(2) 濃密な祈り
敦煌からラサまでバスで旅したことがある。1700キロ。三泊四日でラサに着く。ゴルムドを過ぎ、崑崙山にさしかかる頃から、高度計はつねに四千メートルを指し示し続ける。最初は元気のよかった車内も、やがて、頭痛、吐き気などの高度障害でぐったりしてくる。口をきく者もいなくなる。バスは黙々と、果てなく続く牧草地帯を横切り、越えても越えても越え尽きることのない無数の峠を越えて行く。昼食の地点に着いても、降りてゆくのは、ドライバーと現地のガイドだけ、という状態になる。
そういう道筋で、巡礼に出会う。
最初は、なにかと思う。バスの前方にひとりの人影を見る。この辺りでは、道に人を見ることも稀だ。それが、道に倒れ込んだり、立ち上がったりを繰り返している。高度でボーッとした頭で考える。何だろう?
ガイドにきいて初めて分かる。五体投地でラサに向かう巡礼だ、と。
ラサまで? まだ、三百キロはある。三百キロといえば、東京から名古屋までの距離だ。ただ歩いても大変だ。それを五体投地で……。しかも、この荒涼たる高原をだ……。
バスを止めてもらう。
まだ二十代中頃に見える。
「ラサまで?」
「そう」
「どれくらいかかります?」
「一、二ヶ月でしょう」
こともなげに言う。
「……」
どう反応したらよいのか分からない。
「大変でしょう?」
分からないまま、我ながら詰まらないことを聞く。
「もう、少しです」
「もう少しって、どこから来たの?」
「果洛」
青海省にある町だそうだ。
「で、ここまで、どれぐらいかかったの?」
「五ヶ月」
あっ、そう。
どうなっているのだろう?
食べ物とか、寝るところとかどうするのだろう。聞けば、前方を指さす。なるほど、遙か前には、荷車を引く一団が見える。家族総出の巡礼なんだそうだ。前の一団には彼の両親と妻と子どもたちがいる。荷車には、食料、寝具が積んである。なるほどね。それは分かった。
それにしても、何なのでしょうね……。
朦朧とした重い頭で考える。何ヶ月もかけて五体投地でラサに行く方がどうかしているのか、それをどうかしていると考える自分のほうがどうかしているのか、と。
ラサに着く。ポタラ宮に行く。ジョカン(大昭寺)に行く。なるほど、どこへ行っても巡礼が群をなして参拝している。もちろん、皆が五体投地をしながら来たわけではないだろうが……。ポタラ宮とかジョカンに満ち満ちているあの重い空気を、どう表現したらよいのだろう。祈りが詰まっている、とでも言えばよいのだろうか。いや、祈りだけではない。 ヤクのバターの燈明が動物質の臭いを部屋中に充満させる。巡礼の人々はその燈明を瞳に映しながら、マニ車を廻し、呪文を唱える。狭い空間に、祈りのような、呪文のような、バターの臭いのような濃密な何かがぎっしり閉じこめられている。人々は、そこに、その濃密な何かを発散し、自らその濃密な何かにむせるようにして生きている。
何とも不思議な光景だ。
ここが異界でなくて、なんなのだろう。