* 北京胡同物語・雑踏は北京の味わい *


北京胡同物語メニュー 旅チャイナ・トップ 中国旅行大全・北京編 ホテル大全
レストラン大全 『雑踏に酔う』・試聴 三輪車胡同巡り 格安航空券

<たかがお茶の葉っぱじゃない>

 「張一元」という茶を売る店がある。
 漢方薬で有名な「同仁堂」の隣である。いずれ劣らぬ立派な門構えを誇る。きっと儲かっているのだろう。それはいい。ただ、いつもこの「張一元」の前を通る度に不思議に思うことがある。
 何で、このお茶屋さんにはこんなに客がいるのだろう、と。いつ見てもお客さんが列をなして順番を待っているのだ。他人事ながら、こんなに売れたら気持ちが良いだろうな、と思う位に。
 たかが、お茶の葉っぱではないか。お茶の葉っぱぐらいどこでも売っているだろうに。現に、「張一元」の二、三軒先にも茶の葉を売る店はあるのだ。ところが、こちらは、逆に、何度覗いてもお客さんがいたことがない。他人事ながら、ちゃんとご飯を食べられるのだろうか、と心配になる位に。
 どの店もやっていることはまったく同じなのだ。カウンターがあってその上にはデジタルの秤が置いてある。秤も同じだ。秤の上の皿に茶の葉を載せると、その重さを緑の数字が示す。カウンターの後ろには茶の葉を入れたブリキの缶が並べてある。その缶も同じだ。色は緑で、一辺三十センチほどの大きさ。上に丸い穴が開けてあり、売り子はそこにブリキの匙を挿し入れて葉を出してくる。葉の種類はどのくらいあるのだろう。十種類ほどだろうか。
 売り子の手際は実に鮮やかだ。客がどの茶を何斤と注文をする。一斤は五百グラムだ。さっと注文の茶を取り出して秤に載せる。すると、どうだ。大抵は、ピタリ、と重さがあう。狂っても一グラムか二グラム。少ない分にはともかく、多い分にはどうでも良いじゃないか、と思うが、そうじゃない。ブリキの匙で取ったり加えたりして一グラムの誤差もなくキッチリ合わせる。それを、「張一元」なら「張一元」と印刷された薄い紙に流し込むように置き、サッサッサッサッ、と包む。それで終わり。その間、注文を聞いてから金を受けるとまで、ひとりの客に二十秒と掛からない。本当に鮮やかだ。見てて飽きないほどだ。
 ただ、鮮やかなのは「張一元」だけではないはずだ。どの店だって、変わらないはずだ。それなのに、何故、「張一元」だけにはこんなに客がいるのだろう?

 安いから? そうではなさそうだ。値段はむしろ余所より高く見えるくらいだ。
 種類が豊富だ? そうでもなさそうだ。どこも同じようなものだ。
 では、なぜだ。
 おかしいではないか?
 馬慶明が言う。
「味が違うんですよ」
「そんなことはないだろう。たかがお茶なんだから」
「いや、違うんです。同じウーロン茶と言っても産地によって味は違います。一番よいといわれる福建産と言っても、平地なのか山なのか、山でも標高どのくらいなのか、日照時間は長いか、雨は多いのか……。そういうことで微妙に味が違ってくるんです」
「どんなものだろうか?」
「そういうものなんです」
「でも、そうだったら、どの店もそこから仕入れればいいじゃない」
「そうはいかないんです。『張一元』ぐらいになるとね。場所を選び、自分が欲しい茶を作らせて、全部買い取るんですよ。そんなことは外の店にはできない。だから、こう差がつく」
「しかし、その葉の違いが買う方にも分かるだろうか」
「分かります。分かるから、店いっぱいに客が並ぶんです」

 どうもこう言うことらしい。お茶に対する中国人の関心の深さは、日本人には分からない、と。
 考えてみると、思い当たることは幾つもある。
「茶館」というがもある。暇人が集まって一日お茶を飲んでいる。夜には京劇や話芸を演るが、客の飲み物はお茶だ。ビールなんぞ飲まない。
 中国の列車に乗ると、お茶を売りに来る。そんなとき、しばしばこんな中国人と乗り合わせる。「葉は持っているからお湯だけくれ」、と。ケチなんじゃないんだ。自分の好きな茶の葉を持ち歩いているのだ。自分の吸う煙草が決まっているように。
 ものの本によると、中国人は紀元前十世紀には、もう、お茶を飲んでいたという。一方、日本には十二世紀の終わりに栄西が持ち帰えることで伝わったと言う。三千年対八百年。その差か。

「張一元」の繁昌。それは、中国人のお茶に対するこだわりの謂いでもある。つまり、私が言いたかったことは、こうだ。大柵欄の賑わいは、北京人の「こだわり」からくる賑わいだ、と。


北京胡同物語メニュー 旅チャイナ・トップ 中国旅行大全・北京編 ホテル大全
レストラン大全 中国で本を出版 三輪車胡同巡り 格安航空券