《異界》

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(3) 輪廻転生と共産党

「転生活仏」制という制度がある。
 チベット仏教独特のシステムである。独特すぎて、私などは、どう考えたらよいのか見当がつかない。
 チベットには、菩薩の化身とされる高僧がいる。それが、「活仏」である。「活仏」などと聞くと、よほど希有な存在かと思うが、そうではない。チベットにはゴロゴロいる。少なくとも、ダライ・ラマのインド亡命以前には何百人もいた。ゴロゴロと言っても、勿論、それぞれに民衆の篤い崇拝を受けている。言うまでもなく、その「活仏」たちの中で、最も大きな権力と権威と持ち、最も大きな崇拝を受けているのが、ダライ・ラマとパンチェン・ラマというわけである。
 さて、その「活仏」が死ぬと、どこかに「転生」をするということが信じられている。「転生」、すなわち、他の誰かに生まれ変わる、というわけだ。で、必死になって、その生まれ変わりを探す。探す、といってもチベットも広いから大変だ。大変ではあるが、とにかく、探しに行く。こうして、探し出された転生者は、「活仏」の地位と財産を継ぐことになる。
 これが、「転生活仏」制である。
   信じられるだろうか?
 信じるためには、まず、インド思想の根本概念であり、そのまま仏教の根本概念である「輪廻」という考えを信じなければならない。チベット仏教は、その概念を「転生活仏」制という具体的な社会的制度にまで発展(?)させてきたわけだが、そこでは更に、「活仏」は解脱もしなければ犬にも生まれ変わらない、人に生まれ変わる、しかも、その転生者は誤ることなく探し得るのだ、ということを信じなくてはならない。
 信じられます?

 現在のダライ・ラマは十四世。十三世の没したのは一九三三年。この十四世が探し出されるまでの過程については、本人の自伝(『チベットわが祖国』)をはじめとして多くの記録が残されている。
 転生霊童を探し出す伝統的な方法として次のようなことが挙げられるのだそうだ。
  (1)先代ラマの遺体の観察
  (2)神託・占い
  (3)聖なる湖の湖面の観察
  (4)本人に対するテスト
 十三世は、東北の方角を向いて亡くなった。占いでも、東の方向が示された。こういうことから、捜索の方向が絞られてゆく。更に、湖面の観察。ダライラマ転生の徴候をみるのは中央チベットにあるラモイラツォという湖に定められている。一九三五年春、時の摂政は啓示を得るべく、湖のほとりで瞑想に入った。その瞑想のうちに、三字のチベット文字を感得する。AとKAとMA。この文字の意味を慎重に検討する。勿論、さまざまな解釈が可能なのだろうが、この時は、Aはアムド。すなわち北部チベット。KAとMAはチベット仏教史における最大の聖人・ツォンカパ誕生の聖地に建てられたクンブル寺を示していると解釈された。
 そういった情報をもとに、捜索隊が出され、死亡と誕生の期日の兼ね合い、その他の条件に合致する子供が探し出す。そうやって発見された子供に対して、次には、テストを行う。先代の遺品、数珠なら数珠を、ニセモノを混ぜた複数の候補の中から選ばせる。成功したら、次はデンデン太鼓、次は杖と……。

     チベット文化の精髄、と言っても良いのかもしれない。この「転生活仏」というシステムは。無数の寺院が建てられ、人々の祈りが溢れ、五体投地の巡礼が群をなしている。その祈りと、「転生活仏」のシステムは、切っても切れない関係にある。システムを可能にしているのは、祈りという情熱である。祈りを可能にしているのは、転生という理論である。

 さて、中国政府とダライ・ラマ十四世の亡命政権の確執のひとつにパンチェン・ラマ十一世の認定を巡る問題がある。
    ダライ・ラマと宗教的権威としての勢力を二分してきた一方の雄がパンチェン・ラマである。ダライ・ラマ十四世がインドに亡命した後も、パンチェン・ラマ十世は中国に留まり、中国政府の要職にも就いてきた。ダライ・ラマがチベットを去りインドへ亡命をしたのは、彼が二十五歳の時であった。その時、パンチェン・ラマ十世は二十一歳であった。チベットの現代史が、このチベット民衆の崇拝と期待を一身に担う二人の青年活仏に課した運命はそれぞれにあまりに過酷であった。ともかくも、一方は亡命し、一方は残った。残ったパンチェン・ラマ十世は、全国人民代表大会常務副委員長という要職のまま、一九八九年にこの世を去った。
 その生まれ変わりが、十一世である。
 ここで問題が起きた。一九九五年、ダライ・ラマ側はチベットに住む六歳の少年を十世の転生者として認定し、世界に発表をした。ところが、中国政府はこれを認めず、同じ六歳の別な少年を「転生霊童」として選び、十一世に即位させてしまった。
   一人の十世から二人の十一世ができてしまった。
 どう考えたらよいのだろう?
 どちらかが本物? 両方ニセモノ?
 どちらが本物の「転生霊童」だか、私には勿論分からない。ただ、ここで面白いのは中国政府のとった態度である。
 なぜ、「転生霊童」を自ら認定したのか?
「転生」という事実を信じた? 「霊童」を探し出す方法があることも信じた?
 そう、信じた。信じていないとすると、チベット人を欺き、世界を欺き、自らを欺くまったくナンセンスな行動をとったことになる。
 でも、ちょっとヘンでしょ。

 中国共産党の党規約は言う。「中国共産党はマルクス・レーニン主義、毛沢東思想を自らの行動の指針とする」。マルクスは言う。「宗教は人民のアヘンである」、と。
 別に私は、この件で、中国政府の矛盾を責めたいわけではない。皮肉を言いたいのでもない。むしろ、逆だ。科学的唯物主義を奉じる中国が、真顔で「転生霊童」を探す姿の中にこそ、チベットという<異界>性が如実に現れているのではないだろうか、と。
 勿論、チベット人を統治するため、という政治テクニックの側面はある、しかし、そのことを含めて、ここにかかずら合っていると、いつの間にか、ダライ・ラマの探し方じゃダメだ。本物の「転生霊童」探しはオレにまかせろ。こう言わずにいられない立場になってしまっている。
 いや、中国政府に限ったことではない。チベットに詳しい日本人の識者のなかにも、逆に、ダライ・ラマ側の選択を正当であると言う人は多い。でも、その人にこう尋ねたら、どうだろう?
 で、あなたは、「輪廻転生」を信じているのですか、と。
 もちろん、信じていないのです。少なくとも、日本での日常生活においては。でも、ひとたび、「チベット」という土俵に上がると、どちらのパンチェン・ラマ十一世が本物だ、などと口角泡を飛ばすことになる。

 チベットというのは、そういう「場」なのである。その「場」にいる限りにおいて、誰もが「輪廻転生」を信じている。
 その意味において、チベットは、やはり、<異界>なのである。

 何とも不思議な光景だ。
 ここが異界でなくて、なんなのだろう。


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