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海口
三亜

===海南省===
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《海口》(かいこう)
 海口は海南省の省都。海南島の北端に位置する。海南省は、中国の最南端に位置し、面積の点で、中国第二の島である。
 古くは珠崖といい流刑の地であった。北は雷州半島と相対し、西はトンキン湾に面してはるかにベトナムを望む。
 熱帯性気候に属し、一年じゅう夏の暑さで、米、いも類、砂糖きび、ゴム、椰子、コーヒー、熱帯果物を産する。
 さまざまな民族が混住している。漢族、黎族、苗族、壮族、回族が中心をなしている。
 1988年、それまでは広東省の一部であったが、省として独立した。

<海瑞墓>(かいずいぽ)
 海口市郊外の浜涯村にある。海瑞(1514-87)は、明代、海口に生れた有名な政治家。剛直で権威におもねることなく直諌をなしたことで知られる。まつりごとを疎かにしている、と時の嘉靖帝を諫めて怒りに触れ下獄した。嘉靖帝の没後、再び登用される。世に、「海青天」と称えられた。
 北宋の政治家の包拯が、清廉潔白な名裁判官として戯曲化され、日本の「大岡裁き」の種本ではないかなどと言われているが、その包拯が「包青天」と呼ばれるのに因んだとされている。
 墓に至る墓道の両側には獅子、羊、馬の石像が並ぶ。
 海瑞の名で、真っ先に思い出されるのは、1960年に時の北京市の副市長であった呉ヨが書いた戯曲『海瑞罷官』である。内容は、海瑞の罷免を扱ったものであるが、1965年、後に「四人組」の一人として断罪されことになる姚文元が、『新編歴史劇「海瑞免官」を評す』という論文を上海「文芸報」に発表する。呉ヨの意図は、海瑞になぞらえて、毛沢東が1959年、国防相彭徳懐を解任したことを批判したものだ、とした。これが、その後十年に及ぶ文化大革命の口火を切ることになったのである。

<五公祠>(ごこうし)
 海南島は、歴代、政権抗争に敗れた負け組が左遷されるところでもあった。五公祠は唐代、宋代に左遷させられてきた高官のうちで、後に、愛国憂国の名臣とされた五人を祀った祠である。
 清の光緒15年(1889)に海南第一楼として建てられたのが始まりである。その五人とは、唐代の李徳裕、宋代の李綱、趙鼎、胡詮、李光である。
 現在、ここに海口市博物館が併設されている。

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《三亜》(さんあ)
 海口に次ぐ海南省第二の都市である。
 島の最南端に位置する。
 何よりも、中国で一番とされる美しいビーチがあり、一年を通して泳げることから、中国では数少ないリゾート地としての発展が期待されている。

<亜龍湾国家旅游度假区>(ありゅうわんこっかりょゆうとかく)
 全長8キロのビーチ。東洋のハワイを目指しての国家プロジェクト。白砂のビーチ、椰子の並木、青い海。海岸に沿って、リゾートホテルが建ち並ぶ。
 海で泳いでもよし、ホテルのプールで泳いでもよし、ビーチのハンモックに揺られてもよし、貸し自転車を借りて海岸をサイクリングしてもよし。常夏の海南島を十分に楽しめるだけの設備が整っている。

<天涯海角>(てんがいかいかく)
 三亜市の西、24キロにある。以前は、海南島の南端、重要な関所としての役割を担った場所であった。馬嶺山の山麓に当たり大きな石がころがっている。
 その石に、清の雍正年間、時の崖州知事の程哲らが「天涯」「海角」「海闊天空」「南天一柱」などの題刻を彫ったので、天涯海角と呼ばれるようになった。  今は、リゾート地であるが、かつては流刑の地でもあり、果ての果てのそのまた果ての地であったのだろう。

<鹿回頭公園>(ろくかいとうこうえん)
 市の南5キロ。「大東海旅游区」の西端にある山が公園になっている。山全体が、金色の鹿が海辺にたたずみ頭をこちらに回している姿に見えるという。
 黎族の伝説に言う。むかし、五指山にいた勇敢な黎族の若者が弓 矢を手にして金鹿を追いかけ、最南端のこの地まで追いつめた。海を前に逃げ場のなくなった金鹿はふりかえると、美しい黎族の乙女に変身していた。二人は結婚をし、魚を捕り、畑を耕し、子供を育てひとつの村を造っていった。
 この伝説から命名された。

<五指山>(ごしざん)
 海南島の中央を東北から西南の方向に走る山脈。五つの嶺がそびえ五本の指のようだということから五指山と名付けられた。
 主峰は1867メートル。山全体が熱帯林に覆われ、珍しい草花がいたるところで咲き誇る。周囲は古くから黎族の集住地である。
 海口から、陸路、三亜に至るには、東の海岸線を走るのが一般的ではあるが、五指山を越えても行ける。

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