(1) 人は死んだら生まれ変わる?
死んだら別な人間に生まれ変わる。そんなことがあるだろうか?
チベットのお寺に行くと、どのお寺も、入り口近くに六道輪廻の図が掛けられている。円を六つの境界に分け、真上に天界道、真下に地獄道、その間に人間道、阿修羅道、畜生道、餓鬼道が描かれる。人間は各自の「業」によってさまざまな生の姿をとりながら、無限に輪廻を繰り返すというのである。
これに従えば、人間に生まれ変わるとは限らない。前世は犬だったかもしれないし、来世は地獄かもしれない。だから人々は祈るのだ、と言う。少しでもマシなものに生まれてくることができますように、と。マニ車を廻し、燈明を焚き、「オムマニベメフム」を唱え、五体投地を繰り返す。
どう考えても、馬鹿げたことに違いない。
人は死んで生まれ変わる、という思想(?)は、むろん、チベット仏教の専売特許ではない。仏教固有の世界観ですらない。仏教の生まれる以前、古ウパニシャッド以来、インドでは輪廻転生の観念は哲学者のみならず一般の民衆の間にまで広く、深く染み込んでいた。繰り返し繰り返し生まれ変わる。繰り返し繰り返し死に変わる。生まれ変わっては死に変わり、死に変わっては生まれ変わる。それが人間という存在である、と。
人生は一度だけ、と信じている私たちとはエライ違いだ。それにしても、この違いはどこから来るのだろう。世界観の違い? 時間に対する感覚の違い?
そういえば、インド人は古来正確な日付のある歴史の書を残してこなかったのだそうだ。同じアジアの古代二大文明国のもう一方の雄である中国がそれこそ厖大にして克明なる歴史書を書き残してきたのに対して。その理由について、インド哲学の大家、中村元博士はこういう。
「インド的世界観によれば、この宇宙も社会秩序も永遠である。しかし、個人の一生は無限の時間の中で繰り返し存在する生の連続の一場面にすぎない。個人の一生が無限に繰り返されるものと考えるならば、一々の出来事を正確に記載することは無意味なものとなる」。(『時間 東と西の対話』所収「インド思想と日本思想における時間」)
宇宙の始まりも問わない。終わりも問わない。時の始まりも問わない。時の終わりも問わない。ただ、すべては移ろう。繰り返しながら移ろう。移ろいながら繰り返す。こうしてみると、少なくとも古代インドの人々にとって、「輪廻転生」は少しも突飛な発想ではなかった。ほとんど、自明のことであった。
試みに、キリスト教的歴史意識を対比させれば更に明らかになる。キリスト教は世界の始まりを明示する。神による天地創造である。世界の終わりも明示する。最後の審判。そのなかで、人間の命にも絶対的始まりと絶対的終わりがある。一度死んだ人間は、この夜の生命に戻ってくるということは絶対にない。
現代の日本にあって、私たちのほとんどは、生は一回かぎりだと思っている。それは、宗教的な世界観のなかでのことではない。逆だろう。霊も魂も信じてはいない。精子と卵子の偶然の結合。そこに細胞が生まれ、分裂を繰り返し、自分という肉体が生まれる。その肉体に、自分という意識が宿る。肉体が滅ぶと、その意識も消える。肉体の死は、すべての終わり。生まれてくる前も、何にもなかった。死んだ後も、何もなくなる。それだけ。
私たちは驚く。チベットへ来ると驚く。マニ車を廻し、燈明を焚き、「オムマニベメフム」を唱え、五体投地を繰り返す人々の群。私たちは、その祈りの真剣さに驚かされる。
そして、彼らは固く固く信じている。今の生の前に別な生があったことを。今の生の次に別な生があることを。厖大な時間を費やす祈りは、今の生のためではない。次の生のためだ。私たちは、その信念の強固なことに驚かされる。
チベットで数日を過ごす。バカバカしいと思う。バカバカしいと思いながらも、日本では発したことのない疑問が自ずと胸をよぎる。
「死んだら別な人間に生まれ変わる。そんなことがあるだろうか?」、と。