<春……花を咲かせて、走り去る>
ひとたび柳が青い芽を吹くと、それを待っていたかのように、一斉に花が咲きだす。先ず咲くのはレンギョウ。中国では「迎春花」という。細く垂れた枝に、忽然と、鮮やかな黄色い花をつける。枝が垂れ下がっているのは、小さいが、それにしても余りに多くの花を付けたがための如くである。まだ葉が出る前だけに、黄色い花は鮮明であり、枝のしなりは優雅である。レンギョウより「迎春花」という名のほうがどれだけ良いか知れない。早春の冷たい風のなかに、最初に咲く花だけに。灰色の街に、鮮やかに咲く花だけに。北京の人々は、この花に、文字通り春の訪れを感じるのである。
同じ時期に咲くのは、コブシ。寒空に向かってポッカリと、何か奇跡のように、白い花を咲かせる。迎春花が身を縮めながら咲くのに対して、ボーと白い大きな花びらを寒気のなかに開いてみせる。なかなか、たいした花である。
少し遅れて、桃。街の東を南北に走る建国門大街は道の両脇にも分離帯にも桃が植えてある。それが、突然にピンクの花弁を枝いっぱいに付けることになる。車で走っていると不思議な気分になる。実際に嗅ぐことはないのだが、桃の花の香りにフワフワと包まれて走っているような。実際には相当のスピードで走っていても、何故かゆったりと走っているような。
続いて、ライラック。北京のライラックは紫か白。小さな花を枝にビッシリとつけ、あたりに芳香を惜しげもなくまき散らす。
そして、桐。桐は大木になる。初めて知った。高さは十メートルを越える。しかも、枝を大きく広げる。堂々とした姿をしている。東京では余り見ないが、北京には多い。それが、この時期に、薄紫の花を付ける。日本で言えば、桜の大木が花を咲かしているような感じだ。
柳が芽を出したときもそうだが、これらのどの花も同じだ。咲いて、初めて、存在に気付く。「迎春花」が咲いて、驚く。こんなところに「迎春花」があったのだ、と。本当に驚く。自分が見慣れた風景と別な風景がそこにある。コブシを見て、また、同じだけ驚く。こんなところにコブシがあったのだ、と。桃を見ても……。ライラックを見ても……。桐を見ても……。普段、自分は何を見ていたんだろう……。
造化の妙、とでも言うのだろうか。いつもはどんなに目立たぬ存在でも、一年に一度、自分の在ることを目一杯主張する。おそらく、私たちはそのけなげさに感動するのだ。そのことを司る神の技に驚嘆するのだ。
北京の花は、本当に、一度に咲く。
柳が芽を出して三週間。これらの花が次から次へと花開く。少しずつずれはあるのだが、短い間であるだけに、街中の花が一度に開いた、という印象が残る。実に見事なものだ。
そして、桐の大木が薄紫の花を、大空にばらまくように咲かす頃には、柳以外の街路樹、白楊も槐も枝いっぱいの新緑を風にそよがせているのである。白楊は柳に遅れて、薄緑の芽を吹く。柳の芽が濡れたようにして出てくるのに対し、白楊は、白く、何というか、霧で包んだような緑色の芽を出す。白楊に遅れて槐。槐は、ニセアカシアと呼ばれるように、マメ科特有のギザギザの葉を持つのだが、それをクシャクシャにまるめたようにして芽を出してくる。柳も白楊も槐も同じだ。芽を出すまでは待ち遠しい。今日か明日かとわくわくしながら待っている。そして、出てきた芽は、如何にも幼く、弱々しい。しかし、ひとたび芽を吹けば、誰もその勢いを止めることはできない。あれよあれよと葉は広がり、日一日と緑は濃さを増す。こうして、アッという間に、花の季節は終わり、街中が新緑に覆われる季節が始まる。
北京の街に柳絮が飛ぶのはこの頃だ。柳絮というのをご存じだろうか? 柳の若葉が出す綿をいう。日本とは種類が違うのだろうか、それとも株数が桁違いに多いからだろうか。おそらくは前者なのだ。街中を白い綿が飛び回る。緩やかに流れるように飛んだり、巻くように乱舞したり。雪と見まごうばかりである。「あれっ、今は春か冬か」。でも、柳絮が飛んだら、もう、夏はすぐそこである。
ツヤツヤした芽から白い柳絮まで。北京の春は柳に始まり柳に終わる。その短い間に百花咲き、白楊と槐が芽を吹く。北京の春は追われるように過ぎて行く。楽しむには余りに短い。
それにしても、何とも、素敵な季節だ。
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