* 北京胡同(横丁)物語 *


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<「胡同」ってなに?>

 辞書を引くと、「横丁」とでてくる。悪い訳ではない。「横丁」。この言葉から日本人はどんな風景を想像するだろうか。華やかな通りをひとつ折れる。街の別な顔が現れる。庶民的で、活気があって、少し小便臭くって、少し涙っぽい。「恋文横丁」とか「アメヤ横丁」とか……。ネオンサインや人々の雑踏を思い浮かべるのは私だけだろうか。そうかもしれない。もともと「横丁」には、そんな意味は含まれていないのだろうから。もし、私と同様に、ネオンサインのまたたきや、買い物客の雑踏を思い浮かべるのであれば、それは、「胡同」とは違う。
「路地」という日本語もある。路地裏。こちらの方が、「横丁」と較べると、生活感がある。豆腐売りがラッパを吹いていたり。子供たちが石蹴りをしていたり。夕餉の魚を焼く匂いがしたり。そう、「胡同」は、むしろこちらに近いだろう。「胡同」というのは、何よりも、人々が暮らす場所なのだ。ただ、「胡同」には「路地」がもつ何となくうらぶれたようなイメージはない。

 つまり、「胡同」という言葉にピッタリ当てはまる訳語は、どうも、日本語にはないらしい。
 お分かりいただけるだろうか。私が今ここに書こうとしているのは、何故、私は「胡同」を語りたいか、というその訳についてなのだ。
 私が住んでいる埼玉の新興住宅街には、「横丁」も「路地」もない。道はある。逆に言えば、道しかない。表通りでもなく、裏通りでもない。ただの道。人はそこを歩き、車はそこを走る。逆に言えば、人がそこを歩き、車がそこを走る以外にその道の役割はない。
「胡同」は少し違う。
 勿論、人々はそこを通ってどこかに行く、そこを通ってどこからか帰ってくる。道であるのだから。ただ、そればかりではない。女たちは、そこで、物売りの持ってくる野菜や豆類を買い、近所の仲間と立ち話をし、七輪を持ち出して飯を炊く。子供たちは、そこで、遊び、宿題をする。年寄りは、鉢植えの花を育て、イスを持ち出して昼寝をする。
 人々の生活の場である、と言ったらいいだろうか。
 人々の出会いの場である、と言ったらいいだろうか。
 人々が生きる舞台である、と言ったらいいだろうか。

 東京や大阪の下町にも、どこか、こういう「路地」は残っているのかも知れない。ただ、北京という街は少し違う。下町だろうが上町だろうが、街中至る所に「胡同」がある。街の真ん中、東京で言えば銀座や大手町にあたるところにも、「胡同」があり、女たちは立ち話をし、子供は宿題をし、年寄りは鉢植えの花を育てていることである。近代的な高層ビルが建ち並んでも、そこから、人々の生活の匂いが消えない。それが、北京という街の不思議さである。北京にある「胡同」の数は、三千を越えるという。北京の街を歩いたらいい。三千という数字が誇張でないことが分かる。大通りを脇に入れば、「胡同」がある。その「胡同」を抜ければ、別な「胡同」がある。街中に「胡同」がある。北京の街のなかに胡同があるのではない。逆だ。胡同のなかに北京という街があるのだ。

 そんな北京という街の不思議さを伝えたい。それが、「北京胡同(横丁)物語」だ。


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