(2) 高度障害<2>
トト河の高度は四六〇〇メートル。翌日のナクチュは四五〇〇メートル、終点のラサは三七〇〇メートル。つまり、この時はラサに向かって降りていったことになる。それだけに、ラサに着く頃には、体調は数日ぶりに普段の状態に戻り、頭痛もなければ吐き気もない。実に爽快な気分であった。
「たった三七〇〇メートルしかないんだ、楽なわけだ」。
ホテルのロビーのソファーにうずくまるようにしている日本人や、ポタラ宮の階段で青い顔をして息を切らしているヨーロッパ人を横目に、こちらは、走り出したいほどの快調さであった。
だからといって、次にラサに来たときも「走り出したいほど」快調かというと、残念ながら、そうではない。バスの旅から半年余りしてからだ。成都からのジェット機でラサに着いた。前回の四六〇〇メートルの経験で身体がなれているのではないだろうか、という期待をしていた。「たった三七〇〇メートルじゃないの」。ところが、さにあらず。最初の三日間ぐらいは、「三七〇〇メートル」に苦しんだ。頭が重い。ズキズキズキズキ。息が苦しい。ハアハアハアハア。食欲もない。睡眠もままならない。もちろん、トト河での苦しみには較べようがないが。
ラサに着いて、誰でも、最初は何ともない。変になるのは、その日の夜とか、翌日からだそうだ。ラサのガイドはよくこんなふうに言う。
「ラサに着くときはみんな体内に低地のエネルギーを持っているのです。袋に入った酸素みたいに。それをラサに着いたときから少しずつ使い始める。使い終わると、つまり袋の酸素を吸い果たしたとき、症状がでる。早く使った人は早くでる。ゆっくり使った人はおそくでる。それとは逆に、一方に、順化というのがある。慣れること。慣れればなんともなくなる。早く慣れる人と、おそく慣れる人がいる。使い果たす時間と、慣れるまでの時間の追いかけっこなんですよ」。
何百人もの外国人に接している経験からの言葉だ。何かを言い当てているのではないだろうか。
と、すれば、気の毒なのは、エネルギーを誰よりも早くアッという間に使い果たし、同時に、慣れるのに他人の何倍もかかる、という人だろう。
私の二代前のJTBの北京事務所の所長で鈴木勝さんという人がいるが、彼などは、ラサの空港に降り立つと同時に気分が悪くなり、三泊四日のラサ滞在中、ホテルの部屋のベッドから遂に一歩も出なかったという。
ラサに来たことが何かの間違いだった、と言うほかない。
これはかなりひどい例で、普通は適当に症状が出て、そのうち適当に直る、ということだろう。私は、成都に帰るときのラサ空港の待合室で周りの日本人、外国人を見て、いつも思う。「みんな随分元気がいいな」、と。先ほども言ったが、ホテルでもポタラ宮でもジョカン(大昭寺)でも、グッタリとした外国人観光客をよく見かける。青い顔をして、ハアハアしている。低地から持ってきたエネルギーを使い果たし、一方、まだ慣れていない人たちだ。ところが、帰りの空港では誰もが元気だ。
うまくできたものだ、と感心をする。
一時は苦しい。何でよりによってこんなところへ来たんだろう、と思う。もう二度と来るものか、と思う。でも、帰るときには、ちゃんと、爽快な気分で帰れる。人は苦しみを忘れることができる。これは、大変な能力だ。アア、いい旅立った。また来よう。こうしてラサを去ることができる。
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