(4) 雲
チベットの人々は雲のなかで暮らしている。
こう書いたら大袈裟にすぎるだろうか?
季節のこともあるかもしれない。特に印象が深いのは八月に訪れたときのことだ。八月は雨期。雲が多い時期なのだろうか。綿のように白い雲が、地表すれすれにたなびいている。地表すれすれであるくらいだから、山があれば、当然、山は頭を雲の上に突き出し、白い雲をその中腹を巻くことになる。その光景には、一種言い難い、独特の風情がある。
そういえば、わが国にも、「頭を雲の上に出し」という歌があった。富士山を歌った唱歌だ。ただ、チベットと違うのは、富士山が遠く見上げられ歌われているのに対し、チベットでは、私たちは、雲と同じ高さにいる、ということである。何とも奇妙な風景である。
ラサ河もヤルンツァンボ河も水かさを増している。膨らむように増水した河が、白雲に擦れ合うようにして流れていく。雲が河に濡れそう……。農村に行くと菜の花が満開だ。一面の黄色。その黄色を覆うように白雲が漂っている。遠くを見やれば、黄と白が混じり合っている……。野良仕事をしている人がいる。雲は、すぐその頭上にたなびいている。竹の籠を背に背負い道行く老婆がいる。その老婆は、雲のなかから現れ、雲のなかに帰っていく。ゴム飛びをして遊ぶこどもたちがいる。ジャンプすると頭が雲に届きそうだ。
これほど雲を身近に感じながら生きている人々は外にはいまい。
私たちが白い雲を思い浮かべようとすると、それは、青い空に遠くプカプカと浮いている。ここでは、手を伸ばせば届くところにある。子どもたちは、おやつに、綿飴の代わりに雲を食べている?
これだけ身近な存在である雲が、チベットの人々にとって「特別な何か」でないわけがない。
チベット人はこんなふうに言う。この世界は五つの色によって出来上がっている。自然界を形作っているのもこの五色。自分の心の底の底にあるものを凝視してみれば、やはり、この五色。五色とは、赤、青、黄、緑、白である。チベットの家々の屋根には、かならず、竿が立てられその竿には五色の布が結ばれひらひらと風になびいている。高い峠にも、高い柱が立てられ、そこから四方八方地面に縄が張られ、それにも五色の布が縛られている。形は違うが、ともに、タルチョと呼ばれる。その五色が、上に述べた色である。家々の屋根の上でも峠でも、タルチョがチベットの風にはためく。そこには、チベット人の祈りがある。赤は太陽、青は空、黄は大地、緑は水、そして白は雲。
チベットでは尊敬の念を表すのに白い絹の布を捧げる。ハタと言う。貴人を出迎えるときには、そのハタを首から掛ける。寺院を巡礼するときにも、チベット人にとっては必携の品である。賽銭とともに仏たちに献じて廻る。車で走ると、次から次へと名もない山々が前に現れては後ろに消えてゆく。どの山も、頭を雲の上に出し、白雲を中腹に巻いている。そんな風景を見飽きることなく見ていたが、ふと思った。ハタは雲だ、と。
忘れられない光景がある。雨期八月。シガツェの街でもそうだった。ギャンツェでもそうだった。街は山に囲まれている。夕暮れとともに、雲が山の斜面を滑るようにして降りてくる。見る見るうちに、音もなく、滑り降りてくる。音はないが、サーという無音の音を響かせながら降りてくる。家々の屋根の上にはためくタルチョにも、赭色の屋根にも、白壁にも、小麦の刈り入れ真っ盛りの畑にも、人々の肩にも、夕暮れのなか煙のような雲が降りかかる。霧のように。でも、霧ではないのだ。雲なのだ。毎晩のことだ。あまりに見事な光景で、心にしっとりと染み込んできた。懐かしいような、哀しいような。私が旅人であったからではないはずだ、チベットの人々の心にもきっと染み込んでいる光景に違いないのだ。
確かに、雲は、チベット人にとって何かなのだ。
チベットの人々は雲のなかで暮らしている。同時に、チベットの人々の心のなかにも雲がある。