《チベットは
  高いところにある》

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(1) 高度障害<1>

 チベットは「遠い」ところにある。このことは、すでに述べた。これに加え、もう一つ言わねばならない。チベットは、「高い」ところにある、と。  

 高山病というのは辛いものだ。
 河口慧海はネパールからチベットへの雪山越えの辛苦をこのように書き記す。
  「勇を鼓して上に上れば上るほど、空気が稀薄になるので、動悸ははげしく打ちだし、呼吸は迫って気管が変になり、そのうえ頭脳の半面は発火したかのように感じて、どうにもしようがない。もちろんその辺には水は一滴もない。雪を噛んでは口を潤しつつ進んだが、おりおり昏倒しかかるうえに、持病のリウマチのため、急に足が痛みだして、ほとんど通行することができなくなってきた」、と。
 もうひとつ、これも明治年間。西域探検で名高い橘瑞超が、新疆から甘粛へ抜けようとしてチベット高原へ足を踏み入れた時の様子である。
「しかしわれわれはここに着くやいなや、頭痛はいよいよ激しく、呼吸もまた切迫してとても起きてなどいられなくて、けっきょく一行はことごとくそこに倒れてしまった」。
 というわけで、ちょっと「高い」ところへ登るだけのことなのだが、このちょっと「高い」ことが、普段とは違う体調に私たちを導く。体調の異常は、精神にも影響を与えずにはおかない。チベットは「高い」ところにある。このことは、もしかしたら、大変に重要なことなのかもしれない。

 敦煌からラサへバスで向かったときのことを以前少し書いた。私たちは、この時、座席に座ってさえいればよかった。河口慧海のように、自分の足で歩ねばならぬものではなかった。橘瑞超のように、馬の背で揺られる必要もなかった。それでも、四、五千メートルの山を越えてゆくのはタイヘンだ。高度に対する反応はかなり個体差があるのだそうだ。五千メートルでもケロリとしている羨ましいほど鈍感な人もいれば、二千メートルでもう具合が悪くなる気の毒なほど敏感な人もいる、という。
 私の場合、どうだろう、三千メートルを超えた辺りからだろうか、最初は軽い頭痛がする。やがて、ボーッとしてくる。車窓から外を眺めていても、その風景と自分の目の間が膜で隔てられているような感じがしてくる。それは、視覚的なものというより、関係というか関心というか……。無人の高原を走っていると黄羚というカモシカに似た野生動物の群にあう。最初は一生懸命に群を探したり、見つけると数を数えたりしているが、高度反応が進むと、目は興味深く見ているのだが、頭の方は感動をしていなくなる。「あっ、そう」、という感じ。トイレ休憩に外に出ても、フワフワしている。自分の足で歩いている気がしない。月の表面をスローモーションで歩いているようだ。
 やがて、ヅキヅキと頭が痛くなり、息が苦しくなる。吐き気もする。
 車内を見回すと、みな青い顔で押し黙っている。「気の毒なほど敏感な人」は、座ってさえもいられなくなる。横になり、酸素の吸入が必要になる。
 もちろん、食欲なんてまったくない。昼食のためにバスが止まっても、降りてゆくのはドライバーと現地のガイドと「羨ましいほど鈍感な人」だけである。「羨ましいほど鈍感な人」が「あれっ、食欲があるのはオレだけか」なんて言い残して降りてゆく。こっちは青息吐息のボーっとした頭で思う。「食欲だけじゃないよ。性欲も物欲もないよ、こっちは。悟りの境地に近づいてきたかな」、なんて。
 その旅で私が一番ひどかったのは、三泊中の二泊目。トト河というところでの一夜であった。トト河は中国一の大河・長江の源流である。六三八〇キロ。青海省タングラ山脈の雪山に流れを発するトト河はやがて名を通天河、金沙江、長江と変えながら東中国海に注ぐ。その源まであと僅か二百キロ、という地点である。ところが、頭は痛いわ、息は苦しいわ、気持ちは悪いわ……。トト河も長江もどうでもいい。夕食も要らない。 「スミマセン。ここには招待所しかなくて、シャワー、トイレは共同です。電話はもちろんないし、夜は停電になることになっていますからロウソクを使って……」。何を言っているんだ。シャワーもトイレもロウソクも要らない。ただただ横になりたい。ベッドはあるんだろ。這うようにして部屋に辿りつき、ベッドに潜り込んだ。そのまま翌朝までまったく記憶がない。


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