(2) 前世の記憶?
チベットは不思議なところだ。
普段は無意識の底に沈んでいる「死」が急に意識の表面に現れてくる。「死」が身近になる。「死んだら別な人間に生まれ変わる。そんなバカなことがあるだろうか?」。行くときはボーッと出かけてゆくが、帰ってくるときには、こんな不思議な疑問が胸に揺れている。そういうところだ。
その気分から抜け切れていない時のこと。本屋で、フト、『前世療法』というタイトルが目に留まった。いつもならそのまま通り過ぎるところ、なにしろ、「生まれかわる?」「そんなバカな」と、まだ、チベットの気分のなかで自問を繰り返している時だから、知らぬのうちにも、まなこがカッと捉える。
「アロンダ……、私は十八歳です。建物の前に市場が見えます。かごがあります……かごを肩に乗せて運んでいます。私達は谷間に住んでいます……水はありません……時代は紀元前一八六三年です。その地域は不毛で、暑くて、砂地です。井戸があって、川はありません。水は山の方から谷間にきています」
著者は、ブライアン・ワイスというアメリカの精神科医。
キャサリンという名の二十七歳の女性を治療している。水が怖い。息がつまるのではないかと恐れて、錠剤を飲み込むことができない。飛行機もこわくて乗れない。暗闇も怖い。こうした恐怖や強迫観念から解放させるために催眠療法を施す。催眠術で、患者自身が忘れている過去のトラウマ(心の傷)の発生した時にまで記憶を遡らせるのは、精神科のカウンセリングの場でしばしば用いられる手だそうだ。
著者は女性に記憶を辿らせる。順々に時間を辿り、二歳の時にまで戻す。それでも、彼女は重大なことは何一つ思い出さない。そこで、著者は何気なく漠然とした指示を出す。「あなたの症状の原因となった時まで戻りなさい」、と。
そこで、上のことになる。
何と、彼女は、過去の生を思い出した。アロンダと名付けられた生。場所は古代エジプト。そこで、洪水か津波かが村を襲う。
「大きな波が木を押し倒してゆきます。どこにも逃げ場がありません。冷たい。水がとても冷たい。子供を助けない。でも、だめ……子供をしっかりと抱きしめなければ、おぼれそう。水で息がつまってしまった。息ができない。飲み込めない……塩水で。赤ん坊が私の腕からもぎ取られていってしまった」
アロンダの、この経験が、現在のキャサリンの神経症と強迫観念の原因だと……。この古代エジプトの生ばかりではない。キャサリンは十八世紀のスペインでの生も思い出す。紀元前十五世紀のローマ。十五世近所オランダでの男性としての生。……。読んでいると鳥肌が立ってくる。彼女というのだろうか、彼というのだろうか、合わせて八十六回生まれ変わってきたという。
どう考えたらよいのだろう。
一つの可能性として、この本はノンフィクションを装ったフィクションである。これはひとつの答えだ。つまり、作者はもともとありもしないことを書いている。それならそれでよい。良くできた小説だ、と。
もう一つの可能性は、この書は事実の報告である、ということ。少なくとも、著者が実際に見聞きしたことである。この場合には、さらに二つの可能性に分かれる。一方は、催眠中のキャサリンが見聞きしていることは彼女の脳細胞の中で繰り広げられている幻影にすぎない、ということ。残る一方は、彼女は何度も何度も生と死を繰り返しており、実際に生きた過去の生を本当に思いだしている、ということ。
どう考えたらよいのだろう。