目次
広州
花県
仏山
肇慶
東莞
中山
珠海
深セン
汕頭

===広東省===
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《広州》(こうしゅう)

 広東省の省都。広東省の略称は粤。中国の領域に属するのは秦の始皇帝の時代から。秦の滅亡後、秦の地方官であった趙陀が独立して南越王国を建てる。再び中国の支配下にはいるのは前漢の武帝の時代。
 隋・唐の時代になると航路を利用した貿易が拡大し、広州は中国南部の貿易港として発展を遂げる。アラビア半島のイスラム商人も多く訪れるようになる。
 宋の時代以降、シルクロードによる陸上の交通路の安全の確保が困難になったこともあり、海上貿易港としての広州の役割は更に拡大し、中国最大の貿易港となる。
 気候は亜熱帯気候に属する。三毛作が可能で、シュロ、ガジュマル、芭蕉などの熱帯・亜熱帯の植物が多い。

<中山紀念堂>(ちゅうざんきねんどう)
 広州市の越秀山の南麓にある。1931年、孫文(1866〜1925)を記念して建てられた。
孫文は、中国革命の指導者。号は中山。広東省出身。清朝打倒のため、一八九四年興中会を組織。一九◯五年、東京で中国革命同盟会を結成して、民族の独立(民族主義)、民主制の実現(民権主義)、地権平均・資本節制による経済的不平等の是正(民生主義)の三民主義を主唱した。辛亥革命の際、臨時大総統に就任したが、まもなく袁世凱に譲った。のち中国国民党を創設し革命の完成をめざしたが、その中途にて病死した。 敷地は、1921年〜22年、孫中山が中華民国非常大総統に就任中の総統府の所在地であった。
 敷地は六万平方メートル。建物は鉄筋コソクリート造りで、宮殿式の外観を持ち、建物面積は一万二千平方メートル、高さ49メートル。
 上部は八角亭の形に造ってあり、屋根は青い瑠璃瓦、壁を黄に塗り、柱は赤くしてある。中はホールになっており、4700の座席が設けてある。
 祈念堂の前には孫中山の銅像が立つ。

<南越王墓>(なんえつおうぼ)
 南越国の第二代の国王であった趙昧の墓。越秀公園の西側の象崗で、1983年建設工事中に偶然発見された。
 南越国は前漢代初期の地方政権。秦の滅亡後、趙陀により建てられた番禺(現在の広州市)を都城とし、前漢の武帝に滅ばされるまで五代93年この地を支配した。
 墓は赤い砂岩でできた石室墓を、山腹を20メートル堀り下げ埋め込んで造ってある。東西に12.5メートル、南北に10.8メートル。墓室は七つの部屋からなる。
 前室には車両や器具が納められ、主室には1191枚の玉を絹糸で縫い合わせた玉衣を纏った墓主が横たわっていた。また、東の側室には三人の夫人、西の側室には七人の料理人と奴隷が埋葬されていた。
 出土品は千点を越え、玉製品、礼器、楽器、酒器、青銅器などがある。

<鎮海楼>(ちんかいろう)
 越秀山の山頂にある。明の洪武年間、1380年の建造で、海を鎮めるの意から命名された。
 高さ28メートルで。5層の建物で、屋根と各層の軒は琉璃瓦で葺かれている。気迫に満ちた勇壮な造りである。登って眺望すると広州の風景を一望することができる。
 もともとは木造であったが、1928年の改修のさいに、鉄筋コソクリート造りに改めた。
 建物の中は、広州市博物館として、紀元前二千年前後の陶器・青銅器から漢墓から発掘された陶製の倍葬品、古代の船の模型、近代のオルゴールまで広州の歴史が分かりやすく紹介されている。

<六榕寺>(ろくようじ)
 537年創建の古刹。南北朝時代、南朝の梁の武帝(在位502〜549)の叔父がカンボジアから持ち帰った仏骨を埋葬するために建てられたという。創建当時の名を宝荘厳寺といったのを始め、何度が名を変えたが、宋代に蘇拭が訪れた時、境内に六本の榕樹の木があることから「六榕」の二字を揮毫した。それにより、明代初期に六榕寺と改称した。
 古刹らしい落ち着いた雰囲気をたたえる。境内に聳えるのは、宋代創建の花塔。高さ57メートル、八角九層、磚と木で造られている。そのほか、大雄宝殿、観音殿、六祖堂などが現存する。

<陳氏書院>(ちんししょいん)
 十九世紀末、陳姓の人々が資金を集め、祖先の祀る祠堂として建てられた。広州市中山八路にある。のちには、一族の子弟が科挙の試験を受けるための私塾としても使われた。
 一万平方メートルを越える広大な敷地に十九の中国の伝統的な書院を建て、それぞれを瑠璃製の棟飾り、磚彫、泥塑、石湾陶塑など技術の粋を集めて装飾を施した。
 広東省に現存する祠堂としては、もっとも完全な形で保存されている。現在は、広東省民間工芸館として、豊富多彩な広東省の民間工芸品を展示している。米粒に書かれた経文や、四十三層にくり抜いた象牙の玉などが参観者を驚かせている。

<光孝寺>(こうこうじ)
 広東省でもっとも古い建物とされる。初めは前漢の南越王の趙建徳の邸宅として建てられた。その後、三国時代に庭園として使われたことをへて、寺となった。東晋代から唐代にかけて、多数のイソド僧が布教に訪れた。
 676年、高僧の慧能(638〜713)は、この寺により、南宗禅を創始した。寺の名が現在の光孝寺になったのは、名の宋の時代のある。

<懐聖寺>(かいせいじ)
 イスラム寺院。唐代の創建。中国でもっとも古いイスラム寺院である。光塔路にあり光塔寺ともいうが、光塔路近辺はかつては「蕃坊」と呼ばれたアラビア商人の居住区であった。隋・唐以降、海上貿易の発達につれ多くのイスラム商人が広州を訪れるようになっていたと思われる。懐聖寺を建てたのは、そんな商人たちの船に乗り、中国へ布教のためにやってきた伝道者である。
 寺名の「懐聖」とは、マホメット(570?一632)を懐念するの意とされる。
 境内にある磚塔は光塔という。高さ36.6メートル。唐代の創建。礼拝の前に、塔に登り集合を呼びかけたという。また、塔の天辺には風見鶏が置かれていたという。アラビアとの航路が一年中開かれていたのではなく、季節風による航海であった。毎年季節風が吹く五月六月には、アラビア人はアラビア船の入港するに風向きの良きことを塔に登って祈ったという。

<広州農民運動講習所旧址>(こうしゅうのうみんうんどうこうしゅうじょきゅうし)
 広州農民運動講習所は毛沢東が所長を務めたことで知られる。
 1924年7月の創立。国民党は広州に本拠を置いていたが、この頃、共産党と連合して労働運動・農民運動にも力を入れようとしていたが、共産党の提案で農民運動の指導者を育成するための施設を創設することになった。それが、広州農民運動講習所である。
 毛沢東が所長を務めたのは、第六期、1926年である。

<黄埔軍官学校旧址>(こうほぐんこうきゅ うし)
 広州市の東方20キロ。黄埔港に面した長洲島にある。1924年5月、孫文は国民党直属の軍事幹部を養成するための軍軍官学校を創設した。それが、黄埔軍官学校である。
 蒋介石を校長とし、友好関係にあった共産党からも周恩来や葉剣英が参加をした。学期は半年を修学期間として5000人に近い卒業生を送り出し国民党の全国統一に貢献をした。1927年4月の上海における反共クーデター強行で共産党との協力関係は終わり、また、1930年、南京などに新たな軍官学校が創立されたことにより廃校になった。
 現在、校門、孫中山紀念碑、孫文が起居していた建物、クラブ、プールなどが現存する。孫文の起居していた建物は黄埔軍校史料陳列室になっている。

<沙面>(さめん)
 珠江の河畔にある小島。石造りの洋館が建ち並ぶことで知られる。
 珠江が東へ流れながら二手に分かれる、その分岐点が白鵝潭であり、水位が深く河幅も広い。その北側の砂州を埋め立てて楕円形の小島にした。東西900メートル、南北300メートル。明代のことである。
 明代以降、外国人商人の入港を管理するために華節亭を設けられた。また、アヘン戦争(1840〜42年)のときは広州防衛の重要拠点となった。  1861年以降は、イギリス・フラソスなどの欧米列強の租界となり外国の領事館も多くがここに開設された。当時流行したネオバロック、ルネッサンス、コロニアなどの諸様式の洋館が今も150棟ほど残っており、葉を広げるガジュマロの並木とあいまって独特な雰囲気を創り出している。

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《花県》(かけん)
 広州市の北45キロ。漢の番禺の地。京広鉄道が通る。
 太平天国の指導者・洪秀全の故郷である。

<洪秀全故居>(こうしゅうぜんこきょ)
 洪秀全の生まれをこの故居とする説と、花県の福泉水村に生まれ、まもなく当所に移ってきたという説がある。
 いずれにしても、この地に育った。科挙を目指し勉学に励み、1827年県試に合格。しかし広州での府試に失敗。36年再度試みるも失敗。37年,43年にも失敗。
 この間に、広州でプロテスタントの宣教師から布教のための冊子をもらい大きな影響を受ける。やがて儒教的世界観からキリスト教的世界観へと転身し、自分は邪悪にみちた世をすくうために上帝からつかわされた者であると信念から「拝上帝会」を結成。
 いっさいの差別、対立、抗争のない世界を理想社会の実現を掲げ、江西省桂平を中心に布教を行い、多くの信者を獲得するに至るがその過程で地方政府との確執・対立を深め、51年に。桂平県金田村で蜂起。新国家・「太平天国」を樹立させる。
 太平天国軍は農民、貧民、秘密結社を取り込みながら雪だるま式にふくれあがり清軍と闘いながら北上し、やがて「滅清興漢」をスローガンを掲げ、南京を攻め落として、首都・天京とする。
 終熄は1864年、内部分裂、イギリスなど外国の武力干渉、常勝軍や湘軍など清朝を援護する義勇軍は発生などにより、洪秀全が病死した20日後、曽国藩ひきいる湘軍により滅亡させられた。
 太平天国の乱の発生後、洪秀全の家は清軍により取り壊されたが、後に復元された。

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《仏山》(ぶつざん)
<石湾陶器>(せきわんとうき)
 広州市街の西南20キロ、仏山市の郊外にある。古くから陶磁器の産地として知られ、漢代の陶磁器や宋代の窯跡が出土している。
 石湾の陶器は、俗に広窯とよばれる。広鈞と呼ばれることもあるが、それは、鈞窯に似た製品を多く造りだしたことによる。鈞窯とは、宋時代の五名窯(官・哥・汝・定・鈞窯)のひとつで、河南省禹県にあった窯あである。乳青色の釉を厚くかけた青みや紫みをおびた陶磁器である。
 石湾陶器のもうひとつの特徴は、熟練したリアリズムの技巧を駆使た人物像である。題材を歴史や伝説に採り、働く姿を活き活きと描き出す。

<仏山民間芸術研究所>(ぶつざんみんかんげいじゅつけんきゅうじょ)
 仏山市の中心に位置する。名のとおり、民間の芸術品を造りだしている。切り紙細工、中国画、木版、書など。特に切り紙細工の精緻さは、中国南方の人々の手先の器用さを遺憾なく発揮させたもので一見の価値がある。
 また、紙と糊で人物や虫や動物を描き出す「秋色」と呼ばれるものも、仏山の民間芸術の一端である。

<仏山祖廟>(ぶつざんそびょう)
 市街にある。北宋時代の創建。その後改修が重ねられてきた。
 精級な技巧を第一の特徴とする。瓦葺きの屋根の棟は石湾産の陶塑で飾りたて、壁や塀にはレンガの彫刻がびっしりと施されている。

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《肇慶》(ちょうけい)
 日本人の間では、何よりも、端渓の硯の産地として知られる。端渓は肇慶の東の郊外にある。ただし、1300年にわたり採石されてきたことから、古い鉱脈はすでに尽き、現在掘り出されているものは新端渓と呼ばれている。
 市内には、昔ながらの硯作りの工場が幾つもある。また、古い端渓の硯を売る店も多くある。

<七星岩>(しちせいがん)
 肇慶市の北の郊外にある。石灰岩の岩山が、北斗七星のように七つ並んでいることから名付けられた。それらを取り囲み、五つの湖が湖面を広げている。また、石灰質のため、岩山には多くの鍾乳洞がある。
 七巌八洞五湖などという。
 南方の水墨画の世界を思わせ、古来、文人墨客に喜ばれた。

<栄叡大師紀念碑>(ようえいだいしきねんひ)
 七星岩の鼎湖山の中腹に建つ。栄叡は日本人の僧。伝律授戒の師をもとめて唐に渡り、鑑真和上を識る。鑑真に日本への渡航を懇願し、ようやく同意を得ることに成功。ともに、五回にわたり渡航を試みるが成功しない。五回目の渡航の際に、台風に見舞われ鑑真ともども海南島に漂着する。六度目の渡航の準備を進めていたが、この地に至り、病没。志半ばにして、この地に葬られた。
 鑑真は、六度目の渡航で成功し、日本に至る。
 日本では、朝廷より伝律授戒の権限をまかされ、東大寺に戒壇をきずいて聖武上皇などに授戒した。759年唐招提寺を創建して、日本律宗の中心的道場とするのである。
 1980年に唐招提寺の鑑真和尚の乾漆像が「里帰り」したさい、栄叡の事業を記念し、大師紀念亭が新設された。

<梅庵>(ぱいあん)
 肇慶市の市街の西2キロにある仏教寺院。禅宗六祖の慧能(638-713)は梅の花を好み、各地を訪れるたびに梅の木を植えたという。この地にもやって来て梅を植えたが、その横に996年、知遠和尚が寺を建てたのが始まりと伝える。
 中国の禅宗では、達磨太子を一祖、それを次いだ弟子・慧可を二祖、順に三祖四祖と数える。その六祖が慧能である。と伝える。
 現在の梅庵は、山門、祖師殿、大殿などからなり、祖師殿はいまなお宋代の木造建築の様式を留める。

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《東莞》(とうかん)
 今では、珠江デルタの経済開発区にあり、世界最大級のパソコン部品生産基地として知られる。2003年末時点で、東莞市のあるIT関係のメーカーは3000社を超えるという。日本の企業も、三洋電機、TDK、日本電産などが工場を構えている。
 ただし、中国の人々の間では、東莞と言えばまず思い出されるのは、アヘン戦争である。1839年、林則徐が没収したアヘンを焼いたのはこの地であり、英国軍との激しい戦闘が行われたのもこの地においてであった。

<虎門銷煙池>(こもんしょうえんち)
 虎門は珠江の河口。林則徐がイギリスとアメリカのアヘン商人から没収したアヘンは120万キログラムあったという。これに含まれる毒物を溶解(銷解)するために造られた池の跡地である。
 現在、「鴉片戦争虎門人民抗英紀行念碑」が建つ。

<虎門要塞>(こもんようさい)
 珠江の河口一帯に設置された、砲台などの軍事施設を謂う。
 第一次アヘン戦争のに備え、林則徐らは、虎門の両岸、河口の島など十一箇所に三百門あまりの大砲を配備した。
 現在見学ができるのは、「沙角」と「威遠」と名付けられた二つの砲台だけである。

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《中山》(ちゅうざん)
 広州の南、120キロ。孫文の生まれ故郷である。

<孫中山故居>(そんちゅうざんこきょ)
 中山市翠亨村にある。孫中山(1866〜1925)はここで生まれた。1878年、兄孫眉を頼ってハワイに渡る。帰国後、香港、マカオで生活をした。95年に広州で武装蜂起。失敗し、日本へ亡命。
 1905年、東京で、清朝の打倒と民主主義政体の樹立をめざし中国同盟会を結成。1911年には、辛亥革命により、清朝が倒れ、南京で中華民国臨時政府が樹立。孫中山は臨時大統領に就任。
 1925年、「革命未だ成らず」の言葉を残し逝去。波瀾万丈の生涯であった。彼の残した、「三民主義」の思想はその後も長く中国の政治思想に影響を与え続けている。
 中山市は、もともと香山といったが、孫中山にちなみ、1983年に、中山市に改名した。

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《珠海》(じゅかい)
 広州の南、150キロ。珠江が南シナ海に注ぐ地点にでいたのが珠江デルタであるが、珠海はその西岸の町。
 1980年に経済特区に指定されることで驚異的な発展を遂げた。日本からも百を超える企業が進出をしている。

<円明新園>(えんめいしんえん)
 北京の円明園を再現したもの。
 円明園は清朝の離宮で、「万園の園」と讃えられる豪華きわまる庭園であったが、第二次アヘン戦争で英仏連合軍の徹底的な破壊を受け廃墟となった。
 康煕帝以来清王朝が150年の歳月をかけ営々と築いてきた建物や庭園であり、中国風の宮殿や祠廟のみならずバロック様式の西洋館がたちならんぶ豪華絢爛なものであったが、1860年、英仏連合軍により、一瞬のうちに廃墟と化した。現存残るのは長春園の西洋楼の残骸のみである。
 それを、原寸大で往事の姿そのままに再現した。

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《深セン》(しんせん)
 1980年に、中国で初めての、経済特区に指名された。深セン河を隔てるだけで香港と繋がっている地の利もあり、急激な発展をしてきた。中国の改革開放路線の象徴的存在となった。

<錦繍中華>(きんしゅうちゅうか)
 三十万平米の敷地に、中国各地の名所を十五分の一の大きさで再現をしたテーマパーク。
「小人の国」などとも呼ばれる。万里の長城、ポタラ宮、龍門石窟、寒山寺など八十箇所をこえる建物・景色がホンモノそっくりに造られている。

<世界の窓>(せかいのまど)
 世界各国の建物や景色を複製しながら、民俗・習慣などを紹介するテーマパーク。
 敷地面積は四十八万平米。

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《汕頭》(スワトウ)
 汕頭からまず連想されるのは、汕頭刺繍である。刺繍に代表される繊細な手工芸はいまも健在であるが、1980年に経済特区に指定されてからは、海外の華僑系の中心とした企業が多く進出している。

<媽嶼島>(ましょとう)
 汕頭は潮州華僑を多く送り出した港である。古来、華南の重要な港であった。1860年の北京条約でイギリスが開港を求めた港のひとつでもある。
 媽嶼島は汕頭湾に浮かぶ小島。
 ここにふたつの媽祖廟がある。媽祖は航海の安全を守るという女の神様。ふたつの媽祖廟のうちの古い老媽宮は千年ほど前に建てられたものという。

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