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* 羊飼いたちの時間 *


<時間は文化>(1997.3.21)

「時間」は文化である。
 それぞれの文化はそれぞれの「時間」をもつ。
 人が異文化に触れるとき感じるひとつの戸惑いは、この「時間」の違いからくる。
 北京に駐在した時に感じた時間にまつわるカルチャーギャップを『中国旅行がしたくなる本』という著書のなかでこんなふうに書いたことがある。

 この国に滞在する殆どの日本人が共通して抱く感想がある。
 何故、ひとつひとつの仕事がこんなに遅いんだろう、と。
 両替をする。香港でもアメリカでも一、二分で済む。中国では三、四倍はかかる。電卓を使って計算するのも、その計算を伝票に書き込むのも、お金を数えるのも、とにかく遅い。特に日本の銀行員の札を数えるスピードと較べると、「この人は札の番号を一枚一枚暗記しようとしているのじゃないかしら」と思うくらいにゆっくりしている。
「俺が換えたのは二万円だよ。これで五十万円も換えたらどうなるんだよ」 こんな声を両替の窓口でよく聞く。
 私は駐在中毎月一度、実際に、五十万円を銀行に換えに行っていた。時間が掛かるなんてもんじゃない。
 その頃こんな夢を見た。
 銀行で顔見知りの日本人駐在員に出くわす。彼は私より三十分も後に来たのに先に両替を済ませて帰ろうとする。わけを聞くと、千元札で換えてもらったから数えるのが早いのさ、と言う。中国に百元札以上の紙幣はないはずだがと訝ると、「頼めば換えてくれるさ」との答え。
「使えるのかい」
「分からない。でも早いのが一番さ」
 そりゃそうだ。俺も次はそうしよう、と夢の中で思っている。
 無論、両替に限らない。買い物をする。レストランで料理をオーダーする。ホテルで荷物を部屋に上げてもらう。日本的な感覚で相手の対応を期待すると、とんでもなくイライラすること請け合いだ。
 窓口がどんなに混み合っていても、こちらがどんなに急いでいても、彼らのペースに変わりはない。それが一番イライラする。むしろ逆に急いでいればいるほど、こちらのイライラを楽しむようにわざとゆっくりとしているのではないかとさえ感じる。

 私たちは、待つことは無駄だと思っている。待たせることは罪悪だと感じている。そして、このことは、世界に共通する普遍的な真理であると信じている。ところが、中国人は、必ずしも、そうでは思っていない。
 そういうことなのだろう。
 私たちは思う。なんて効率が悪いんだ、時間が無駄じゃないか、と。
 彼らは思う。何を年中せかせかしてるんだ。少しは落ち着け、と。
 いやいや、動作の俊敏、緩慢ではないのかも知れない。そもそも、流れている時間のスピード自身が彼方と此方では違うのかも知れない。
 確かに。
 北京でもよい、上海でもよい。中国の街を歩いてみるとよい。時間の流れ方が日本のそれは違うことにいやでも気が付く。中国の時間は、ゆっくりと流れている。そう、黄河のように。悠々と、滔々と。その流れに揺られながら、人々は太極拳の動きのように、ゆったりと歩いている。

(写真はいずれも上海の街角)

 日本ではどうだろう。
 時は球磨川の急流のように飛沫を揚げ、音を立てて流れ、人々はチャップリンの時代の映画のように、チョコチョコと歩いているのだろうか。
 太極拳はチャップリンよりも立派である、と言いたいのではない。逆でもない。ただ、私が言いたいのは、違うんだ、ということである。私たちから「無駄」に見える分、彼らからは「せかせか」に見える。逆に言ってもよい。彼らが「せかせか」と感じる同じ分だけ、私たちは「無駄」を感じ取ってしまう、と。持っている物差しが違うのだ。幾つもの物差しがあること、それは確実に、良いことである。少なくとも、楽しいことである。そのそれぞれの物差しが文化である。
 そして、たまにはいつもとは違う物差しで自分を測ってもよいのではないか。それが、旅というものではないだろうか、と。
 例えば北京の街角で、黄河の流れに出会う。「何て効率が悪いんだ。何て時間の無駄なんだ」、と思う。流れに乗れない自分を発見する。そんな時、フト思う。
 時間の無駄って何なんだ、と。

 時は金なり。アメリカ独立宣言を起草したかのベンジャミン・フランクリンの言葉だという。フランクリンの発明であるかどうかは別にして、彼の抱いた「倫理」であることは確かだ。『フランクリン自伝』には勤勉の勧め、時間の浪費の戒めが、読む者を辟易とさせるほどに繰り返されている。他人に勧めるだけではない。自分自身の「道徳的完成」を目指し、自らに十三条から成る戒律を課したんだそうだが、それらを共通して貫くのは、節制、節約、勤勉の精神だ。例えば、こうだ。「時間を空費するなかれ。つねに何か益あることに使うべし。無用の行いはすべて断つべし」(岩波文庫、松本慎一・西川正身訳)、と。なかには、こんなのもある。「性交はもっぱら健康ないし子孫のためにのみ行い、これに耽りて頭脳を鈍らせ、身体を弱め、……」。何ともおかしい。セックスが健康増進に役立つとは知らなかった。どうも最近身体の調子が悪いのは、そうか、……なんだ。
 本人が真面目なだけにおかしさもひとしおなのだが、とにかく、一生懸命に「時間の有効利用」を考えていたことは確かだ。どうも、フランクリンというと、年中凧揚げばかりをしていた男という印象があるが、凧を揚げながらも、「性交はもっぱら健康ないし子孫のためにのみ行い……」、などという呪文を唱えていたのだろう。

 時は金だ。ここまではよい。
 で、金とは何だ。節約した時間は何に使うんだ。誰でもこう聞きたくなる。
 しかし、そんなことは、フランクリンは考えない。とにかく、時は金だ。無駄にしちゃいかん。勤勉自体を自己目的化させる。だから、「倫理」になる。この「倫理」を俊敏に読み取り、「資本主義の精神」と結びつけたのが、ドイツの社会学者マックス・ウェーバーであった。
 勿論、フランクリンは並の人間ではない。アメリカの独立に際し、大陸会議代表や独立宣言起草委員を務めるなど活躍をしたばかりか、科学者としては大気電気の確認、避雷針の発明などという功績も残す。
 それでも、自伝などを読んでいると、「時間を空費するなかれ」という倫理感の馬鹿真面目さにおいて、戯画の主人公に仕立て上げたくなる衝動が起こるのを如何ともしがたい。

 ところが、その私たちが中国へ行くと、中国人の事務の不効率性を声高に指摘したくなる。「時間を空費してはいけない」。思わず、中国人にこう訓示したくなる。
 私自身何度も経験がある。北京事務所で働く中国人のスタッフののんびりとした仕事ぶりにイライラが募り、つい言ってみる。
「全体、もう少し早くできないかな。手紙を書くにも、計算をするにも、コピーを取るにも」
「早くやるとどうなります」
「もっと仕事ができる」
「えッ、まだ仕事をするんですか」
「少なくとも、余った時間で、ゆったりと仕事ができる」
「だから、今、ゆったりしてるじゃないですか」
「……」
 そのとき、私たちはフランクリンになっているのかも知れない。私たちがフランクリンに感じる「おかしさ」を、中国人は私たちに見ているのかも知れない。だとすれば、「時は金」と考える現代の黄色い肌のフランクリンと「時は時」と感じている中国人は、どこまで行っても平行線だ。

 確かに、私たちは、ここで立ち止まってよいはずだ。
 効率よく時間を使う。するとどうなるのだろう。逆に、時間を空費する。それは、何をどうしたことなのだろう。
 考えてみれば、簡単な問いではない。
 考えを重ねるうちに、こんな哲学的な疑問へと繋がって行く。
 果たして、人は時間を無駄に使うことができるのだろうか、と。


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