* 北京・街角の歌ごえ *
<公園で習字>
日曜の朝の公園。お爺ちゃんと孫が習字の練習をしている。
習字といっても筆と墨で半紙に書くのではない。特別製の大型の筆と水で道に書くのだ。うまい具合に、道はコンクリートの正方形の石で舗装されている。その正方形の石に一文字ずつ書いて行く。
お爺ちゃんが、先ず、バケツの水をたっぷりと含ませる。孫も同じことをする。お爺ちゃんが、足を石の幅の分だけ開き、書き始める。「飛流直下三千尺」。孫はお爺ちゃんの左に立ち、足を同様に石の幅だけ開き、お爺ちゃんが書いたと同じ文字を書いて行く。「飛流直下三千尺」。
次第に人が集まってくる。人垣になる。微笑ましい光景、と言って良いだろう。お爺ちゃんが孫に習字を教える。それを人々が見ている。
それにしても……、と思う。
それにしても、何故、習字の稽古を公園でやらなきゃいけないんだ、と。家ですればいいじゃない。人に見せない? 我が家の家系はこんなに字が上手いぞ、と。そういうことだろうか?
やがて、ふたりは筆を片づけ始めた。ああ、もう稽古を終え家に帰るのか……。お爺ちゃんが孫に手を軽く挙げ、「じゃあ」と言う。そして出口に向かって歩き始める。何か変だな……。孫が、あとに残り、「有り難うございました」と頭を下げる。
そう、ふたりはお爺ちゃんと孫ではなかったのだ。
じゃあ、ふたりは何なのだろう。
老人は、字を書きに来た。字を書いて人に見せる。それが楽しみ。自分に字を教わりたいという人が現れればもっと楽しい。少年は、字を教わる機会があれば、と筆を一本持ってやってきた。ふたりは公園で出会い、微笑ましいお爺ちゃんと孫になった。
こちらで暮らしているとよく思う。中国人の人間と人間の関係は驚くほどに濃い。親子兄弟の間のことだけではない。他人どうしでもそうだ。前に書いた喧嘩もその一つの現れだろう。お爺ちゃんと孫の習字もそうだろう。
濃密な人間関係のなかで生きている人々。それが、中国人というものだ。
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