* 北京胡同物語・胡同の夏 *


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<驟雨とカリン>

 北京には梅雨はない。ただ、春の終わり、夏の初めにはく驟雨がくる。何故だか、朝はない。たいてい午後だ。晴れ渡っていた空が、文字通り、一点俄にかき曇り、あれよあれよという間に、それこそバケツをひっくり返したような土砂降りになる。
 中国の雨粒は、どういうわけか、大きい。そして、落ちてくるスピードが速い。一生懸命に降っている感じだ。とてもよけきれないし、当たったら痛い。ただ、何時間も降り続けることはない。ワッと降ってワッと止む。男性的とでも言うのだろうか。
 この驟雨には匂いがある。
 会社で事務を執っていても、自室で本を読んでいても、この匂いで驟雨が来たことが、私には、すぐ知れる。窓を閉め切っていて、音が聞こえなくとも。そして、この匂いをかぐと、私は必ず十年前のことを思い出す。

 最初の北京駐在だった。赴任して数ヶ月で急性肝炎に罹った。身体が余りにだるく、食欲も業務意欲も湧いてこない。おかしいな、と近くの病院に行くと、医者は私が何も言う前から、私の顔を見るなり、「あなたは肝炎だ」、と断言した。眼の白目の部分の色や顔色で分かるのだそうだ。彼女はすぐ幾つかの病院を当たった。そこに空室があったのだろう。このまますぐ「北京第一伝染病病院」に入院しろと言う。
「北京第一伝染病病院」。名前からして恐ろしい。
「すぐにと言われても、ネクタイ締めて皮靴はいて入院したなんて話は聞いたことがありません。パジャマも歯ブラシも持ってきていませんし……」
 こう言っても聞いてもらえない。
「肝炎は伝染病です。すぐこのまま入院しなければいけません」
「せめて、上司に入院してきます、ぐらい言ってもいいでしょう。きっと驚くでしょうけど……」
 ようやく許されて、事務所に戻り、所長に挨拶をし、パジャマと歯ブラシを持って病院へ行った。病院の入口では、初夏の午後の強い光の中で赤いカンナが咲き、二羽の鶏がそのカンナの周りの土を突っついてはエサを漁っていた。
 一人部屋の病室で、本もない、テレビもない、話し相手もいない。一日中寝ているしかない。人間、そうは眠れるもんじゃない。昼も夜もあれこれ不安に思う。オレの身体はどうなっちゃったんだろう? あんなに仕事もできたのに。あんなに酒も飲めたのに。このまま死んじゃうのだろうか? 日本の女房と子供はどうなるのだろう? 
 こんな時だった。午後になるとよく驟雨があった。強い雨がガラスの窓を打った。私の部屋は二階だった。外を見ると、見たことのない樹木が窓にかかっていた。緑の葉が茂り、梨に似た青い実が生っていた。何という木だろう? 誰に聞くこともできない。誰も答えてくれない。ただ、大粒の、そして強い雨が、ワーッと、青い葉と青い実に降り注いでいた。
 私は、何か唖然する思いで、雨が止むまでそれを見続けていた。
「凄いな……」
 その時、驟雨の匂いをかいだ。
 東京の病院へ移るまでの、ほんの二週間ほどの間であった。しかし、今思い出しても、その間、午後になるといつも驟雨があったような気がする。「凄いな……」。いつも驚いた。そして、いつも匂いがした。
 この木は何というのだろう……。初めて見る木だ。知る由もない。ただ、ふと思った。これは、きっとカリンという木だ、と。その後、あの時のことをよく思い出す。木の名を確かめる術は幾らでもある。でも、確かめようとは思わない。私は、あの木がカリンであると、その時、決めた。
 驟雨にカリン。それで良い。
 と、いうわけで、驟雨の匂いをかぐと、今でも、私は、必ず、あの病室とカリンの木のことを思いだす。


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