* 北京・街角の歌ごえ *
<弁髪?>
自分の子にどんな髪型をさせようが親の勝手でいいわけだが、最近、おかしな格好が目に付く。一番多いのは、全体を短く刈って後ろだけを残し、それを編んだりして垂らしておく。そう、まるで弁髪のようだ。あと何年かすると、この国には弁髪が復活している?
たかが髪型だ。どうでも良いと言えば、無論、どうでも良いのだ。そうなのだが、なにか、気に掛かってしょうがない。
勿論、弁髪は満州族の風習だ。
明朝が滅び清軍が山海関より怒濤のように中華の地へ押し寄せてきた。まずは北京を抑える。同時に軍を分け、南下をする。民衆からすれば明だろうが清だろうが構わなかったのかも知れない。それほど大きな抵抗はなかったという。ところが、やがて、蘇州を中心に大規模な反清の暴動が起こる。民衆が蜂起したのだ。それは、悲惨にして膨大な犠牲をもって鎮圧されたのだが、その蜂起の原因が、弁髪の強要だった。
江南には「中華」の聖域、文化の中心としての誇りがあった。そこへ、夷狄がやってきた。やってきただけならまだいい。中華の民である自分たちに弁髪を強いた。髪を剃るは夷狄の風。清はこう言って恐喝をした。「首を残すか髪を残すか、ふたつにひとつだ」。彼らは、それに従うを潔しとせず死を賭して起った。清軍は大虐殺をもって応じた。「たかが髪じゃない」。こう思う、がどうもそれでもないらしい。
それから二百五十年経った。
中国人はすっかり弁髪が好きになったらしい。西洋人に「豚のしっぽ」と嘲笑されても彼らは弁髪に固執した。習慣とはおそろしい。民国になり「弁髪廃止令」が出た。それでも切りたくない。その辺りの喜劇は魯迅の「阿Q正伝」などに見られるとおりだ。「たかが髪じゃない」。こう思う、がどうもそれでもないらしい。弁髪に抵抗したあの時の何十万人という犠牲は何だったのだ。
なんでまた子供に変な髪型をさせようとするのか分からないが、それにしても、今はどういう時代なのだろう。
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