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===寧夏回族自治区===
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《銀川》(ぎんせん)
銀川は寧夏回族自治区の区都。
寧夏回族自治区の略称は寧。中国の西北部に位置する。賀蘭山が北部を縦貫し、南部には六盤山がある。賀蘭山に沿うように、黄河が中部から北部へと貫流する。黄河は寧夏回族自治区を抜けると内蒙古自治区に入り、オルドスへと向かう。
乾燥した気候であるが、古くから黄河の水を使った灌漑が発達し、農産物は豊かである。小麦、米、黍、粟、高梁、とうもろこし、胡麻など。その豊かさを評し、「塞上の江南」などと言われる。
住民は回族、漢族、蒙古族、満州族などからなるが、回族が三分の一を占める。
回族は、回回族とも呼ばれ、唐代から元代にかけて、ペルシャやアラビアから移住してきた人々を祖先に持つ。多くはイスラム教を奉ずる。
銀川は自治区の北部、オルドス高原と賀蘭山の間に広がる銀川平原に開けた町で。黄河が市の東15キロのところを流れる。
11世紀の初め、この地に、チベット系のタングート族が西夏王国を建国、名を興慶府とした。
その王陵跡が賀蘭山の麓に残る。
市街は、古くからの旧城区と新中国成立以後に工業区として建設された新城区に分かれる。
<承天寺塔>(しょうてんじとう)
旧城区の西南地区にある承天寺の境内に建つ。承天寺の創建は1050年、西夏王国の治世下においてである。明代に荒廃し、その後再建されたが、清代に地震によりほとんども建物が倒壊した。
現在の塔は、地震のあと、西夏時代の塔を模して再建されたもの。八角十一層、高さ64.5メートルの磚塔である。
塔室は方形で、床には木版が張られ、梯子も木製で造られている。梯子は最上階まで達している。
境内には寧夏回族自治区博物館が併設されている。
<南門楼>(なんもんろう)
旧城の東南。台基の上に楼閣が建つ。台基はレンガ製、高さ6.9メートル。中央にアーチ型の通路がある。楼は、二層、高さは20.5メートル。北京の天安門に似ており、「小天安門」と呼ばれる。
現在建つのは1917年に建てられたものだが、創建は、西夏王国がこの地に城を築いたときに南門として建てられたものではないかという説もある。
<海宝塔>(かいほうとう)
市の北の郊外に位置し、北塔ともいわれる。
建立年代は不明であるが、五世紀初頭の五胡十六国時代、夏王朝を建てた赫連勃勃(381-425。在位407〜425)が再建したと伝える。事実だとすれば相当に古い建物と言うことになる。
清代の1712年と1778年に地震によって倒壊したが、そのたびに再建された。
楼閣式の9層の磚塔。高さ53.9m。塔室は方形で、床には木の床板を張り、木製の梯子で第9層まで登ることができる。上からの遠望は壮大で、賀蘭山や黄河の流れを一望することができる。
<西夏王陵>(せいかおうりょう)
銀川市の市街の西方30キロ。賀蘭山の東麓に西夏王国の歴代の王の陵がある。南北10キロ、東西4キロにわたり八つの帝王陵と70余りの陪葬墓がある。
西夏はチベット系のタングート族の李元昊が建てた王国。建国は1038年、都を興慶府(現在の銀川)とした。
自らは 大夏と称し、仏教を奉じ、西夏文字を発明し、独特の文化を形成しながら版図を広げ、一時は敦煌に至るまで勢力をのばしたが、1227年にジンギスカンによって滅ぼされた。その際、町のみならず陵も徹底した破壊を受けた。ジンギスカンはこの西夏との戦いのさなかに死ぬが、彼の孫のフビライが十万の軍隊を三ヶ月使って、最初は火を付け、その後は叩いて壊したという。陵墓の風水の良さを畏れ、残しておいては蒙古に禍根を残す、と考えられたためという。
王陵はそれぞれが独立した建築群でほぼ同じ形式で造られている。四角に角台を建てて陵園の範囲を表し、南から北へ正門である鵲台、碑亭、文武官の石像とならびその奥が神壁をめぐらされた内城。内城のなかに、祭司を行うための献殿と皇帝の遺体を葬った陵台がある。内城の中心には八角形の木造の塔が建てられた。現在残る土の小山は、その塔の芯である。
<賀蘭山岸画>(がらんざんがんが)
賀蘭山の北部、賀蘭口にある。長さ600メートル余りの渓谷の両岸の岩壁に絵が刻まれている。人頭、馬、牛、羊や狩猟の様子を描いたもの。その数は数万点を超える。
描かれ方は粗放、素朴。書かれた時期については、四千年前から一千年前ぐらいであろうと言われている。
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《青銅峡》(せいどうきょう)
黄河上流に四つの渓谷がある。そのひとつが青銅峡である。他の三つは、青海省の龍羊峡、甘粛省の劉家峡、河南省の三門峡である。 山の上から見ると黄河の水が青銅色に見えることから名が付いた。
そこに開けた町が青銅峡市。銀川の南54キロ。包蘭鉄道が通る。
<一百零八塔>(ひゃくはちとう)
青銅峡市からさらに南へ20数キロ、青銅峡の峡口山、黄河西岸の東向きの斜面に百八のチベット仏教の仏塔が建ち並ぶ。
上から下へ一列目が一つ、二列目が三つ、三列目が五つ、四列目が七つ……と十二列並び最終列は十九、合計で百八。全体を三角形の形にした塔群である。その総数から一百零八塔という。
大きさは、一列目の最初の塔だけが高さ3.5メートル、他は2.5メートルである。
この塔群の創建がいつであるのかは記録がないが、明代中期の志書にすでに「古塔」と表現されていること、また、北京市にある元代建立の妙応寺白搭と同じ様式であることから、元代の建立と考えられている。
中国で唯一の大規模な三角形の塔群である。
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《中寧》(ちゅうねい)
銀川の南120キロ。自治区の西部にあり黄河の流域に当たる。
<石空寺石窟>(せっくうじせっくつ)
中寧県の西北部、双龍山の南麓にある。双龍山の古名が石空山であることが名の由来である。
開鑿の時期については、唐代、西夏代、元代の三つの説ある。
石窟は砂礫岩の岩壁に穿たれ、高さ約25メートル、幅12.5メートル、奥行7.24メートル。正面に三つ仏龕を穿ち、中央の龕には泥塑の坐仏像などが造像を安置されている。また、正面の壁の表裏には仏教説話を材を取った壁画がある。
ただし、場所がトンゴリ沙漠と接しており、今は、流砂に埋もれており見学はできない。
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《中衛》(ちゅうえい)
銀川の西南190キロ。沙漠と緑地が接し、熾烈なせめぎ合いを続けている。包蘭鉄道は、世界初の沙漠の中の鉄道であるが、線路を流砂から守るための工夫が施されている。
砂との闘いで明け暮れる中衛だが、沙坡頭観光センターでは、逆に砂を利用した遊びで観光客を誘致しようという試みがなされている。砂滑り、ラクダに乗っての砂漠を探検など。ヒツジの皮で作られた筏に乗っての黄河漂流も楽しめる。
<中衛高廟>(ちゅうえいこうびょう)
中衛県の県城の北にある。創建は明代。保安寺という寺院と一緒になっており、保安寺の山門から入り大雄宝殿を通ると高台になっていて、その後方に高廟がある。
約2000平方メートルの敷地にびっしりと数え切れないほどの建物が軒を連ねている。儒教、仏教、道教の三教の合祀になっており、建物も三教の様式に分かれて建てられている。 非常に多くの建物が建てられているが、主要な建物は南北の中軸線上に並べられ、奥に行くほど高くなる。副次的な建物は両側に並び、対称をなす構造になっている。屋根や軒が折り重なる様は壮観である。
もっとも高い建物は正廟。三層、高さは20メートルあまり。第一層の正面は五岳廟(仏教)、第二層の正面は玉皇を祀り(道教)、第三層の正面は瑶池宮(道教)、第二層の裏側は大成殿で孔子を祀っている。
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《同心》(どうしん)
寧夏回族自治区のほぼ中央に位置する。銀川市の南方200キロ。黄河の支流である清水河が流れる。
<同心清真大寺>(どうしんせいしんだいじ)
寧夏回族自治区の人口の三分の一は回族である。回族の多くはイスラム教を信仰する。それだけに自治区にはイスラム寺院が多く、その数は1800余りに達すると言われる。
その中でも最大のイスラム寺院が同心清真大寺である。創建は、判然としないが一般には明代とされる。
19世紀以降、寧夏地方におけるイスラム教の布教、特にイスラム神秘主義の中心的役割を果たしてきた。イスラム神秘主義とは、イスラム社会で8〜9世紀に始まった運動で、イスラム共同体が世俗化することに反発し、精神の内面や道徳的純化を強調し、神との直接対話や神との合一をめざすものである。中国へは、18世紀の半ばに、アラビア半島から帰国した馬明心導師が、甘粛省で布教を開始し、やがて寧夏の地にも伝わったとされる。
建築群は、清朝の光緒年間に修築されているが、中国の伝統建築とイスラムレンガ彫刻芸術との折衷で、独特な格調を持っている。
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《固原》(こげん)
銀川の南方350キロ。六盤山の東。古来、北方の遊牧民族と漢民族の接するところであった。秦代には北地郡、前漢には安定郡がおかれ匈奴の南下を防ぐための前線拠点であった。
それだけに、古くは戦国時代・秦代、新しくは明代など万里の長城の遺跡も多い。
<六盤山>(りくばんざん)
寧夏回族自治区の南部、甘粛省の東部に南北に240キロにわたって延びる。渭水と水の分水嶺をなしている。南の部分を隴山ともいう。主峰の標高は2928メートル。頂上にいたるための道が六重に山を取り巻いていることから六盤山の名が付いたという。
ジンギスカンの死は1227年。西夏との闘いのさなかであった。その最後の場所が六盤山であったという。
また、1935年、毛沢東の率いる長征の最後の難関が六盤山であった。蘭州から六盤山を越え、延安へと向かったのである。その時の詩が「清平樂 六盤山」。「長城に到らずんば好漢に非ず」という句は有名であるが、それは、この詩の中で詠まれたものである。
天高雲淡
望断南飛雁
不到長城非好漢
屈指行程二万
六盤山上高峰
紅旗漫巻西風
今日長桜在手
何時縛住蒼龍
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天高く雲淡し
望断す南飛する雁を
長城に到らずんば好漢に非ず
屈指すれば行程二万
六盤山上の高峰
紅旗 漫に西風を巻く
今日 長えに桜 手に在り
何時か縛って蒼龍を住せん
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<須弥山石窟>(しゅみせんせっくつ)
固原県の県城の西北55キロ。須弥山の東麓にある石窟寺院。 石窟の数は132、北魏から唐代にかけて開鑿されたもの。多くは風化や人災によって破壊されているが、20余りの屈がほぼ完全な形で残されている。
石窟は、地元の人が大仏楼、子孫宮、円光寺、桃花洞、相国寺と呼び慣わす地区を繋ぎながら2キロにわたって連なっている。全体で五千を超える仏像があるが、そのなかで注目されるのは北周代(557〜581)の八つの窟、唐代849年の題記のある第五窟、高さ20メートルを超える弥勒造像などである。
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