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ハルピン
チチハル
黒河
牡丹江
寧安
阿城

 
===黒龍江省===
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《ハルピン(哈爾浜)市》
 松花江沿いに開けた街。十九世紀末、ロシアが東清鉄道を敷設したことから発展をしてきた。
 ハルピンを語るには東清鉄道を語らなければならないし、東清鉄道を語るためにはシベリア鉄道を語らなければならない。
 ロシアが世界最長の大陸横断鉄道であるシベリア鉄道の建設を始めたのは1891年のことである。両端のチェリャビンスクとウラジオストックで同時に始められた。これにより、ロシアが極東と直接的に結ばれるという画期的な大プロジェクトであった。完成は1894年。
 東清鉄道は、このシベリア鉄道を補う目的を持って計画された。シベリア鉄道は清国との国境線に沿って大きく北に迂回しながらウラジオストックと結ばれていた。それを、清国から中国内に敷設権を獲得することで、満州里、綏芬河を経由した最短距離でウラジオストックに達することを可能にした。さらには、途中のハルピンから分岐して南へ向かう、旅順・大連への敷設権も獲得してゆくのである。ロシア太平洋艦隊が基地としたのはウラジオストックであったが、ウラジオストックが冬には流氷に閉ざされるのに対し、旅順・大連は不凍港であった。
 清国は日清戦争に敗北した直後であり、またロシアには所謂三国干渉により、日本から遼東半島を清国に返還させた恩があったために敷設権の要求を断ることができなかったのである。
 かくのとごく、19世紀末のロシアの極東進出の象徴が、ウラジオストックであり、シベリア鉄道であり東清鉄道であった。
 ロシア人がハルピンに注目をしたのには理由があった。東清鉄道は東西に走る。松花江(ロシア名:スンガリー)は南北に流れる。それが交わる場所がハルピンであった。鉄道による輸送と、河川による輸送。ハルピンを支配することでその両方を手に入れようと考えたのである。
 ハルピンの都市建設は1898年に始まるとされる。
 1920年代にはアメリカや欧州の商工会議所も置かれ、国際的な商業都市として発展した。最も賑やかな通りはキタイスカヤ(ロシア語で中国街の意味)には、南からアメリカのインターナショナル銀行、カフェ・ミニアチュール、モデルン・ホテル、秋林洋行(デパート)、松浦洋行などの、アール・ヌーボー様式や西洋古典様式の建物が妍を競った。
 特に、アール・ヌーボー様式は世界の他の都市で例を見ないほど多くの建物に採用された。アール・ヌーボーとは19世紀末にイギリスで誕生した芸術形式で「つる草のようにうねるような曲線を多用する」するとことに特徴があるとされるものである。
 さて、このキタイスカヤ、現在は名を中央大街と変えているが、当時のロシア風の石造りの建物が今も並ぶ。舗装は石畳。何とも言えぬエキゾチックな雰囲気が漂う。
 ハルピンでは、毎年1月〜2月には氷祭りが催され、雪の造形、氷の彫刻など雪と氷の祭典が繰り広げられる。 また、コチコチに凍った松花江の氷を切り取って出来たプールでの寒中 水泳も見もの。

<聖ソフィア(索菲亜)教堂>
 青いドームが印象的である。ロシア正教の礼拝堂。1907年、ハルピンに出征したシベリア兵のために造られた。高さ53メートル、建築面積721平方メートル。2000名を収容できる。現在は、「ハルピン建築芸術館」として、市内の歴史的建造物の写真を展示している。

<黒龍江省博物館>(こくりゅうこうしょうはくぶつかん)
 ハルピン市紅軍街の端にある。西洋式の建物。省クラスの総合博物館。1922年創立。
 基本展示は「黒龍江古代歴史文物陳列」「動物陳列」「古代好物陳列」に分けられているが、なかでもマンモスの化石は完全なことで有名で、中国における象類の化石として最も古い。全部で13万点あまりを有す。

<東北烈士紀念館>(とうほくれっしきねんかん)  ハルピン市南崗区一曼大街にある。まっ白で荘厳なギリシア神殿風の建物。
 東北人民解放軍の羅栄桓政治委員(1902〜63)の発起で1947年に建立し、翌48年10月10日に正式開館。1953年1月1日には、周恩来(1896〜1976)が見学し、「革命先烈永垂不朽」という題詞を書いた。抗日戦争(1937〜45)と解放戦争(1945〜49)で犠牲になった229人の烈士の遺品・遺影・略歴をはじめ、文献史料・写真・題詞・絵画・彫刻など700点余りを展示。一曼街は女性烈士の趙一曼(1905〜36)にちなんでつけられた名である。

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《チチハル(斉斉吟爾)市》
 ハルピンの北西290キロ。嫩江の中流域にある。チチハルとは、少数民族のダフール族の言葉で「辺境の要塞」を意味する。周囲には草原が広がり遊牧が行われている。南の郊外には広大な湿原があり、渡り鳥など野生動物の宝庫になっている。

<清真寺>(せいしんじ)
 斉斉哈爾市建華区にある。黒龍江省最大の回教寺院。東北には回族が少なくない。その回族の信仰を集める。
 清の康煕23年(1684)の創建で、民族色濃厚な煉瓦・木造り。 東西両寺が並立するが、西寺は破損がひどく、東寺は大殿と窯殿が現存。大殿は雄大壮観で、磚に優美な鯉魚臥蓮の図案が施され、アラビア語で『コーラン』の聖句を記されている。

<竜沙公園>(りゅうさこうえん)
 斉斉哈爾市内にある。
 光緒23年(1897)に黒竜江将軍の程徳全(1860〜1930)が軍営の倉庫の堆土をもとに、池を掘って公園とし、万寿亭・穆清花庁を相ついで建て、築山に望江楼を建て、倉西花園と称した。1916年に竜沙公園と改称。 「竜沙」の2字は『後漢書』班超伝にあるのが初見で、唐代の詩人李白(701〜62)に「将軍虎竹を分ち、戦士 竜沙に臥す」(「塞下の曲」其の五)とあるのが地名としての初見。 小規模であったが、新中国成立後、20haの労働湖を開削するなど、徐々に総合公園として整備され、現在では東北地区最大の公園になっている。冬には、チチハルの氷祭りの会場にもなる。

<扎龍自然保護区>(さつりゅうしぜんほごく)
 市の東南26キロに位置する。設立は1979年。
 広さは四万平方キロメートル。河道が縦横に走り、湖沼を含む大湿原が広がり、150種類を越える野生の鳥が生息する。特に、毎年、4〜5月或いは8〜9月にはに三百種類の鳥が集まってくる。
 なかでもツルの繁殖地として世界に名高く、世界に生息する15種類のツルのつち、6種類がここに生息する。6種類のツルとは、丹頂鶴、灰鶴、白秋鶴、白頭鶴、白鶴、蓑羽鶴である。
 丹頂鶴は中国では、「羽族の長、仙人の乗りもの」などと称され、別名仙鶴とも言われる。その丹頂鶴が保護区内に五百羽ほどいるが、これは世界中の丹頂鶴の四分の一にあたるという。
 鶴以外にも白鳥、白鷺、草鷺などが棲息し、まさに自然動物の楽園となっている。

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《黒河市》
 ハルピンから真北へ630キロ。国境の町である。アムール河(黒龍江)を挟み対岸はロシア・ブラゴベシチェンスク。最近はロシアとの国境貿易が盛ん。街にはロシア人の姿も多い。冬には、さしもの大河アムール河も凍結をし、その間のロシアとの行き来は船ではなくバスやトラックによる。

<愛琿城>(あいぐんじょう)
 愛渾・艾渾・艾滸・愛呼倫ともいい、黒河から50kmほどアムール河(黒龍江)を下った黒河市愛琿郷にある。
 清の康煕23年(1684)に黒竜江などを防備する将軍の居城として築いて黒竜江城と命名する。同29年(1690)に将軍が墨爾根(現・嫩江県)に移駐ののち、黒竜江副都統の居城となり、光緒34年(1908)に副都統を廃して愛琿直隷庁を設置し、1913年に県に改めた。 城壁は周長5km。1858年、黒龍江北岸をロシア領とする、中国にとって屈辱的な条約である愛琿条約はここで結ばれた。
 現在、城跡は公園になっており、その中に愛琿歴史陳列館がある。

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《牡丹江市》
 牡丹江という河がある。松花江の支流。その牡丹江の中流域北岸に開けた街。戦前には、チチハルやチャムスとならび、「満蒙開拓団」の多く入植した地でもある。

<鏡泊湖>(きょうはくこ)  寧安県の南部の山間にある。
 牡丹江の流れが溶岩流にせきとめられて出来た中国最大の堰止湖。牡丹江市から牡丹江を遡ること130キロ。細い長方形をなし、長さ約45km。南浅北深で、もっとも浅いところは1m前後、北端の深さは60m。両岸は群山が起伏し、樹木が生い茂る。第四紀更新世の中・後期に、付近の火口から流出し、東に流れた溶岩流が現在の瀑布付近で牡丹江をせきとめて出来た。溶岩が冷却・凝固して割れ、その割れ目から湖水が流れ、甌穴―吊水楼瀑布―が形成された。
 美しい伝説がたくさん語り伝えられる湖である。

<地下森林>(ちかしんりん)
 寧安県の鏡泊湖の東南45kmにある原生林。
 火口内の岩石が長年にわたる風化によって剥離するとともに、火山砕屑岩と火山灰ともあいまって、土壌状態を呈し、火口が南上方を向いているため、火口内の樹木の成長に必要な日光がさしこみ、長い年月のあいだに噴火口内に森林が生じたもの。世界的にも珍しい。幽玄な景観をなす。後更新世初期に形成されたもので、35〜45度の傾斜を呈し、4つの火口がある。火口は直径50〜500m・深さ40〜145m。

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《寧安県》
 渤海国の遺跡で知られる。牡丹江からは南へ80キロ。渤海国は、唐の時代、698年に靺鞨(マツカツ)族を中心に建てられた国。713年、唐の册封を受けて渤海と名付けられた。滅亡は929年。契丹による。日本との関係も深く、交易も盛んであった。

<興陰寺>(こうりゅうじ)
 南大廟ともいい、寧安県渤海鎮の西南部にある。
 康煕(1660年代)初年の創建。
 渤海時代の寺院の跡地で、渤海の減亡後、堂宇は廃減したが、基壇と礎石の一部はいまなお現存。石仏寺ともいう。馬殿・関帝殿・天王殿・大雄宝殿・三聖殿の5つの仏殿が現存する。
 大雄宝殿は黒龍江には珍しい清代初期の木造斗?建築。5つの仏殿はいずれも改修・彩色がなされたが、原状を保ち、現在は歴史文物展覧室になっている。
 大雄宝殿と三聖殿の間に有名な石灯幢(石灯塔)がそびえる。唯一完全な形で残る渤海時代の大型石彫である。渤海時代の代表的な石彫で当時の建造技術の優秀さがみられる。

<舎利塔遺址―舎利函>(しゃりとういし―しゃりかん)
 寧安県の渤海上京竜泉府故城遺址の東側にある。
 1975年4月に台座址から舎利函が出土した。函は7重になっており、第1・2重は石、第3・4重は鉄、第5重は漆匣、第6重は銀で、いずれも絹の布で何重にも包まれ、第7重は円形の銀製で、小さな琉璃の瓶があり、石英のたぐいの砂粒が5つはいっていた。つまり「舎利子」である。舎利函は精美な造りで、琥珀がひとかけら、ガラス質の玉が10個、真珠などもはいっていた。その構造と装飾図案が1964年に甘粛省で出土した唐代の舎利函ときわめて類似し、渤海(698〜926)の仏教美術、渤海と唐との関係の研究にとってきわめて貴重な資料とされる。

<上京竜泉府故城遺址>(しょうけいりょうせんふこじょういし)
 寧安県城の南36kmにある。
 渤海国(698〜926)は五京を設けたが、上京竜泉府はその首府で、四面を山に囲まれ、三面に川がめぐる盆地に位置し、牡丹江に臨む。 規格と規模はともに唐都長安にならい、外城・内城・宮城(紫禁城)に分かれる。
 外城は周長が約17.5kmで、四面にあわせて10の門があり、城壁は土と石で築き、残高は2m前後。内城は外城の北部の中央にあり、周長は約4.5kmで、城壁は石造り。宮城は内城の北部中央にあり、周長は約2.5kmで、城壁は石で築き、残高は3m余り。
 1930年に日本の東亜考古学会が調査し、『東京城』として1939年に刊行された。

<寧古塔城遺址>(ニングターじょういし)
 満州語で「6」のことを「寧古塔」といい、清朝の皇族の遠い祖先の6人兄弟がこの地に住んでいたことに由来する地名といわれる。
新旧両城があり、旧城は海林県旧街にある。海浪河流域でもっとも広い盆地に位置し、山と川に囲まれ、土地が肥沃で、農牧・伐採・漁猟に適し、船運の便もよい。
 新城は康煕5年(1666)現在の寧安県城に移る。
 順治10年(1653)に昂邦章京副都統が置かれ、康煕元年(1662)に昂邦章京が寧古塔将軍に改められた。清代初期の寧古塔は盛京(現・瀋陽)に置かれ、黒竜江・烏蘇里江流域の広大な地域を管轄する軍事・政治・経済の中心であった。

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《阿城県》(あじょうけん)
 黒龍江省南部。阿什河の流域に当たる。女真族の金の時代、ここに都が置かれていた。

<上京会寧府遺趾>(しょうけいかいねいふいせき)
 阿城県の県城南2km、阿什河左岸の白城にある。
 金朝の前期の都城で、金の太祖・太宗・煕宗・海陸王の4帝があわせて38年間都城とした。
 主として縦横に連なる南北両城と皇城からなり、城壁は土を固めて作られており、護城河をめぐらす。皇城は天会2年(1124)の築造で、規模は北宋の都ベン京(現・河南省開封市)を模し、南城の西寄りに位置する。保存状態のよいのは、南北の城壁と皇城の5か所の宮殿址。

<金太祖阿骨打御陵址>(きんたいそアクダごりょうあと)
 上京会寧府遣址の西側約300mにある。
 俗に斬将台という高さ約10m・周長100m余りの土丘で、金の太祖完顔阿骨打(1068〜1123)が葬られている。
 金の太祖完顔阿骨打は金朝の初代の皇帝で、1115年に即位し、国号を大金、年号を収国、都城を会寧と定めたが、在位9年にして天輔7年(1123)9月に遼朝討伐のさなか病逝した。
 なお、太祖完顔阿骨打の遺骸は皇統4年(1144)に胡凱山(和陵)に改葬されたが貞元3年(1155)にさらに大房山(現・北京市房山県)に改葬され、仍睿陵と命名された。

<宝厳大師塔銘誌石碑>(ほうごんだいしとうめいしせきひ)
 上京会寧府遺址の西500m、俗に廟台という高台にある。
 清の光緒34年(1908)に発見されたもので、正しくは「上京宝勝寺前管内都僧録宝厳大師塔銘誌」といい、現存するのは墓塔の一部で、高さ92cm・六角六面の花嵩岩造り。銘誌は正面に漢語で彫られている。銘文によると、宝厳大師は俗姓を干といい、臨?府(現・内蒙古自治区巴林左旗)保和県出身の漢族で、21歳のときに上京会寧府にやって来て師について仏門にはいり、60歳余りで大定15年(1175)に円寂。また、大師の仏法布教の事績を記している。碑は黒龍江省博物館に展示している。

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