺。そのほか、ガンデン寺、デプン寺、セラ寺など、まさに「神の地」と呼ぶにふさわしい厳粛な祈りに満ちた街である。
 ラサは、同時に、「太陽の都」とも呼ばれる。標高3658メートル。強い日差しが照りつける。街をゆくチベット人の頬は紫色に焼けている。見上げる空はどこまでもコバルトブルー。そういう意味でも別天地である。
 成都から航空便で入るのが一般的であるが、普通の日本人は多かれ少なかれ、高山反応があるはずである。健康管理には十分な配慮が必要である。

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<ジョカン>(大昭寺、だいしょうじ)
 聖地ラサのそのまた中心にある。チベット仏教で最も聖なる寺院である。チベット全土から、あるいはチベット以外の地、四川や青海、内蒙古からラサを目指す何千何万の巡礼は、ここジョカンに向かって集まってくる。
 寺院の前では、多くの巡礼が五体投地を繰り返している。
 辺りは、灯明に使われるヤクの乳で作るバターのが燃える動物質の匂いに包まれている。最も聖なる寺院であり、同時に、最もチベットらしい雰囲気が漂う場所でもある。
 創建は7世紀中葉、ソンツェン・ガンポ王はネパールよりティツゥン妃を、唐より文成公主を妻に迎えた。それぞれの妃がインド仏教と中国仏教をチベットにもたらしたが、ジョカンはティツゥン妃によって建立された。そのため寺の門はネパールの方向、すなわち西を向いている。
 本尊として祭られているのは、文成公主が嫁入りの道具として持参したといわれる釈迦牟尼像である。
 こんな言い伝えもある。かつて、ジョカンのある場所は湖であった。お告げでは、その湖を埋め立てて寺を建てよ、と。そこで湖を埋め立てたがそのとき活躍したのが山羊であった。そのために、ここがラサ(チベット語で山羊の地)と呼ばれるようになった、と。
 入ると中庭がある。中庭にも灯明が燃やされ、ここで五体投地をする人もいる。中庭を抜けて本殿に入る。チベット仏教の場合、巡礼は常に右回り(時計回り)に廻らなければならない。
 本殿に入りすぐ左手にあるのが歓喜堂。ゲルク派の開祖ツォンカパ(1357〜1419)と弟子の像を祀る。次いで、阿弥陀菩薩を祀る無量光堂、薬師如来を祀る薬師堂、さらに進むと、民衆に人気の高い十一面観音像を祀る観音堂。その先が弥勒堂。ネパール妃・ティツゥンがネパールより招来したと言われる弥勒像が祀られる。ついで本尊である釈迦牟尼像を置く釈迦堂となる。この釈迦牟尼像はチベット最古の釈迦像であり、ブッダが在世中にその姿そのままに造られたと伝承されチベット人が最も尊ぶ仏像である。黄金の冠や宝石で荘厳され威厳を気高い湛えている。
 チベット仏教史のなかで最大の巨人といわれるゲルク派の開祖ツォンカパであるが、彼は若い頃からジョカンの釈迦牟尼像を深く敬慕しており、1408年、彼がラサの僧侶八千名を率いて初めてモンラム祭(請願祭)を催したとき、それまでに彼に布施された全財産をついやしてこの釈迦牟尼像を黄金の冠や宝石で荘厳した。その荘厳そのままの姿で現在もあるという。
 二階にはソンツェン堂があり、ソンツェン・ガンポと一族の塑像が置かれている。
 チベットの建築では、ポタラ宮の歴代ダライラマの霊廟にもみられるように、重要な堂には金瓦の屋根をつける。ジョカンでも観音堂、弥勒堂、釈迦堂、ソンツェン堂の四つの堂には金瓦の屋根が付けられており、それらがちょうど本殿の東西南北の四辺に置かれている。屋上に上るとその四つの金瓦の屋根に囲まれ絢爛にして荘厳な気分になる。
 また、金瓦の屋根の間に見るポタラ宮の偉容も素晴らしい。

<パルコン>(八角街、はっかくがい)
 ジョカン(大昭寺)の本殿のなかがひとつの巡礼路になっている。巡礼たちは、本殿のなかを右回りに右回りに巡礼を繰り返す。パルコンは、これに対して、ジョカンの外を一回りする巡礼路である(もうひとつ大きな、市街を一周する巡礼の路もありリンゴルと呼ばれる)。
 人々は手にマニ車をまわしながら、口に「オムマニベメフム、オムマニベメフム」と唱えながらパルコンを巡礼する。なかには、五体投地で廻っている人もいる。
 同時に、パルコンは門前町として仏像、仏画、お香、灯明用のバター、民族服、ナイフなどを所狭しと並べた露天の店が順路に沿って連なっている。

<ラモチェ>(小昭寺、しょうしょうじ)
 ラサ市の市街にある。ジョカンと並ぶ古寺である。7世紀中葉、ソンツェン・ガンポが中国から娶った文成公主(?一689)が創建した。そのため、門は故郷の長安の方向、東を向いている。創建当時は中国様式であったというが、たびたび戦火にも遭い、現在の建物はチベット様式になっている。
 大きな寺ではないが、壁や柱に朱色を多用した美しいたたずまいの寺 である。
 本尊は、ネパール妃・ティツゥンがネパールより招来した阿シュク金剛である。文成公主が持ってきた釈迦牟尼像が、ティツゥンが建立したジョカンの本尊になり、ティツゥンがもってきた阿シュク金剛が、文成公主の建立したラモチェの本尊になっている。なぜか? 謎だそうである。
 また、ラモチェは、15世紀以来ゲルク派の経学院のひとつ(ギュトー密教学堂)となり多くの僧を育ててきた。ゲルク派では顕教の学びが終わった後に密教の学習を義務づけており、その最高学府が密教学堂であった。

<ギュメー・タツァン>(密教学堂)
 ジョカンとラモチェの間にある。ラモチェにあるギュウトー密教学堂と並び、ゲルク派のラサにおける二大密教学堂のひとつ。最初の学堂はツォンカパの弟子によって1433年に西チベットに建てられたが、ダライ・ラマ五世の時代にラサに移転してきたもの。
 ゲルク派では、まず顕教を学ばせる。それを修めたのちに密教に進む。もちろん、チベット仏教の神髄は密教のうちにある。その意味で、密教学堂はゲルク派の最高学府であった。
 文革で閉鎖されたが、1985年から再開している。

<清真寺>(せいしんじ)
 パルコンから東へ入る。清真料理屋が並ぶムスリムの街があり、石塀に囲まれたイスラム寺院が見えてくる。ラサには、チベット全土のみならず中国や蒙古から金や銀や宝石など大量の布施が集まったきていた。それを目当てに多くのイスラムの商人がラサとインドやネパールとの間を往復していた。彼らのための祈りの場が清真寺であった。

<ポタラ宮>  ラサの町の西の端に位置するマルポ・リ(紅い丘)にある宮殿式建築群。チベット族の古建築の精華と言っていいだろう。「ポタラ」とは、「観音菩薩が住まう地」の意だという。観音菩薩とは、その化身とされるダライ・ラマを意味している。
 十三階建て、主楼の高さは117メートル。総面積は十三万平方メートル。
 白宮と紅宮に分かれる。ダライ・ラマは宗教と政治双方の最高権力者であったわけだが、政治部門は白宮で、宗教部門は紅宮で執り行っていた。白宮は建物の下層と両側に広がり、紅宮は、白宮に支えられるように、中央部分の八階以上の高層を占めている。
 白宮は1645年、ダライ・ラマ五世によって着工。完成後にダライ・ラマはデプン寺から移り住み、それ以来ずっと、ポタラ宮はチベットの宗教と政治の中心であり続けた。紅宮の完成は1699年。摂政サンゲギャンツォの時代である。
 観光は白宮から始まる。白宮七階はダライ・ラマの住居で、現在インドに亡命中のダライ・ラマ十四世の居住していた部屋もある。紅宮には歴代のダライ・ラマのミイラを納めた霊廟が置かれている。なかでも目をひくのは五世の霊廟。霊塔の高さは十四メートル。3700キログラムの黄金と一万五千個の宝石が使われている。
 名高い「カーラチャクラ(時輪)立体曼荼羅」があるのは紅宮の三階。

<ノルプリソカ>
 ラサ市街の西の郊外にある。チベット語で「宝珠の林園」の意。1740年代、ダライ・ラマ7世(1708〜57)のときに造営し、のちに歴代のダライ・ラマの夏の宮殿となり、以降、チベット歴の4-9月はここで政務を執り、式典を行ってきた。
 総面積36万平方メートル。灌木が生い茂る美しい庭園に幾つかの棟が点在している。そのうち、タクトゥミンギュル宮はダライ・ラマ十四世が住んでいた建物。謁見室、私室、瞑想室などがあり興味深い。
 1959年、ダライ・ラマ十四世がインドへ亡命をするのも、ここノルブリンカから脱出をしてであった。

<ノルブリンカ>
 ダライ・ラマの夏の離宮。ラサ市の西の郊外にある。「宝物の公園」という意味だという。当初、18世紀の半ば第七代ダライ・ラマの療養の場として造られた。その後も拡張が続けられ、十三、十四代のダライ・ラマの時代には離宮として使われるようになった。

<セラ寺>(色拉寺)
 ラサの北五キロの山麓にある。このセラ寺、デプン寺、ガンデン寺をゲルク派三大寺院と呼ぶ。その中で、最もラサ市内に近いのがセラ寺である。
 創建は1419年。ツォンカパの高弟であるシャキャイェーシェー(1352〜1435)による。ツォンカパからの信任が厚く、ツォンカパが明の永楽帝に招かれたとき、名代に派遣されたのがシャキャイェーシェーであった。その後、1434年にシャキャイェーシェーは明朝から大慈法王に封ぜられている。
 デブン寺とならぶゲルク派の学問寺であり、多くの高僧を輩出してきた。四つあった学堂のうちガクパ堂、チェーパ学堂、メーパ学堂の三つが残っている。チェーパ学堂、メーパ学堂では仏教基礎、顕教が講じられガクパ学堂ではその上のコースとしての密教が講じられている。
 シャキャイェーシェーが北京から持ち帰った朱砂で書いたチベット語のカンギュル経、紫檀で彫った十六羅漢像、ツォンカパの施主であったミワン一族によって寄進された釈迦牟尼仏などを蔵す。
 日本人であることを隠し鎖国時代のチベットに仏法を求めて潜入した河口慧海や多田等観もこの寺に滞在をしてチベット仏教を学んだ。その意味では日本にも縁の深い寺である。
 寺の裏山が鳥葬場になっている。面白半分の見学記もたまに見かけるが、最近はこの手の外国人の見物者に対する警戒心も強くなっている。いずれにしてもチベット人にとっては神聖な儀式の場であることをくれぐれも忘れることのないようにしなければなるまい。

<デプン寺>(哲蚌寺)
 ラサ市の市街から西北に5キロ、山の斜面にある。セラ寺、デプン寺、ガンデン寺のゲルク派三大寺院のなかでも最大の規模を誇っていた。多いときには七千名を超える僧侶が修行をしていたという。
 創建は明の永楽14年(1416)。ゲルク派の創始者・ツォンカパの高弟ジャヤン・チェジュによって建てられた。
 1518年、ダライ・ラマ二世の時代、ゲルク派の有力な施主であったミワンタシタクパによってガンデン・ポタラ(ガンデン宮殿)が献じられた以降は、そこが歴代ダライ・ラマの居城となった。これは、十七世紀、ダライ・ラマの宗教・政治両面における絶対的権威が確立しダライ・ラマ五世がポタラ宮へ居を移すまで続く。
 セラ寺とならぶ学問寺として、十七世紀には七つの学堂を擁していた。現在残っているのはそのうちの四つ。最も規模の大きなのはロセリン学堂、ついでゴマン学堂。デヤン学堂は顕教の学ぶためのもの。そして、ガクバ学堂は顕教を学んだ僧が密教を学ぶためのもの。
 十七世紀以来、デプン寺はモンゴルより多くの留学僧を受け入れてきたが、そのほとんどはゴマン学堂で学んだという。そのため、モンゴルのチベット寺院の多くはゴマン学堂の末寺に当たる。日中戦争の時期、蒙古人になりすまし単身ラサに潜入、帰国後『秘境西域八年の潜行』を著した西川一三が学んだのもゴマン学堂である。

<ガンデン寺>(甘丹寺)
 ラサの東40キロ。キチュ河の南岸に当たる。セラ寺、デプン寺、ガンデン寺のゲルク派三大寺院のなかでも、唯一ツォンカパ自身によって建てられた寺である。ゲルク派最初の寺でもある。創建は明の永楽7年(1409)。
 ツォンカパ(1357- 1419)はチベット仏教ゲルク派の創始者。中国青海省ツォンカの出身。宗教改革者といってよいだろう。当時の堕落していた紅帽派を批判し、それと区別をするために黄色い帽子をかぶった。そのためゲルク派を黄帽派ともいう。十一世紀のインドの学僧アティシャが唱えた、覚りに至る道筋を帰依、発菩提心、菩薩戒、般若行、密教の順にとらえすべての修行法やすべての哲学を一つの修行階梯のうちに統合する思想を元に、様々に分裂をしていた当時の宗派の教えを統合する哲学大系を打ち立てた。チベット仏教史上、最高の理論家であり、チベット仏教が形成される過程で最も深い思想的影響を残したチベット人である。
 ガンデンとは弥勒菩薩が住まいする地である兜率天の意である。ガンデン寺が完成しツォンカパがここに移ってから、ツォンカパの率いる集団は「ガンデン山の流儀」あるいは「徳行山の流儀」と称され、その略称として「ゲルク派」の名が広まった。
 1419年、ガンデン寺が完成して二年の後、ツォンカパはこの地で没する。彼の遺骨を納めた銀の霊塔が建てられた。
 ガンデン寺の僧院長、ガンデン・ティパは転生で選ばれる。おそらく、これには、論理学を重視し、論争に勝利したものが出世するという権威システムを造り、それによってチベット全土で他派を圧倒していったツォンカパの姿勢が影響を与えているのではないかと想像される。
 1959年の解放軍の侵攻によって壊滅的な破壊を受けたガンデン寺であるが、徐々に修復がされつつある。修行僧も四百人ぐらいになっている。

<タイエルパ寺>(扎耶巴寺)
 ラサ市の東北50キロ。7世紀中葉に吐蕃王のソンツェン・ガンポ(?〜649)が王妃のために創建したと伝える。深山の断崖絶壁の間に位置し、あわせて108の山洞があり、僧の修行場であった。現在残っているのは十数か所の山洞であるが、そのうち、ソンツェン・ガンポ修法洞と呼ばれる祠にはソンツェン・ガンポとその王妃の壁画と塑像がある。
 後に、洞の周囲に寺院を建立した。インドの高僧で『覚りに至る道を照らす灯』を著し、その後のチベット仏教の流れを決定したと言われるアティシャ(982〜1054)の暮らした寺院でもある。

<ヤムドク/カロ・ラ峠>
 ともに、ラサからギャンツェに向かう道の途中にある。  ヤムドク湖は「トルコ石の湖」の名を持つ湖。名のとおり輝くような青色をしている。
 カロ・ラ峠は標高5045メートル。ノジン・カンツァン(7191メートル)の氷河がすぐそこに見える。

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《シガツェ》(日喀則)
 シガツェはチベット第二の都市。ゲルク派の二大活仏の一人であるパンチェン・ラマの本拠地、タシルンポ寺があることでも知られる。
 ラサからは、西へ330キロ。ヤルツァンポ河にニェンツェ河が合流するところにある。
 かつては、インドのシッキムやネパールとの交易の中継基地として栄えた。現在は、インドとの国境問題の紛争などがあり交易は途絶えている。
 標高は3800メートル。

<タシルンポ寺>
 タシルンポはチベット語で「吉祥須弥山」の意。ドルマ山の麓に広がるゲルク派の大寺院。創建は1477年、ツォンカパの弟子であるゲンドゥンドゥプによって建てられた。このゲンドゥンゴゥプは後にダライ・ラマ一世となる高僧である。
 パンチェン・ラマ四世のときからこの寺の座主はパンチェン・ラマの化身が受け継ぐべきこととなり、以降、パンチェン・ラマの宗教的、政治的活動の本拠地となった。
 山を背景に、金色や青色の屋根、赤い壁、白い塀の殿宇が層をなしてそびえている様は荘厳である。周りの塀の長さは二キロに及ぶという。
 中央にひときわ高いのは、パンチェン・ラマ四世の霊廟。高さ11メートル、それに連なって歴代のパンチェン・ラマの霊廟が並ぶ。それぞれ銀色の塔身にさまざまな色の宝石をはめこみ、見るものを威圧するかのように燦然と光り輝いている。
 境内で最も高い建物は、弥勒仏殿。26メートルの弥勒菩薩の座像が安置されている。
 また、かつては学問寺としてトゥーサムリン、シャルツェ、キルカン、ガクパの四つの経学院を擁していたが、現在残っているのは二学院である。
 ラサを中心とするウー地方と、シガツェを中心とするツァン地方は、久しく中央チベットの覇権をめぐって対立してきた。ゲルク派の時代になり、双方ゲルク派の支配するところとなっても、その対立は解消せず、勢い、ラサのダライ・ラマ対シガツェのパンチェン・ラマの対立の姿をとっている。チベット動乱以降も、ダライ・ラマはインドに亡命し、パンチェン・ラマは中国政府の要人を務める、というように対照的な道を歩んでいる。
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<シャル寺>(夏魯寺)
 シガツェ市の東南部にある。市街から20キロ。規模は小さいがサキャ派の名刹である。創建は1087年、僧ジェツウンディンジャオジュンネによる。
14世紀に招請され管長となったブトン・リンチェンドゥブは顕教と密教の両立を求め、生涯を厳しい戒律を守る出家者として送った。この寺を中心にチベット仏教の新しい展開をはかったため、彼の考え方を継承する人々をシャル派と呼ぶことがある。
 代表作としては、『仏教史』、『十万タントラ目録』、『論書目録』などがある。
 また、「シャル版」と呼ばれるチベット大蔵経を編集し後世に大きな影響を与えている。
 シャル寺は美しい仏画群を蔵することでも知られるが、これらはプトゥンの管長就任を祝ってこの地域を治めていた王が寄進したものだと伝えられる。

<ナルタン寺>(那当寺)
 シガツェの南西20キロ。創建は1153年。「ナルタン版大蔵経」で知られる。最初の「大蔵経」は14世紀に版刻されたが現存しない。現存しているのは、18世紀、当時チベットを支配していたポラネーによって復刻されたもの。

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《ギャンツェ》(江孜)
 ラサ、シガツェに次ぐチベット第三の町。ニャンチュのいう河のほとりに開けた。かつてはインドとの交易の中継地点で栄えた。20世紀初頭、イギリスがチベットに侵攻した際のラサへの進路に当たり、この地で壮絶な戦いが行われた。
 海抜は4040メートル。

<パルコン・チューデ>(白居寺)
 1418年の創建。当初はサキャ派の寺院であったが、その後、シャル派、ゲルク派が相次いで入り、各派共存の寺になった。
 俗に八角塔と呼ばれる仏塔は1427年建立。十三層で高さは34メートル、基壇の一辺は52メートル。チベット最大の仏塔である。
 正式には「クンブム」。百万の意味で、建物の壁に百万の仏像が描かれているという。各階には仏龕が掘られており、それぞれの仏龕には二三体の仏像が置かれている。
 一階から右回りに仏画や仏像をみながら登ると、その道程は悟りへの過程になるように造られている、と言われる。

<ギャンツェ城>  歴代のギャンツェ王の居城。丘の上に建つ。1903〜04年、イギリス軍がチベットに侵攻したさいには、丘の中腹に砲台などを設置し、必死の抵抗を試みた。

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《サキャ》
 シガツェから南西に150キロ。トゥム河沿いに開けた町。海抜は4100メートル。
 この町の民家はどれも高い壁に囲まれて建つが、その壁の色は、サキャの意匠で塗られている。全体を青黒く塗り、角に赤と白の帯を付ける。青黒色は金剛手菩薩を、赤は文殊菩薩を、白は観音菩薩を、それぞれ象徴するという。
 基調となっている青黒の金剛手菩薩は、強烈な力をもつという密教のホトケである。

<サキャ寺>
 チベット仏教は大きく分けて四つの宗派に分かれる。ニンマ派、カギュ派、サキャ派、ゲルク派である。そのうちのサキャ派の総本山がサキャ寺である。
 ニンマ=古、カギュ=伝統、ゲルク=徳行。宗派の名称は、それぞれこのような意味をもつが、サキャだけは、地名からとられている。
 古くからこの辺りはサキャと呼ばれていた。「サキャ」の意味は「白い土地」。ポンポ山とい山があり、その中腹には白い岩盤が露出している。それゆえ、サキャと呼ばれていた。
 白は、チベットでは、吉祥の色。1073年に、サキャ派の始祖クンチョクゲルポによってトゥム河の北岸にサキャ寺が建てられた。
 その後、サキャ派が全盛を迎えるのは13世紀。モンゴル軍がチベットに侵攻したときに、サキャ寺の管長・サキャパンディタはモンゴルから特別な信任を得る。さらには、サキャパンディタの甥ヂョゴン・チョゲ・パスパ(パクパともいう)は、フビライ・ハーンから導師として仰かれる存在になり、フビライは仏教を国教化する。これを、チベットでは「寺と檀家の関係」(チュ・ユンの関係)というが、これにより、1254年、フビライ・ハーンはパスパにいくつかの称号を授与し、チベット全土に及ぶ政治権威が与えた。こうして、サキャ寺は聖俗一致の権力を一手に握ることになった。
 サキャ派のチベット支配は約一世紀の間であったが、モンゴルを施主とし、その財力・軍事力でチベットを富ませる、という構造は、ある意味でその後のチベットの在り方に決定的な与えることになった。
 パスパの時代、トゥム河南岸にも南寺が建てられ、両岸に大伽藍が立ち並んでいたが、中国人民解放軍の侵攻により、北寺は完全に破壊され、現在残っているのは南寺だけである。
 城塞のような偉容をもつ南寺は、それひとつで、十分に当時のサキャ派の反映を物語る。

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《ツェダン》(沢当)
 ラサから東南へ190キロ。ロカ(山南地区)の中心である。ロカとはラサの南、ヤルツァンポ河からブータンの国境辺りまでを指す。古代チベット人発祥の地とされるヤールン渓谷にある。
 海抜は3500メートル。

<タントク寺>(昌珠寺)
 ツェダンから南へ5キロ。「チベット年代記」によると、仏教が入る前のチベットには巨大な人の肉を食う凶暴な悪鬼が住んでいた。ソンツェンカンポは王はこの悪鬼を鎮めるために悪鬼の身体の上に幾つかの寺院を建立した。その一つがタントク寺であるという。
 創建は7世紀、文成公主が唐からチベットへ輿入れした当初起居したと伝える。
 寺の最上階に真珠で作られたタンカ(仏画)が飾られている。ダライ・ラマ五世が母親の供養のために作ったという。使われているのは淡水真珠でその数は三万個。

<ユムブ・ラガン>
 ツェダンから南へ12キロ。小高い丘に、チベットで最も古いと伝えられる建物を復元したもの。伝説では、初代のチベット王であるニェティ・ツェンポが天から降りてきて城を造った、その場所がここである、と。
 現在ある建物は、1982年に建てられたもの。すべて石造りで、前 部は多層の建物、後部は楼台が設けてある。楼台からはヤールン河の流れが一望できる。建物の中には、ソンツェンカンポや文成公主、ティツゥン妃の像を納めてある。
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<吐蕃歴代王墓>(とばんれきだいおうぼ)
 ソンツェン・カンポなどチベット歴代の王の古墳群。ツェダンから南へ28キロにあるチョンギェ県。ソンツェン・カンポが七世紀に都をラサへ移すまではここが吐蕃の首都であった。
 周囲三キロの範囲に九つの墓陵が点在している。まだ、発掘は行われていない。墓はだいたい同じ形をしており、頂部は方形であるが、長年にわたる風化により円形に削られてしまっている。並び方に法則性はなく、大きさも一様ではない。高さは、大きいもので、数十メートルに達する。

<サムイェ寺>(桑耶寺)
 779年創建のチベット最古の僧院と言われる。
 同時に、チベット仏教のあり方を決定的なものにした所謂「サムイェ宗論」の行われた場所でもある。
 仏教を国教にしたのはティソンデツェン王。八世紀のこと。そのティソンデツェン王が建てたのがサムイェ寺。寺としてはラサのジョカンやラモチェの方が古いが、僧が修行をする僧院としては、サムイェ寺が最初であった。
 建立の際、顕教の学僧シャーンタラクシタと密教の成就者、インド僧のパドマサンバヴァを招聘して、ボン教の呪いを祓う儀式を行ったと言われる。ボン教とは、仏教が伝来する以前からあったチベットの民間宗教である。この一事よりも、当時の両者の対立の厳しさを知ることができる。
 仏教のなかでの争いもあった。インド仏教と中国仏教の主導権争いがあり、それに決着をつけようとしたのが「サムイェ宗論」である。ティソンデツェン王は、このサムイェ寺で禅宗の中国人僧とインド仏教の学僧を論争させた。その結果、インド仏教の学僧が勝利し、王はインド仏教を国教とする勅令を下した。
 初期のチベット仏教を語る上で忘れることができない寺である。
 また、この寺は「立体マンダラ」と言われるように、寺全体の建物の配置が仏教の説く宇宙の構造を表象している。円形の敷地内の中心にある仏殿が世界の中心である須弥山。北に月の堂、南に太陽の堂。須弥山の周りに浮かぶ四つの大陸を四つのお堂が表象する。
 ツェダンの西40キロ。ヤルツァンポ河を渡ってゆく渡し船がある。

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《ラツェ》
 シガツェの西160キロ。ヤルツァンポ川の渓谷にできた町。標高は4012メートル。
 ラツェは、チベット語で、光り輝く峰の頂上、の意。小さな町である。
 町の西で道は二つに分かれ、南へ行くとニュラム、ダムを経てカトマンズへ向かう。西へ行くと、道はヤルツァンポ川を渡りカイラスへ向かう。

<ラツェ・ゾン>
 ゾンは要塞。町の北の岩山の上にある。現在は壊されていて廃墟になっている。

<温泉>
 シガツェ方面に12キロ行った所に温泉が涌いている。簡易宿泊所もある。

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《サンサン》(桑桑)
 ラツェの西120キロ。ヤルツァンポ川に沿ってチンコー(裸麦)畑が続く。いくつもの村を過ぎるが、どの民家もサキャ派の意匠で壁が塗られている。
 サンサンは、いかにも、チベットの田舎といった雰囲気のある町。小学校、招待所、料理屋などひととおりもものは揃っている。
 町の外には草原が広がり、遊牧民のテントも見られる。

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《22道班》
「道班」とは、道路工事の現場事務所のようなもので15道班もあれば16道班もある。22道班だけが地図に記載されるのは、ここが道の分岐点だからである。どちらもアリ(獅泉河)に通じるが、北へ向かうとチャンタン高原を抜ける道になり、西に向かうとヤルツァンポ川にそった道になる。
 22道班はサンサンから120キロ。小さなレストランがあるだけである。

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《サカ》
「サカ」とは、チベット語で「可愛い地」の意。郵便局、招待所、レストランなどが揃い、この辺りで最大の町。ここから、チベット人向けのラサやシガツェへの乗り合いトラックが出ている。

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《チョンパ》(仲巴)
 サカから西へ145キロ。南にヒマラヤ連峰を見ながらのドライブになる。
「チョンパ」とはチベット語で「野生ヤクの出没するところ」の意。
 以前は町であったが、砂漠化により、いまではほとんど放棄されたような状態にある。

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《バヤン》
 チョンパから西へ110キロ。道は、ヤルツァンポ川に沿って走る。町の中央にはチョルテンがあり、その周りにはマニ石やらヤクの角やらがうずたかく積まれている。

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《タルチェン》
 標高4575メートル。カイラス(カン・リンポチェ)巡礼の基地になっている。
 小川が北から南へ流れる。
 北の正面にカイラスを仰ぎ、高台から南を望むとプンドクタン平原とその先にナムナニ峰(7694メートル)が見える。
 宿泊施設もあるほか、巡礼や旅行者のテントが点在する。
 カイラスを一日で巡礼するチベットの人は、すべての荷物をここにおき、身軽になって出かける。何泊かで廻る人たちは、寝袋や食糧など、必要なもの以外をここに残して出発する。

 河口慧海が一九〇〇年カイラスを巡礼したときには、タルチェンではなく、もっと西側から巡礼路に入っている。ただし、終点はタルチェンであった。彼は、こう記す。
「ここには三〇軒ばかりの石造りの家がある。その付近にテントも一二、三見えている。タルチェンはこの辺の一大市場で、また租税を取り立てるところでもある」。 チョンパから西へ110キロ。道は、ヤルツァンポ川に沿って走る。町の中央にはチョルテンがあり、その周りにはマニ石やらヤクの角やらがうずたかく積まれている。

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《カイラス》
 チベット高原の西部は「ンガリ」と呼ばれる。カイラスはそのンガリにある。ラサからは、最短でも1200キロ。厳しい気候と不毛の地ではあるが、毎年多くのチベット人がトラックや徒歩で、ンガリへ向かう。カイラスへ巡礼をするためである。
 カイラスはサンスクリット語で、チベット語ではカン・リンポチェ(雪山の意)という。ヒマラヤ山脈と平行して西北から南東にはしるガンディセ山脈の最高峰である。海抜は6714メートル。四季、万年雪をいただいている。
 カイラスはチベット仏教の世界観における宇宙の中心の須弥山と同一視され、古くから崇拝の対象であった。
 チベット仏教ばかりではない。ヒンドゥー教徒は山頂の形を玉座にみなしシバの住む所とし、ボン教では、開祖トゥンパ・シェンラブが天から地へ降り立った聖地としている。また、ジャイナ教では、始祖が悟りを得た場所としている。
 ジャイナ教というのは、仏教と同じ頃インドに起こった宗教で、マハーヴィーラを開祖とする。仏教徒同様ヴェーダ聖典の権威を認めず、万人の平等、カースト制度の否定を標榜した。輪廻からの解脱を目指したことも仏教と同様である。
 ジャイナ教の苦行者の厳格な禁欲主義は世に知られるところであるが、その禁欲主義と菜食主義がヒンドゥー教の一部にも影響を与えたといわれる。
 インド全体で、現在信者の数は370万人と言われるが、信徒の多くが商業的な成功者であり富と地位を有することから、その数に比べて、社会的な影響力は大きい。
 これだけ多くの宗教がカイラスを聖地とするのにはそれなりの理由があるのだろう。いずれにしても、チベット各地、インド、パキスタンなどから巡礼や苦行の者が数多く訪れ、山の周りを巡礼する。一周51キロ。 チベット仏教徒は右回りに、ボン教徒は左回りに。
 聖なる山に敬意を表し、山に登ることはないという。

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《マナサロワール湖》
 カイラスの南30キロには聖湖・マナサロワール湖がある。海抜は4588メートルである。カイラスとあわせて巡礼されることが多い。
 仏典には須弥山のふもとに無熱池という名の池があり、その池から四大大河が流れ出ていることになっている。マナサロワール湖はこの無熱池とされていることより、昔より、ブラマプトラ河(チベット内ではヤルツァンポ河)、ガンジス河(チベット内ではカルナリ河)、サトレジ河(チベット内はランチェン・カンバブ河)、インダス河の源流であると考えられてきた。最近の調査では、ランチェン・カンバブ河以外は、周辺の他の水源を源流としている。

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《ブラン》(普蘭)
 国境の町。インド、ネパールと国境を接する。標高は3800メートル。町のなかをカルナリ河が流れる。
 ヒンズー教徒にとっても、カイラス山とマナサロワール湖は聖地であるが、インド、ネパールのヒンズー教徒がそれらに巡礼しようとする際、入ってくる地点がブランである。
 ここからは、あと百キロ。彼らは、ホッと一息入れる。そういう場所である。
 交易の町でもあり、タンカ市場と呼ばれるマーケットは、チベット、インド、ネパールの品々が並べられている。

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《ツァンダ》(扎達)
 かつてはトゥリンと呼ばれていた町。トゥリン・ゴンパの所在地として知られる。十一世紀、チベット仏教改革の立役者であるインド僧アティーシャが布教活動に拠点とした町である。
 いまでは、町は寂れ、昔の栄華の面影はまったくない。

<トゥリン・ゴンパ>
 創建は十一世紀初め。インドで仏教を学び、帰国してサンスクリット経典のチベット語への翻訳に一生を捧げたリンチェン・サンポによって建てられた。
 その後、インドより招かれたマガタ国のヴィクラマシーラ僧院の大学僧アティーシャの加持を受け一躍チベット中に名を知られるようになった。
 アティーシャは、堕落していた当時のチベット仏教界に、はじめて仏教改革の波をもたらし、チベット仏教界に独身主義と高い道徳性を確立し、その後のツォン・カパ(一三五八〜一四一七年)の論争と哲学を重視する改革の流れを造ることになった。
 寺の造りや仏像は、カシミール、ラダック、ネパールの風格をもっている。

<グゲ遺跡>
 チベット初の仏教僧院であるサムイェ寺を建設し、779年には仏教を国教にしたのがティソン・デツェン王。その息子がレルパチェン王。彼も熱心な仏教擁護者であった。仏教興隆の一方で、土着の宗教の信仰者の不満も高まっていった。その代表が、レルパチェンの兄であったランダルマ。レルパチェンを暗殺して王位に就くと仏教を弾圧した。そのランダルマ王も、仏教僧に暗殺されてしまう。
 こうしてチベットは群雄割拠の時代を迎えるが、ランダルマ王の息子の一人、ウー・スンがこの地に建てた国がグゲ国であった。
 ウー・スンから数えて四人目の王はイェシェ・ウー。彼は仏教の復興に情熱を燃やす。リンチェン・サンボをインドに使わす。リンチェン・サンボは多くのサンスクリットの経典を持ち帰り、それを翻訳して新しい教えを広める。
 また、イェシェ・ウー王にはこんな逸話が残る。トルコ軍に捉えられ王の身体と同じ重さの金を要求された。イェシェ・ウーは、その金をインドから高僧を招くのに使いなさいと言って自ら犠牲になる。こうして、イェシェ・ウー王の命とひきかえ招聘されたのが、マガタ国のヴィクラマシーラ僧院の大学僧アティーシャであった。
 アティーシャは当初、グゲを中心に布教を開始し、やがて、チベット全土に教えは広がる。アティシャの入蔵を契機としてチベットにおいて仏教が復興することになる。彼の主著『覚りに至る道を照らす灯』には、その後のチベット仏教の流れを決定する画期的な思想が説かれているという。
 その舞台になったのがグゲ王国であった。
 当時、グゲ王国には二つの中心があった。一つは、現在、ツァンダと呼ばれているトゥリンと、もう一つは現在「グゲ遺跡」と呼ばれるツァパラン。ツァパランは、十六世紀にラダックの攻撃を受け、廃墟と化した。
 山全体が一つの城塞のような造りになっており、山頂にある王宮の跡の近くには、経堂と曼荼羅堂の遺構が残る。
 また、山の中腹には、外壁が赤く塗られた紅廟と白く塗られた白廟の二つの建物があり、白廟の内部には金剛界曼荼羅が描かれている。

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《アリ》(阿里)
 アリ地区の行政上の中心。中国が付けた名は獅泉河。一般には昔ながらにアリと呼ばれることが多い。
 標高は4280メートル。ツァンダからは255キロ。ラサからは、短い南道で1588キロ。遠回りの北道で1625キロ。西に向かうとカシュガルに通じる。カシュガルまでは1360キロ。
 街には新彊の雑貨、新彊の料理店も多い。
 獅泉河とは、街を流れるセンゲ・カンハブの中国語。インダスの上流である。

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《クッチ》(革吉)
 アリからは112キロ。道路建設などのためにまったく新しく造られた町。チベットらしさはない。それでも、北道をピッチハイクでゆく若者には有り難い存在であろう。

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《ゲルツェ》(改則)
 北道では最も大きな町。ホテル、レストラン、郵便局、電信局、などが揃っている。

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《ツォチン》(措勤)
 ゲルツォに比べれば小さな町だが、宿、食、郵便局などは一応揃っている。
 ゲルツェ〜ツォチン〜22道班の道はチャンタン高原の只中を走る。水のあるところには遊牧民のテントが点在する他は、まったくの荒涼たる景色がつづく。運が良ければ、野生ロバや黄羊の群れを見ることができる。

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《チャムド》(昌都)
 インドシナを流れるメコンの上流は中国名で瀾滄江。その瀾滄江の上流であるザチュ河とゴムイチュ河が合流するところにチャムドの町がある。
 カンゼ州やチャムド周辺の東チベットをカムという。一般にチベット人は、穏やかな民族だという印象が強いが、カム出身のチベット人の男は「カムパ」と呼ばれ、背が高く勇猛果敢なことで知られている。そのカム最大の町がチャムドである。標高は3240メートル。

<チャムパリン・ゴンパ>
 1437年にゲルク派の開祖ツォンカパの弟子であるチャンセム・シェーラブ・サンポによって建てられた。多くの僧院のほか、五つの経学院も併せ持つ大寺院であったが、1950年の中国軍のチベット侵攻の際に激しい攻防戦のあった箇所でありほとんどが破壊されてしまった。

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