目次
合肥
黄山
屯渓
九崋山
馬鞍山
和県
蕪湖

===安徽省===
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《合肥》(ごうひ)

 合肥は安徽省の省都。安徽という省名は、清の時代、政治の中心地であった安慶府と、商業の中心の地であった徽州府の頭の文字ととって付けられた。
 省の南部を長江が、北部を淮河が横切る。南部には黄山が聳えるが、それ以外、北部から中部にかけては平野が広がる農業地帯である。
 合肥は省の中央、淮南平野の中心部にある。

<包公祠>(ほうこうし)
 北宋時代の名臣に包拯という人物がいる。尊称で包公と呼ばれる。中国人で彼の名を知らぬ人はいない。京劇に、映画にテレビに、繰り返し繰り返し登場する。それほど庶民に人気が高い。役どころは名裁判官です。圧政に苦しむ人を助け、冤罪におとしめられた人をを救う。相手が大臣・王族であろうとも、不退転の決意で正義の裁きを行う。
 日本の大岡裁きの原型、と言われている。
 もちろん、実在の人物で生前から人々の人気は高かった。活躍の場は、北宋の都・開封であるが、生まれが合肥であることから、祠がある。お墓も、街の東、包孝粛公墓園にある。

<逍遙津公園>(しょうようしんこうえん)
 合肥は、河と公園に囲まれた街だが、逍遙津公園は東北の角にある公園。
 215年。世は三国の時代。呉の孫権は10万の軍を率いて合肥を攻める。守るは魏の張遼。多勢に無勢ゆえに城を固く守るべきとの意見を排し、張遼は勇士八百名を募り、孫権の陣に攻撃をかける。孫権の軍に包囲されつつも獅子奮迅の戦いで孫権を追い払う。曹操はこの戦いの張遼の武に感服し、征東将軍に昇進させた。その戦いの場所が、逍遙津である。『三国演義』でいうと、第67回。
 張遼はこの場名以外にも、たびたび『三国演義』に登場する。
 曹操が劉備を徐州に攻め、関羽が曹操に捕らわれるとき、死を覚悟している関羽を、ここで死んでは、「劉備が生きているなら桃園の誓いの背くではないか。劉備の家族を見捨てるのは臣下として如何なものか? また、漢王朝復興はどうなるのか」と、曹操への降伏を勧め説得するのが張遼である。
 また、赤壁の戦いで、周瑜の火攻めに追われた曹操が、あわや黄蓋に追い付かれそうになったとき、矢を放って黄蓋を水中を射落としたのも張遼である。
 公園の奥には張遼像がたつ。

<明教寺>(みょうきょうじ)
 逍遙津公園の南に位置する。創建は南朝の梁の時代、六世紀の前半である。
 寺が建てられる以前に、二世紀から三世紀にかけて、三国時代の魏の曹操が造った強弩台と呼ばれる教練場であった。弩とは大きな弓を意味する。高さ5メートル、面積3800平方メートルの高台になっており、呉との戦いに備え、曹操が500名の兵士に強弩を教えた場所と言われる。

<安徽省博物館>(あんきしょうはくぶつかん)
 総合的な博物館で、淮河古象と呼ばれる身長八メートルを越える古代象の化石、「和県猿人」の化石から、漢代の墓室から発掘された石刻、唐宋以来の「文房四宝」の逸品まで、さまざまな展示がなされている。
「文房四宝」とは、筆硯紙墨をいい文人必携のものであるが、安徽省はそれらの名品の産地として古くより中国中に知られている。

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《黄山》(こうざん)


 黄山は安徽省南部にそびえ立つ山。大小72の峰から成るという。最高峰は標高1860メートルの蓮花峰。
 奇峰が立ち並び、その奇峰には松が生えており、奇峰と松を雲海が包む。まことに幻想的な風景が展開される。明代の旅行家・徐霞客をして、「五岳から帰り来たれば、山を見ず、黄山から帰り来たれば、五岳も見ず」と言わしめたという。
 黄山で特に優れたものを四つ、「黄山四絶」という。奇松、怪石、雲海、温泉をいう。
 上の写真の左側にあるのが有名な「飛来石」。


<歙県>(きゅうけん)
 黄山の南の麓には明・清時代の民家を残す村が点在する。歙県、宏村、西武、南屏などである。
 歙県は文房四宝のなかの墨と硯と紙の産地として名高い。
 唐の時代から墨の産地として全土に名高かかったのは河北省の易水と歙県であった。墨は松を燃やしてできる煤を膠で固めて造るが、歙県の付近の黄山、羅山、い山の松が墨造りに向いていたという。
 硯は「歙硯」と称される。端渓硯に次いで文人たちに喜ばれた。北京の故宮にも五代時代の歙県産の硯が「歙石長方硯」として所蔵されている。
 紙は、唐の時代から同じ安徽省の宣州とならび良質の紙を産してきた。
<宏村>(こうそん)
 黄山の南の麓に点在する明・清時代の民家を残す村のひとつ。歙県と同じく、安徽商人の故郷である。
 明・清の時代、多くの安徽出身の商人が塩や茶、墨、紙などの商売で巨万の富を築いた。彼らはその富を故郷に持ち帰り、立派な邸宅を築いた。その結果、白壁に、黒い瓦屋根の美しい家並みとなり、それが都市の現代化から取り残される形で、そのまま今の時代に残っている。
 黄山の余脈を背にして霞み棚引く地形。そこに残された白壁と黒い屋根瓦の家々。まるで中国画そのままの世界である。
 宏村のなかで最も大きな建物は「承志堂」という。汪一族の住居。宏村そのものが汪氏の村なのだが、「承志堂」は清の時代、1855年の完成。時の主人は、揚州へ出稼ぎに行き、塩商人として成功をした。
 村には138軒の古い民家が残っている。ほとんどは清代のものである。

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《屯渓》(とんけい)

 黄山南麓の町。安徽省の南部にあり、南に行けば浙江省、西に向かえば江西省、昔から交通の要衝の地であった。
 山地で農地は少ないが黄山のお茶の取引で栄えた。有名なのは毛峰茶、標高800メートルぐらいでよい茶が取れる。
 また、農地が少ないないだけに、出稼ぎで他所へ出て行く人が多く、揚州の塩で成功をした商人を輩出した。
 それらによって発達した経済力を背景に、多くの文人が集まり、安徽省が昔から文房四宝の有名な産地であったこととあいまって独特の文化を創り上げてきた。

<老街>(ろうがい)
 町の中心部にある。石畳の道の両側に古い民家が並ぶ。民家は白壁に黒い瓦。
 道の長さは800メートル。民家は、一階が店に、二階が住居になっている。民家の数は三百という。
 建物は明代、清代のものがほとんどだが、当時、宋の時代の特徴を真似て造られたため「宋街」ともいわれる。宋の時代の建物の残っている。
 店で売られているものは、歙県の墨、硯、紙。漢方薬、筍や菊を干したもの。お茶。文化の香りもあり、生活感もあり、見るだけで十分楽しめる。

<程氏三宅>(ていしさんたく)
 明代に建てられた豪商の邸宅。
 程氏の住宅を真ん中に両側にも同様の邸宅が建っているために「程氏三宅」と呼ばれる。
 建て方は、中庭を三方から囲むように建物が並ぶ三合院様式という。梁や窓に施された精緻な彫刻が素晴らしい。

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《九崋山》(きゅうかざん)

 安徽省南部に広がる山。嶺の数は大小合わせて九十九という。主峰は十王峰。標高1342メートル。
 九つの峰が蓮の花のようであることから九崋山と呼ばれたとも言う。
 五台山(山西省)、普陀山(浙江省)、峨眉山(四川省)とともに中国四大仏教名山の一つである。
 深山幽谷と瀑布の多さが霊気を漂わせることから、古くから道教の修験者の修行の場であったが、唐の時代、仏教徒であった新羅王の王族・金喬覚がここで修行をし、滅後、人々より地蔵菩薩の化身と見なされたことにより、地蔵菩薩道場として仏教が盛んになった。多い時代には三百余の寺、四千余の僧が修行をしていたという。
 現在でも、毎年、農歴の7月30日には地蔵の聖誕祭が行われ廟会が開かれ多くの信者で賑わう。
 主な旧跡としては、化城寺、甘露寺、百歳宮、月身宝殿などがある。化城寺は九崋山の最初の寺院で創建は東晋時代。甘露寺は清代の創建、寺名を康煕帝から賜った。月身宝殿は金喬覚の墓。

《馬鞍山》(ばあんざん)

 省の東部。長江の南岸の街。鉄鉱石を産する鉄鉱の街。馬鞍山鋼鉄公司は、中国を代表する大型鉄鋼コンビナートのひとつで、年間200万トンの生産能力をもつ。
 馬鞍山の名の起こりは、長江に面した山の形が馬の鞍に似ているためだという。その馬を、伝説では、劉邦に敗れた項羽が烏江で自害したとき、その愛馬も項羽の死を追うようにこの地で果て、鞍が山に化したという。
 烏江は長江の向こう岸、北岸にある。

<太白楼>(たいはくろう)
 街の西南、長江の畔の采石磯公園にある。李白の直筆の書の拓本など、李白に関する資料が展示されている。
 李白は晩年病を得て、当時当塗で県令をしていた親戚のもとに身を寄せていたが、しばしばこの地を訪れ詩を読んだことより李白の死後、唐代建てられた。当塗は馬鞍山の南20キロの町。
 太白楼は三層で高さ18メートル。湖南省の岳陽楼、湖北省の黄鶴楼、江西省の藤王閣とともに「江南の三楼一閣」のひとつとされる。

<李白衣冠塚>(りはくいかんづか)
 太白楼と同じく采石磯公園にある。李白がこの地に遊び、酒に酔って長江に映る月を掴もうとして河に入り溺死をしたという。享年六十二歳。

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《和県》(わけん)

 馬鞍山と長江を隔てる。
 項羽終焉の地は烏江。その烏江があるのが和県である。

<覇王祠>(はおうし)
 烏江鎮の鳳凰山にある。
 垓下に追いつめられた項羽は陣中に宴を催す。

 力は山を抜き 気は世をおおう
 時利あらず 騅ゆかず
 騅ゆかざるを いかんすべき
 虞や虞や なんじをいかんせん

 項羽は麾下八百の騎兵とともに囲みを破り南へ走る。烏江に辿り着いたとき従っていたのは二十四騎。ここで、烏江の亭長が舟を用意して項羽を待っていた。
「さあ、お乗りなさい。江東の地は小なりといえ衆数十万。王たるに足る地です」。
 これに対して、項羽は言う。
「昔、江東の子弟八千人と江を渡り西へ向かったものを、今ともに帰る者はいない。何の面目あって独り父兄にまみえることができようか」。
 愛馬・騅を惜しみ亭長に与えると、歩行にて漢の大軍の中に切り込んでいく……。
 その終焉の地に建てられた祠である。

<覇王墓>(はおうぼ)
 覇王祠の後方にある。項王墓ともいう。
 墳墓の前に、「西楚覇王之墓」と刻まれた石碑が建つ。
 ただし、実際には衣冠塚であるという。

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《蕪湖》(ぶこ)  長江の南岸。青弋江が長江に注ぐ地点に港町として開けた。
 歴史は古く、春秋戦国時代には鳩茲邑という名で知られた。蕪湖と名が付いたのは、漢代の紀元前109年に県がおかれた時からである。古くから軍事、水運の要地であった。明代には長江下流の農産物の集散地として栄え、清代にかけては米の重要な取引場所となった。当時、米の取引で有力だったのは、長沙、九江、無錫、蕪湖であった。これらを「四大米市」という。
 近代においては、イギリスなどから地理的な重要さに注目され、1876年、芝罘条約により開港をさせられる。

<赭山>(しゃざん)
 山肌の色が赤いことからこう呼ばれる。
 塔が建っており、赭山塔という。煉瓦製で六角形の五層。創建は宋代。

<広済寺>(こうさいじ)
 赭山の南麓にある。創建は唐の時代。
 本尊は地蔵王。主殿は本尊を祀った地蔵殿である。

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