<シーメトリーは中国人の夢?>
シーメトリーは、中国人が見ようとしている夢の、ひとつの形なのだろうか? あるいは、中国人の眼には、世界の構造がそういう姿で映っているのだろうか?
北京という城市は、南北に貫く一本の軸に街中の神経を集中するように造られている。北から南に向かって、鐘楼、鼓楼、地安門、景山、故宮、天安門、正陽門、永定門。これら、北京という王都で最も重要な門や楼閣が、一直線にその軸の上に置かれている。中軸線は、寸分の狂いもなく、門や楼閣の中心を貫き、それらの建物は、その貫く線を軸に対称形をなしている。
この中軸線は、これまた精確に、以前は紫禁城と呼ばれ、現在は故宮と呼ばれる、かつての皇帝の居城の中央を貫き、紫禁城のなかでも重要な儀式のすべてが執り行われた太和殿、中和殿、保和殿の三大殿の中央を貫き、太和殿に置かれた玉座の中央を貫く。つまり、皇帝が玉座に鎮座するとき、彼は、鐘楼から永定門に至る中枢軸の上に座していたのである。
勿論、そんな「線」は実在しない。運動会の日の校庭じゃあるまいし、石灰か何かで白い線が引いてあるわけではない。それでも、確実に、当時の中国の人々にはその線が見えていたのである。だからこそ、ここまで厳密であったのである。
いやいや、明・清の時代に限ったことではない。
解放後の一九五八年、天安門広場に革命運動に命を捧げた烈士を記念して人民英雄記念碑が建てられた。高さ三十八メートル。広場にひときわ高くそびえる。正面には毛沢東の筆になる「人民英雄永垂不朽」なる文字が刻まれ、背面は周恩来の碑文が刻まれている。この記念碑も南北を貫く中軸線上にある。一九七七年、毛沢東が死去した翌年だ。毛沢東の遺体を安置するための毛沢東記念堂が、新たに天安門広場に造られた。この建物も同じく、この中軸線上にあり、建物は、この線の上に左右対称の形を成している。
都市建設にあたり、誰かが思い付きで設計図の上に縦の線を引き、その上に主な建物を並べてみた……。それだけのことかも知れない。しかし、それは面白い考え方ではない。線は人為的に引かれたのではない。人々が移り住む前から、線は実在したのだ。人は、その実在する線上に建物や門を置かずにはいられなかった。そうでなければ、玉座が精確に線の真上にあることの神聖性も権威性もない。北京という城の荘厳も壮麗もない。
試みに、鼓楼から景山に向かって「鼓楼大街」と名付けられた大通りを歩いてみられたい。あるいは、「前門大街」を正陽門に向かってでも良い。……。中国人のようにではないかも知れない。運動会当日ほどではないかも知れない。雨に打たれ風に吹かれた一週間後の校庭……。それでも、私たち日本人の眼にも、その「線」が見えてくる。驚くほどよく分かる。「ああ、これが中国人の見ようとしている夢なんだ」、と。
北京という城市……そう、前にもこの城市という言葉を使った、こういう日本語はないのだろうか。中国語で「街」を「城」と言う。「国破れて山河あり 城春にして草木深し」、と。中国では、古来、都市は城壁で囲まれていた。どの都市もである。無論、外的から身を守るためである。北京も例外ではない。しかも帝都であったがために、幾重にも城壁が巡らされていた。皇帝の居城は紫禁城。先ず、この周りに高くて厚い壁がある。この紫禁城を包み込むのは皇城。ここには、皇帝が五穀豊穣を祈る場である社禝壇や皇帝の先祖を祀った太廟、御苑である北海、中南海が同時に包み込まれている。そして、その外にあるのが内城。役所があり、人々が居住する所謂街である。更に街を拡張するために内城の南に隣接して建設したのが外城。このように、北京という街は、幾重もの入れ子の構造で出来ている。しかも、そのすべてが、高く厚い城壁で囲まれていた。南から皇帝の居城に至ろうとすると……。先ず、外城に永定門から入る。次に、内城の門である正陽門をくぐり、皇城の門である天安門を通り、更に、紫禁城の入口である午門をくぐる。紫禁城を皇城が包み、皇城を内城が包み、内城を外城が包む。つまり、北京という街はは幾重もの城であった。今は、内城の城壁も、外城の城壁もないのだが……。
……北京という城市の壮麗は、景山からの眺望に尽きる。
景山。決して高い「山」ではない。人口の丘に過ぎない。しかし、ピタリっと、中軸線の線上に置かれている。しかも、中軸線上では、最も高い視点をもつ。頂に立ち、北を見やれば、寿皇殿の黄色い瑠璃瓦の屋根越しに真っ直ぐ北に伸びる鼓楼大街が、その余りの真っ直ぐさ故に眼に飛び込んでくるのである。そして、その先には鼓楼の緑の屋根と赤い柱が、その真っ直ぐな道を、真っ正面からピタリと遮っているのである。鼓楼大街を軸に、鼓楼に至るまでの建物は、すべて、これまたピタリと左右対称に出来上がっているのである。天気が良ければ、その遙か彼方には、燕山山脈が青く青く横たわっているのである。
南を見やれば、故宮の黄色い瑠璃瓦の甍が眼下に広がっている。思わず息を呑む迫力だ。故宮の面積は七十二万平方メートルという。広いなんてもんじゃない。その敷地すべてが楼閣で埋め尽くされている。高いもの、低いもの。部屋の総数は九千という。多いなんてもんじゃない。その楼閣のすべてが黄色い瑠璃瓦で被われている。甍が大きな波を打ち、大きな波のなかに小さな漣がたち、一枚一枚の瓦のすべてが太陽の光のなかで輝いている。それを、取り囲む壁は鈍い赤……。そこに、一本の線が見える。故宮の北端の門である神武門から保和殿から太和殿、故宮の南端の門・午門を越え、更に遠くに霞むのは、内城と外城の境、正陽門。その線を軸に、左右は、ピタリと対称形をなしている。
よくぞ、ここまで……。
自然の一部の如くに途方もなく広く拡がり、しかも整然と左右対称に配置されている。何と言えばいいのだろう。その黄金色に光り輝く瑠璃の瓦から、王城の気が立ちのぼっているを感じないわけに行かない。剛毅に気高く堂々と。景山の頂に立つとき、私たちは、そのことに驚かされるのだ。世の中にこんなものがあったのだ、と。
そう。シーメトリーは、中国人の世界観における、ひとつの夢の形なのだろうか?
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