目次
南昌
盧山
九江
景徳鎮

===江西省===
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《南昌》(なんしょう)

 南昌は江西省の省都。
 江西省は長江の中・下流域の南岸に位置する。
 省の北部には、ハ陽湖が広がり、省の主な河川が流入し、北部の湖口で長江に通じる。
 気候は温暖で多雨。農業が盛んで、米、菜種、甘蔗、棉花、茶、果物などの栽培が盛んである。
 南昌は長江の支流であるカン江の東岸に開けた町。

<江西省歴史博物館>(こうせいしょう れきしはくぶつかん)
 南昌市の中心、南昌市人民広場の南側にある。石器、銅器、鉄器、陶磁器、玉器などに分れて展示されるが、最も特徴的なのは、陶磁器である。
 江西省における陶磁器の歴史は古い。6000年まえの粗陶に始まる。また、省内に洪州窯、吉州窯、景徳鎮窯などの窯を擁してきた。それだけに展示品も豊富である。六朝時代から唐代の青磁、宋代の影青磁、元から明代の青花釉裏紅など、中国の陶磁工芸の歴史を見渡すことができる。
 また、「井崗山革命闘争史陳列」は、中国最初の農村革命根拠地である井崗山の様子を写真や図で示したもの。毛沢東が1927年、1000名の規模で建設し、その後、朱徳の軍や湖南の軍が合流し、規模を拡大する。命令に敏速に服従すること。貧農からものを没収しないこと。地主から没収したものも私せずに政府に引き渡して処分すること。これを三大規律とした統率のとれた工農軍が組織され、その後の毛沢東の農村革命のモデル的存在となった。

<八一南昌起義総指揮部旧趾>(はち いちなんしょうきぎそうしきぶきゅうし)
「起義」とは武装蜂起のこと。もと江西大旅杜という旅館であった。
 1927年7月の下旬、蜂起部隊は南昌に到着すると当旅館を借り切り、周恩来(1896-1976)を書記とする中国共産党前敵(前線)委員会を結成。8月1日午前2時、周恩来、朱徳(1886-1976)、賀竜(1896-1969)、葉挺(1896ー1946)、劉伯承(1892-1986)らにより南昌蜂起が引き起こされる。
中国共産党が独自の軍をもつようになったのは、この時からである。中国では、8月1日を建軍記念日としている。

<藤王閣>(とうおうかく)
 カン江のほとりに建つ。唐代の659年の創建。太宗の弟の藤王・李元嬰がこの地の都督となったときに造営された。
 黄鶴楼(武漢)、岳陽楼(岳陽)とあわせ江南三大名楼と称される。
 造営当初は藤王とその幕僚たちの宴会等の楽しみの場として使われており、さほどの名声を得るものではなかったが、その名を一挙に全国に知らしめたのは王勃の「藤王閣序」の一文であった。
 675年、一時荒廃していた藤王閣を、当時の都督が修復し、重陽の節句に記念の大宴会を開いた。ちょうどその時、王勃はベトナムに流されていた父を訪ねる途次、この地に立ち寄っていた。招待された王勃は、酒を飲み上機嫌のなか求められるままに即興で一気に「滕王閣序」を書き上げたという。千古の名文といわれる。
 王勃はその後、ベトナムに向かう途中で客死する。享年二八才。若く死ぬものの、「初唐の四傑」の一人に数えられる。

<八一公園>(はちいちこうえん)
 もとは百花洲と呼ばれていた。1932年に公園となり、湖浜公園と呼ばれたが、新中国成立後、ここが1927年8月1日の南昌蜂起のさいの激戦地であったことから、八一公園と改称した。
 湖に築山、曲径、橋、多くの亭。中国の古典的な庭園の姿に造られている。

──貢院井(こういんせい)
 八一公園にある井戸。宋代、明代の貢院(科挙の試験場)のあったところ。

<佑民寺>(ゆうみんじ)
 八一公園の北門の向い側にある。南朝の梁の時代(六世紀初)の創建。江西省を代表する古刹である。
 創建以来七度の改修と再建を重ねて現在に至っている。また寺の名も、初めは上蘭寺といったが、その後、大仏寺、開元寺、上蘭院、承天寺、能仁寺、永寧寺、佑清寺1929年に佑民寺、と九度の改名を重ねてきた。
 後殿に高さ6メートル、重さ18トンの巨大な銅製の仏像がある。また、鐘楼には、高さ2.3メートル、周囲4.9メートル、重さ5トンの銅鐘が吊されている。

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《盧山》(ろざん)

 江西省の北端にある。北に長江、東にハ陽湖に臨み、北には長江。山筋は北東から南西に走り、長さ25キロ、幅10キロ。最高峰は漢陽峰で海抜1474メートル。その他、五老山、香炉峰などの峰がある。
 古くは匡山、或いは匡盧と言う。伝説では、殷周時代、匡と姓の兄弟がここに盧を結んだことからその名が付いたという。
 古来景勝の地として知られ、「匡盧の奇秀、天下に甲たり」などと称えられてきたが、我が国にも平安時代より、白楽天の詩などを通じてその名を知られていた。
 白楽天は、江州(今の九江)に司馬として赴任してくる。左遷である。817年のこと。彼は無聊を紛らわすために盧山の香爐峰の麓に草堂をつくり、こんな詩を壁に書いた。

 日高く眠りたりて、なお、起きるにものうし
 小閣にしとねを重ねて、寒さをおそれず
 遺愛寺の鐘を枕をそばだてて聴き
 香爐峰の雪を簾をかかげて看る
 匡盧はすなわちこれ、名を逃るるの地
 司馬なお老いを送るに官たり
 心やすく身やすきは、これ、帰するところ
 故郷なんぞひとり長安にのみあらんや
(匡盧とは盧山のこと)

『枕草子』の「雪のいと高う降りたるを」と始まる一文は、この詩を題材にしている。中宮の「香爐峰の雪は?」との問いかけに対し、清少納言がすかさず簾をまきあげて人々を驚かせたという話。
 白居易の詩がいかに読まれていたか、そして、「香爐峰の雪」が当時の貴族の常識中の常識であったことが知れる。
 景勝地としてのみならず、宗教の修行の道場としても盧山は中国の人に尊ばれてきた。東林寺は中国浄土宗の発祥の地であり、道教八仙人のひとり呂洞賓が修行し悟りを開いたとつたえられる仙人洞も盧山山中にある。
 また、近世以降は長江沿いの九江から遠くないこと、夏も涼しいことなどから外国人により多くの別荘が建てられてきた。その数は1600軒という。

<花径>(かけい)
 如琴湖に沿った散歩道。湖、曲橋、亭、築山。それらが一体となって心安まる風景をなしている。818年、白居易が訪れる。山麓の桃は季節が終わっているのにここでは満開であった。それを、こう詠ずる。
「人間(じんかん)四月、芳菲尽き、山寺の桃花始めて盛開す」。

<東林寺>(とうりんじ)
 盧山の西北の麓にある。中国浄土宗の発祥地である。東晋時代の386年、名僧の誉れ高い慧遠がここに寺を建て、蓮杜(白蓮杜ともいう)を創設した。蓮杜は阿弥陀仏の信仰にもとづく念仏集団であった。これが中国浄土教の嚆矢とされる。
 慧遠は最初他の知識人同様儒学を学ぶ。しかし、この時代の社会の混乱と不安定さの中で儒学は慧遠を納得させなかった。当時、般若の「空」を道教の「無」と重ね合わせて理解しようとする傾向が支配的であったが、これも慧遠を納得させなかった。
 その苦闘の中で浄土経典に出会い、阿弥陀信仰に目覚めてゆく。
 彼が師事したのは仏図澄(ぶっとちょう)の弟子であった道安。修行の途中、廬山にたちよった際、先輩の慧永にひきとめられた。それは、いわば偶然であったが、慧遠はここ盧山の地に聖なるものを感じ、極楽浄土のユートピアを夢みる。彼はここに道場を開き、以後三十数年にわたってここにとどまり一歩も山をでることがなかったという。  浄土教の誕生は、その後の仏教の発展に決定的な影響を持つことになる。その発祥の地が盧山である。
白蓮社は、後に大きく発展し、唐代に全盛期を迎える。その教義は、五戒(不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒の在家の信者の守るべき五つの戒め)をきびしくまもり、不殺生戒による酒肉の禁止した厳しいものであった。

<白鹿洞書院>(はくろくどうしょいん)
 盧山のの五老峰の麓にある。宋代の有名な書院のひとつ。もともとは、唐の時代、李渤・李渉の兄弟がここに隠棲していた。李渤は鹿を飼っていたので白鹿先生と呼ぱれていた。それが書院の名の由来である。
 顔真卿の孫の顔翠が洞内で学を講じたりしていたが、宋代初期に拡張され書院となった。石鼓書院や岳麓書院とともに四大書院といわれた。のちに戦火せで焼失。朱熹が南康軍(現在の星子)の知事となった時にこの書院を復興させたが、その後も荒廃を繰り返し、現在のものは、清代の再建。

<酔石館>(すいせきかん)
 帰去来館ともいう。盧山の南麓にある。晋代の詩人・陶淵明(365〜427)が酔って遊んだところと言われる。
「帰りなんいざ。田園将に蕪(あ)れな んとす。胡(なんぞ)ぞ帰らざる。 既に自ら心を以て形の役と為す。」といって官を辞しこの地に隠棲した陶淵明が、酔っては身を横たえた石が「酔石」である。
 陶淵明にはこんな詩もある。

 人生 根蔕(こんてい)なく
 飄として陌上の塵のごとし
 分散し風にしたがいて転ず
 此れすでに常身に非ず
 地に落ちて兄弟となる
 なんぞ必ずしも骨肉の親のみならんや
 歓を得なばまさに楽しみをなすべし
 斗酒をもって比隣をあつめ
 盛年 重ねては来たらず
 一日 再び晨なり難し
 時に及んでまさに勉励すべき
 歳月 人を待たず

 人生には根がないものだ
 飄として路上の塵のようなものだ
 風が吹けば 散り別れ
 もとの形に戻ることはない
 この世に生まれ落ちれば みな兄弟のようなものだ
 肉親だけが兄弟とは限らぬ
 歓楽の機会があれば 楽しみをなすべきだ
 斗酒をもって隣近所の仲間を呼ぼう
 若いときは二度とは来ない
 日に朝は二度は来ない
 時を逃がさず楽しみ尽くせ
 歳月は人を待たず

<秀峰>(しゅうほう)
 盧山の南麓から見る山である。古来、「盧山の美は山南 に在り、山南の美は秀峰に在り」という。
 南から盧山を見上げると秀峰があり、盧山瀑布が山に掛かっている。麓に秀峰寺があり、米フツ(1051〜1107)筆になる碑刻、顔真卿(709〜784)の「大唐中興碩」碑がある。
 麓からは山頂までロープウェイが通じている。

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《九江》(きゅうこう)
 江西省の北部の町。北は長江に面し、東はハ陽湖に接する。古来、長江中流の水陸交通の要地である。
 茶、米などの農産物の生産に恵まれ、また、ハ陽湖や長江の水運を利用しての、農産物や景徳鎮の磁器の集散地としてさかえた。その位置的な重要性から、アヘン戦争後、1858年には諸外国の要求より、天津条約で開港され、租界がおかれた。
 また、文学者、詩人の陶淵明の故郷でもあり、隠遁生活をおくった地でもある。

<甘棠湖>(かんどうこ)
 市の中心にひろがる湖。面積は約18ha。盧山の泉水が注ぎこんでできている湖といわれる。

──天花宮(てんかきゅう)
 娘娘廟ともいう。娘娘は子宝・安産の女神。
 湖上にのびる堤の南端に建てられた廟。六角三層で、高さは12メートル。木造で、軒がそり上り、棟に装飾が施されている。階段を登って階上に上ると、六面の窓のそとにはそれぞれ趣のことなる山水の風景が広がっている。

──煙水亭(えんすいてい)
 浸月亭ともいう。
 甘棠湖の北の畔に建つ。三国時代の呉の都督・周瑜の水軍の練兵所の跡地と伝える。その軍勢20万という曹操率いる魏を、わずか5万の兵で破ったという赤壁の戦いの功労者、周瑜である。
 また、煙水亭そのものは、唐代の詩人白居易(772-846)が江州(現在の九江市)の司馬に左遷されてきた時に建造したもの。
 浸月亭とも呼ばれるのは、白居易の「琵琶行」の一節「別るる時荘荘として江は月を浸せり」による。 「琵琶行」は非常に美しい詩として知られる。冒頭は次の通り。

 潯陽(じんよう)江頭に、夜る、客を送る
 楓葉、荻花、秋は瑟瑟(しつしつ)
 主人は馬より下り、客は船に在り
 酒を挙げて飲まんと欲するに管絃なし
 酔いても歓を成さず、惨として将に別れんとす
 別るる時、茫々として、江は月を浸せり
 たちまち聞く、水上 琵琶の声
 主人は帰るを忘れ、客は発せず
 声を尋ねて闇に問う、弾ずる者は誰ぞ

 現存する煙水亭は清代の再建。
 煙水亭の名は、北宋の代、「山頭水色薄籠烟」という詩句から取ったという。

<鎖江楼宝塔>(さこうろうほうとう)
 市の市街の東北、長江沿いの小山に建つ。長江を上り下りする船からは、遠くからでも見ることができる。そのため九江のシンボル的存在になっている。
 創建は明代の1585年。三層の楼閣と宝塔を建て、鉄で鋳造された四頭の牛の像があったが、地震と洪水のため、河岸が崩れ落ち、楼は倒壊し、鉄牛が水没。宝塔だけが残った。
 煉瓦と石で築かれ、形は六角錐で七層で高さは35メートル。

<潯陽楼>(じんようろう)
 明代に書かれた小説『水滸伝』に登場する楼閣。第24話「潯陽楼に反詩を吟ず」。宋江が酒に酔いお上を批判する詩を壁に書き、追われる身となる場面である。
 長江の流れの畔に建つ三楼の建物。
『水滸伝』は小説であるため、もちろん、話そのものがフィクション。だが、