<夕暮れには憩いあり>
朝が活気なら、胡同の夕暮れは何と表現したらよいだろう。「憩い」、とでも言ったらよいだろうか?
「憩い」。日本では死んでしまった言葉だ。「『憩い?』。見たことも食べたこともないですね」。若い人ならこう言うだろうか? そう。日本では、とうに、絶滅してしまった。トキのように。
仕事で人に会うために胡同を歩いていた。事務所の中国人スタッフの馬慶明さんが一緒だった。約束の時間に遅れないようにと、二人は急ぎ足で夕暮れの胡同を通り抜けようとしていた。
胡同には夕暮れが迫りつつあった。初夏の夕暮れ。暮れそうで暮れない。それでも、確実に夕闇が濃さを増しつつある、そんな不思議な時間帯であった。
歩きながら思った。何か違うな、と。
戸口に椅子を出して、夕涼みを楽しむ老人。将棋に興ずる大人たち。石蹴りをして遊ぶ少女たち。七輪に練炭を燃やし、夕餉の支度をする女たち。みな、この胡同の夕暮れのなかでのでのことだ。
大人たちの、早口の喧嘩をしているような話し声と。少女たちの笑い声と。赤ん坊の泣き声と。「ご飯だよ」。子供を呼ぶ母親の怒ったような声と……。みな、この胡同の夕暮れのなかでのことだ。
醤油の焼ける匂い。ごま油のあぶられる匂い。肉が炒められる匂い。色んな匂いが風に揺れている。その中を、親子三人が、子供を真ん中に手を繋いで歩いている。若いカップルが買い物籠を大きく振りながら歩いている。みな、この胡同の夕暮れのなかでのことだ。
そのなかを、ネクタイを締め、書類カバンを抱え、頭を仕事でいっぱいにして歩いている。何か違うな……。私は言葉を探そうとした。何と言ったらいいのだろう。余りに場違いな私の存在を。あるいは、私を包んでいるこの空気を。一日が終わるその安堵感、とでも言ったら良いだろうか……。憩いの時、とでも言ったら良いのだろうか……。
「不思議なんですよね……」
馬さんが、上を見上げながら、言う。
「何が?」
私も、上を見上げながら、聞く。
「音がしますでしょう……葉が擦れる音が……ザワザワって」
言われて気が付く。両側は槐の並木だ。槐の大木が、暮れまどう空から若い葉を覆い被せている。耳を澄ます。なるほど風が吹く。葉が揺れる。音がする。
でも、不思議だろうか。風が吹いて槐が音を立てるのが……。
「夕方になると音がするんですよ……なぜでしょう?」
ふーん。槐の葉は夕暮れ時にだけ音を立てるのだろうか。それとも、馬さんが気が付くのが夕暮れ時だけなのだろうか。
「朝は?」
「朝ですか……朝は葉の匂いがしますよ」
ふーん。私は想像しようとする。朝靄。我が身を包む若葉の香り。一瞬、その匂いをかいだ気がした。槐の葉は朝だけに匂うのだろうか。それとも、馬さんが気が付くのが朝だけなのだろうか。そもそも、これは中国人の誰もが経験することなのだろうか。
私たちは、どちらからともなく、歩を弛めていた。耳をそばだてながら静かに歩く。確かに。空から降るように葉音が落ちてくる。「ザワザワザワザワ」。
その時、中年の夫婦連れと擦れ違った。男の手に生きた鶏がぶる下げられていた。中国では珍しいことではない。市場では鶏が生きたままで売られている。
「和田さん、日本のトキが全滅したのが何時だか知ってますか?」
馬慶明さんが、突然、こう言う。
勿論、知っているはずはない。ただ、最近、トキのことがこちらの新聞の話題になっているのは知っていた。何でも、中国のトキも一時は絶滅の危機に瀕していたが、ここに来て、人工飼育が成功し次第に増えつつあるという。
「一九九五年の四月のことなんですよ……」
なんで、普通の中国人である彼が、そんなことを知っているか?
「……私、たまたま出張で福岡にいたんですよ。ニュースで、新潟で最後のオスのトキが死んだ、と言っていました。これで日本のトキは絶滅だって。その時、私たちは鶏の水炊きを食べていましてね、何か、凄く不思議な気がしたんですよ……」。
男の手にぶる提げられていた鶏を見て、急に思い出したという。
馬さんの話を聞きながら私も思った。
そう。絶滅したのはトキだけじゃない、と。「憩い」のトキもだ、と。「安堵の」トキもだ、と。この時間、日本ではどうだ。子供は塾通い、男は残業、主婦はシャレたシステムキッチンでの孤独な料理。私たちは、いつの間に、今この胡同を包んでいるような豊穣な時を失ったのだろう。新潟のトキの絶滅が九五年の四月なら、この夕暮れの、何とも言えぬ懐かしいトキの絶滅は何時のことだったのだろう。
闇が暗さを増してくる。空からは「ザワザワ」と音が降ってくる。老人たちは夕涼みを楽しむ。大人たちは将棋に興じ。少女たちは石蹴りをする。この国では、「憩いの時間」も全滅しないで生き残るのだろうか? それとも、現代化の大きな波のなかでは如何ともし難く、やむを得ず、人工飼育的に残すことになるのだろうか?
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