《巡礼》

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(1) 乞食となって……

 以前、青蔵公路で出会った巡礼のことを書いた。五体投地で、青海省の果洛というところからラサまで行くという。七ヶ月かけて。
 チベット仏教圏を歩いていると沢山の、無数と言ってよいほど沢山の、巡礼で出会う。<異界・チベット>のなかでも際だって異界性を発揮しているのはこの巡礼たちの群だろう。彼らは職業的な僧侶ではなく、有象無象の民衆なのだ。普通の日常生活を営んでいる民なのだ。それが、一念発起、日常生活を捨て、ラサのジョカン(大昭寺)に向かって歩き始める。どんなに大変なことか。どんなに思い切りのいることか。彼らの払う犠牲がどんなに大きなものか。それでも、その巡礼がチベット中に溢れている。
 彼らは私に問いかける。
 人生で一番大切なものは何ですか?
 あなたは、何に向かって生きているのですか?

 かつて出会った巡礼の何人かのを紹介したい。

 チベット・ツッダンの夕暮れ。暗闇のなかから読経の声が聞こえてくる。男数人の声だ。地の底から湧く上がってくるような読経だ。寺院の教堂などで何十人もの読経を聞いたことはあるが、その時は僧たちの姿が見えている。このように、暗闇のなかから響いてくる読経は、それとはひと味違って暗い凄みがある。
 気味悪い気持ちと引き付けられる気持ちが相半ばしながら、私たちは声のする方に寄っていった。
「ここは、村の会堂ですよ。きっと巡礼です」
 ガイドの胥さんがいう。ふと、見ると女がそばの大きな石に腰掛けている。赤ん坊に母乳をやっている。
「どこから?」
 胥さんが声を掛けるが、言葉が通じないようだ。一緒にいたチベット人の運転手がチベット語で何かを言う。女が反応をする。
 以下は、運転手さんが女から聞き出した話だ。

 チャムド(昌都)からやってきた。八ヶ月歩いている。あと半月でラサに着く。チャムドからラサへ真っ直ぐ行けばそんな日数はかからないが、遠回りをしていろいろなお寺に巡礼をしながらきた。それに赤ん坊を抱いての旅だし……。
 四人で歩いている。自分たち夫婦と、知り合いの若い男が二人。お経を唱えているのは、その男三人。
 夜は洞窟を探し、そこに泊まる。夜露をしのげるから。洞窟が見つからなければ、しょうがない。今夜のように村の空き家にありつけることは、稀な幸いだ。
 食べ物は、途中で人の恵みを受けている。巡り合わせの悪いときは、持参のツァンバで食いつなぐ。
 目的? チャムドの家は貧しいほうではない。金はないわけではない。でも、無一文で家を出る。乞食となって歩く。乞食となって巡礼をする。そして、最後はラサのチョカン(大昭寺)に辿り着く。

 乞食になって巡礼をする。そこに意義がある、ということなのだろう。
「たいへんなことだ」。運転手が感動をしていた。「ラサでは私の家に泊まりなさいよ」。別れ際に、ラサの自宅の住所をメモに書いて渡していた。しかし、それでもまだ、自分の気持ちには不足だったのだろう、財布をとりだし百元札を渡していた。
 巡礼は多い。少しも珍しくない。それでも、チベット人である運転手は、それに感動をする。「それが、チベット人なのかな」。ふと、そんなことを思った。
 それにしても、巡礼とは何なのだろう?
 帰りの道で運転手が何度も言っていた。「人生の何かが変わるものなのです」。彼自身は、こういった巡礼の経験はない。それゆえの羨望もあるのだろう。ただ、この場面を取り出してみれば、「チベット人にとって巡礼とは何か」という問いに対する答えとして、こう言ってもさほど的はずれにはならないだろう。
 自分ならざるものに生まれ変わるための行為、と。

 生まれ変わるためには何が必要か?
 すべてを投げ捨てること。すべてを投げ捨て、帰依すること。その表現が、五体投地。その表現が、無一文で出発し喜捨にすがって命を繋ぐこと。
 何とも凄いことだ。


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