《チベットは
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(3) 夢
チベットではよく夢を見る。
高度障害で頭が重い。気分もすぐれない。だから、普段より早くベッドに潜り込む。ところが、眠れない。眠りに落ちていけない。浅いところをウトウトするだけだ。何度も何度も目を覚ます。そして、よく夢を見る。
シガツェという街がある。ラサに次ぐチベット第二の都市だ。ここでの朝食の時のこと。ガイドの胥さんにこう言われた。
「和田さん、昨日の夜は特別に眠れなかったでしょう」 シガツェ、「眠れぬ街の謎」はともかくとして、チベットというのは眠れぬところだ。そして、ブツブツと切断される眠りの間に次から次へと夢を見るところだ。それも、私の経験では、何か暗い夢を見続ける。竜宮城で美女に囲まれて暮らす夢も、三億円の宝籤に当たる夢も見なかった。うなされるように夢を見続ける。ラマ教寺院の奇怪な顔の馬頭観音。暗がりのなかで揺れる燈明の列。暗い堂内に響く勤行僧の読経の声。五体投地の巡礼の群。……。こういったものが経絡もないまま頭のなかをグルグル回っている。浅い眠り。睡眠と覚醒の間が薄い。あるいは、睡眠と覚醒が混じり合っている。昼間見たものを思い出していたのか。それとも夢で見ていたのか。その区別が判然としない。夢うつつのなか、判然としないなあ、と思っている。それにしても、そう思っているのは、覚醒のなかで思っているのか、夢のなかで思っているのか? 眠りが浅い? 浅いのは夢ではなく、覚めていること? こう思っているのは夢? うつつ? ……。また燈明が一列になって揺れている。老婆がマニ車を回しながら燈明に祈りを捧げる。 チベットは高いところにある。気圧が低い。酸素が薄い。それが私たちをボーッとさせる。眠りを浅くする。夢を見させる。その通りだ。しかし、それにしても、そこにラマ教の寺院があり、壁には原色の仏画が描かれ、仏像が黄金に輝き、燈明が揺られ、読経の声が響く。それと、夢にうなされるように浅い眠りの夜を過ごすことは無関係だろうか? 高地にあること。酸素が薄いこと。そして、そこが「チベット」であること。これらは、一つの糸で結ばれているのではないだろうか。偶然ではなく、そうなるべくしてなっている。眠りが浅いこと。夢を見ること。それが、「チベット」なのではないだろうか。
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