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丹東
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===遼寧省===
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《瀋陽市》(しんよう)
 瀋陽は清朝発祥の地。後金(後の清朝)を建てた太祖ヌルハチが女真族を統一し、当時盛京と呼ばれていたこの地を都に定めたのは、1625年。ヌルハチの子であるホンタイジ(太宗)が清と改称するのは1636年。ホンタイジの子、第三代・順治帝が長城を越えて北京を陥れ、遷都するのは、1644年。
 盛京は北京遷都後も奉天府と呼ばれる地方機関が置かれ、陪都としての役割を担った。陪都とは、国都に準ずる扱いを受ける都市をいい、明代における金陵(今の南京)などの例がある。
 日本が戦前、奉天と呼んだのは、これに由来している。
 観光的な見所としては、清の太祖ヌルハチが建てた後金の宮殿である瀋陽故宮や太宗の陵墓である昭陵など、満州族の故地としての遺跡と、東京駅を模したと言われる旧奉天駅(現瀋陽南駅)や旧大和ホテル(現遼寧賓館)など旧満州に関わる建物、に大きく分けられよう。
 日本が満州事変を起こした柳条湖は市の北にある。
 現在は、東北三省最大の都市となっている。人口670万人。

<昭陵>(しょうりょう)
 北陵ともいい、瀋陽市の市街地の北部にある。
 清の太宗皇太極(ホンタイジ)と皇后の陵墓で、清朝の関外三陵(他の二つは福陵と永陵)で最大の規模と最も完全な造形を保っている。
 清の崇徳8年(1643)に着工、順治8年(1651)に完成し、康煕・嘉慶年間にそれぞれ拡張。敷地は18万uで、平地に築き、周壁をめぐらし、南面中央に正紅門がある。正紅門外には芸術性の高い石牌楼や様々な建物が建ち、門内の墓道の両側に華表が4本、石獣が12、大きな親柱が2本、対にたって並び、そのうち「大白」と「小白」の両石馬は、太宗の生前の愛馬を模したと伝える。中央に進むと、隆恩殿が建つ。隆恩殿を中心とし、東西に配殿、四隅に角楼、前に隆恩門、後ろに明楼を配し、明楼内に「太宗文皇帝之陵」という石碑が建つ。方城の北部が三日月形の宝城で、宝頂の下方に太宗夫妻の眠る地下宮殿がある。福陵と同じく、清代は禁地として厳重に警備されていた。
 新中国成立後、大規模な改修を行うとともに庭園を拡張し、楼台亭閣を増設し、人工湖を開削し、北陵公園として一般公開され、景勝地として知られる。

<瀋陽故宮>(しんようこきゅう)
 瀋陽市の旧城の中心部にある。
 清朝の前身は後金。その後金が遼陽から瀋陽に遷都してきた際に創建された皇宮。太祖ヌルハチと二祖ホンタイジが造営。崇徳元年(1636)に基本的に完成し、当時は盛京宮闕(きゅうけつ)といった。三代目、世祖(順治帝)は順治元年(1644)にここで即位したが、その直後には、山海関を越え北京に遷都をした。遷都後も奉天行宮と呼ばれ、康煕帝、乾隆帝なども御幸をしている。
 皇宮全体に楼閣がそびえ、殿字が巍然と並び、華麗かつ堂々としており、北京の故宮につぐ完全な形の皇宮である。技術水準がかなり高く、地方色濃厚な様式で、漢・満州両民族双方の建築の特徴を備えている。
 皇宮は300室余りの建物、十数個の院落からなり、敷地は6万u。周囲に高い城壁をめぐらし、南面の中央に大清門がある。
 大清門を入ると中央正面に崇政殿(すうせいでん)がある。俗称は金鑾殿(きんらんでん)といい、二祖ホンタイジが軍事・政治の要務を処理し、外国の使臣や各民族の代表と会見したところ。天聡10年(1636)に、国号を後金から清に改める大典もここで行われ、北京遷都後も歴代皇帝は東北への巡幸のさいここで政務を処理した。
 さらに進むと、皇帝が軍事・政治の大事を計画し、宴会を開いた鳳凰楼があり、その奥には皇帝や后妃が起居した清寧宮がある。
 瀋陽故宮の東路の中心をなすのは、皇帝主催の大典に使われた大政殿(たいせいでん)。その両翼には、十王亭と名づけられた十の方亭が整然と並ぶ。ここで、左右翼王と八旗の大臣が政務処理を行った。このように君臣がともに政務を執る宮廷建物の配置は、八旗制度の由来するところであるが、それにしても、歴史上稀なことであり、瀋陽故宮独特の特徴である。
 新中国成立後、大規模な改修ののち、瀋陽故宮博物館として公開されている。ヌルハチの使用した剣、ホンタイジが使用した腰刀、さらには明代の江南の文人・文徴明の書画などが展示されている。

<福陵>(ふくりょう)
 東陵ともいい、瀋陽市の東北11kmの丘陵にある。清の太祖ヌルハチと皇后エホナラの陵墓で、清朝の関外三陵の1つ(他の2つは昭陵と永陵)。
 松の緑に包まれ、大殿がそびえ、独特の風格をそなえた皇帝陵。後金の天聡3年(1629)に着工、清の順治8年(1651)に完成し、康煕・乾隆年間にそれぞれ拡張をしている。
 敷地は19万4800uで、長方形の周壁をめぐらし、殿閣の配置は昭陵とほぼ同様。方城の後部は月牙(三日月)形の宝城で、月牙城ともいう。その下にヌルハチとエホナラが葬られている。
 山水に取り囲まれ、雄大な眺めで、景色が実によい。昭陵と同じく、清代は厳重に警備された禁地であったが、現在は瀋陽市郊外の保養・行楽地となっている。

<遼寧省博物館>(りょうねいしょうはくぶつかん)
 旧称を東北博物館といい、瀋陽市和平区四経街にある。
 もとは中華民国の東北軍熱河都統であった湯玉麟の邸宅として、ドイツ人建築家が設計したが、1931年満州事変が起って湯家が居住しないうちに占拠され、「満州」国立中央博物館奉天分館とされた。その後、第2次世界大戦終結後、瀋陽博物館と改称され、さらに解放戦争中に徴集された大量の文物を加えて、1949年7月7日に東北博物館として開館、1959年に遼寧省博物館と改称。
 敷地は広く、中心をなす3階建ての建物は「中国歴史陳列」を基本展示とし、各種の展示をも行う。書画・刺繍・青銅器・陶磁器・考古学資料・古地図・貨幣・碑志など18種類の文物の収蔵を行い、周ム(唐代中期の画家)の「簪花仕女図」、董源(五代から宋代初期にかけての画家)の「山口待渡図」、張旭(唐代中期の書家)の「草書四帖」など唐代と五代の書画、遼代の陶磁器と墓志など、有名な美術品や歴史文物・資料が含まれる。唐の時代の唐三彩は有名だが、遼の時代にも遼三彩と呼ばれる磁器が造られていた。その展示も見ものである。

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《大連市》(だいれん)
 日本人には「アカシアの大連」と呼び慣わされている。アカシア、は五月。白い清楚な花を枝いっぱいにつける。そして、街中が独特の甘い香りで包まる。かつての日本人の居住区にもアカシアの並木があり、郷愁の念をもって大連を思い浮かべるときにアカシアが連想されるのは、それなりに自然なことである。
 遼東半島の最南端に位置する。周りは海。また、丘陵が多く豊かな緑に囲まれた環境にある。
最初に街を造ったのはロシア人、それから日本人、第二次世界大戦後は中国人。それぞれがそれぞれに街を造ってきた。
 ロシアが街の建設を開始したのは1898年。この年、ロシアは遼東半島を清国から租借、ハルピンから東清鉄道を遼東半島の南端まで伸ばし、旅順を軍港に、大連を商港を建設しようとした。その時の呼び名は、ロシア語で遠方を意味するダーリニーであった。
 ロシアの都市計画は、大小幾つもの円形の広場を置き、それを直線の街路を結びつける、と言うものであった。広場の代表はニコライフスカヤ広場、直径210メートルほどもある。
 1905年。日露戦争が日本の勝利で終わると日本の支配下に入る。日本は、ロシアが巨額の資金を投入して建設途中であった街を手中に収めると、町の名を大連に改め、ニコライフスカヤ広場を大広場と変え、その周りに、大連民政署、市役所、朝鮮銀行、大連ヤマトホテル、横浜正金銀行など石造りの堂々たる洋式の建造物を建てていった。
 大広場の今の名は、中山広場。
 それらの建物は名を変えてはいるが今でも独特の風采を放ちつつ広場を囲んでいる。
 ロシアが極東制覇を夢みて町の建設を始めて百数十年に過ぎぬが、円形の広場、そこから放射線状に伸びる石畳の道、その両脇に並ぶロシア風の建物。そして、さらに坂道を登と、両側にアカシアの並木と日本人が建てた家並み。エキゾチックで、それでいて懐かしい。不思議な雰囲気をもった街である。
 ちなみに、中国では「北海の真珠」などと呼ぶ。遼東半島の南端、東は黄海、西は渤海。山と海に囲まれた美しい港町である。

 現在の人口は600万人。港街の利を生かしつつ経済特区の建設も進み日本などからの大型の投資を受け入れ大きな発展を続けている。

<大連港>(たいれんこう)
 東北三省で最大の貿易港。水深が深く、冬も凍らぬ良港であることから旅順港とともに19世紀末、帝政ロシアに、東方進出の足がかりの地としてとして狙われることになった。そこから、ロシアへの租借、日露戦争、日本による占領という近代大連の歴史が始まることになる。
 大戦後も貿易港として発展を続け、160を越える世界各国・地域との航路を結ぶ。煙台、天津、青島、上海など国内の港を結ぶ航路もある。

<路面電車>(ろめんでんしゃ)
 日本から最初に持ち込まれたのは1909年。今も市民の足として生きている。路線は最盛期から較べると減ったものの、大連駅から東に向かえば民主広場(旧敷島広場)、鉄路分局(旧満鉄本社)、三八広場(旧朝日広場)、寺児溝。西へ向かえば旧小崗子、五一広場(旧三春町)、興工街を経て沙河口駅へ。また、星海公園へ行くなら興工街乗り換え。日本になじみのある大連だけに、路面電車でのんびり街巡りをするのも楽しい。

<通称・旧ロシア通り>
 勝利橋の北にはかつてロシア人街があった。その異国情緒を復元させるために昔のロシア風の建物を再建している。全長430メートル。敷地面積3.7万平米。観光、散策、ショッピング、食事。ロシアの雰囲気をたっぷり味わえる町並みになっている。

<通称・旧日本通り>
 かつて南山山麓に日本人の居住区があった。二階建ての日本風の家が建ち並んでいた。街路樹はアカシア。その街を復活させるべく、一部の建築の改装、建て替えが進んでいる。日本人にとっては懐かしい町並みになる。

<大連自然博物館>(たいれんしぜんはくぶつかん)
 大連市の勝利橋の北にある。東北地区で最初の自然科学博物館。
 中心をなす建物はロシア統治時代の大連市の市庁舎で、1926年に日本が満蒙資源館とし、新中国成立後に東北資源館、1959年に現在名に改称。
 収蔵資料はきわめて豊富で、海洋生物・地質鉱産物・古生物・動植物など、4万点ちかい標本を擁し、2600点余りを29の展示室に展示。展示面積は2470u。中国の六大自然博物館のひとつで最も長い歴史をもつ。

<星海公園>(せいかいこうえん)
 市の西5キロにある海浜公園。弓形に広がる長さ800メートルの砂浜。夏は海水浴場として賑わう。日本占領時代には「星が浦」と呼ばれていた。

<二〇三高地>(203こうち)
 旅順にある。大連からは車で四〇分。
 日露戦争(1904〜05)において最大の激戦地であった。ロシア軍は山の上に要塞を築いていた。日本軍は、それを山の下から這い登り、攻め落とそうとした。戦いの有利不利は明らかであった。それでも攻めたのは、二〇三高地を占領すれば、旅順湾に停泊するロシアの艦隊を山頂から攻撃することができるからであった。
 戦後乃木将軍によって爾霊山と記された弾丸型の記念碑が建てられた。
 ロシア軍の要塞が残されているのは、東鶏冠山。
 また、大連からの道の途中にある水師営会見所は、小村寿太郎とステッセルが終戦のための会談を行ったところ。当時の写真が展示されている。

<旅順博物館>(りょじゅんはくぶつかん)
 大連市旅順新市街にある。ロシア統治時代に将校クラブだった建物で、1917年に日本が関東都督府博物館に改造、1945年にソ連赤軍に接収され、1951年に中国に引き渡され、初めは旅順歴史文化博物館といい、1954年から歴史文物を展示。
 展示面積は1700uで、一般歴史文物、大連地区で出土した生産・生活用具、新彊の吐魯番で出土した唐代の7体の屍(ミイラ)などを展示。
 このミイラは二十世紀初頭「大谷探検隊」の橘瑞超が日本に持ち帰ったものである。彼は、十二体のミイラを将来している。ところがその後「大谷探検隊」を主催した本願寺法主・大谷光瑞が本願寺に発生した疑獄事件の責任をとって法主の座を辞したことから橘が持ち帰った膨大な量の出土品も散逸されてしまうことになる。ミイラについて言えば、それぞれ数奇な運命を辿りながら、「十体は旅順博物館に、二体は韓国の国立中央博物館に所蔵されている」と記録されている。そのミイラである。

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《撫順市》(ぶじゅん)
 遼河の支流である渾河の南岸の街。
 瀋陽から東へ45キロ。世界有数の規模を誇る露天掘り炭坑で知られる。東西6.6キロ、南北2キロ、地表から坑底までの深さ260メートルという規模で採掘がされている。

<高爾山山城>(こうじさんさんじょう)
 撫順市の渾河北岸の高爾山上にある高句麗の山城。貴端城ともいう。 四面に山がめぐり、高地に位置して低地に臨み、守りは山城の険に頼ることができ、攻めは渾河の急流を利用することができる。土をつき固めた城壁が起伏し、周長は約4kmで、東・南・北の3門を設ける。
 朝鮮から中国東北部にかけ強盛を誇った高句麗も七世紀に唐に滅ぼされる。
 近くの高爾山の西峰には遼代の八角磚塔、明代建立の観音閣がある。

<薩爾滸山>(サルフさん)
 大夥房水庫の東南隅、渾河の南岸、サルフ河の東岸にある。標高は70mほどだが、きわめて険しい。
 明代末期、後金(清朝の前身)を率いたヌルハチが明の大軍を迎え撃ち全滅させ、遼東への進出を開いた大会戦の地である。
 しかし、1958年の大夥房水庫の完成後は、半島上に古城が存するのみで、古戦場と村は湖底に水没。

<平頂山殉難同胞紀念碑>(へいちょうざんじゅんなんどうほうきねんひ)
 撫順市の市街南部の平頂山にある。三〇〇〇体の中国人の遺体が埋められていた坑。
 1932年9月16日、関東軍は平頂山の村民全体が抗日運動に内通しているとし、3000人全村民を虐殺した。犠牲者のために1951年、記念碑が建立された。わずか長さ80m・幅5mの地中から800体余りの遺体が掘り出された事件現場に、1972年に平頂山殉難同胞遺骨館も開設。

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《遼陽市》(りょうよう)
 瀋陽の西南六〇キロ。遼・金時代には東京(とうけい)と称した。清の前身である後金が一時都を置いたことからそれに関する遺跡も多い。
 付近は日露戦争の激戦地でもあった。

<燕州城>(えんしゅうじょう)
 遼陽市東30キロの城門口村の後山にある。高句麗が4世紀に築いた山城で白岩城とも呼ばれていた。不規則な方形をなし、栗石で築き、外城と内城に分れる。周長は2500m。内城は外城の東南隅に造営され、長さ45m・幅35mで、貯水池がある。内城内の山頂にある俗に点将台という瞭望台は明代の築造で、城内の最高点。
 唐代に岩州と改称され、遼代は瀋州(現・瀋陽市)に属し、岩州白岩軍といい、金代は東京石城県に属し、元・明代は石城といった。現在、城内に石城風安保国寺碑があるが、寺はない。

<三道濠西漢村落遺址>(さんどうごうせいかんそんらくいし)
 遼陽市の北郊の三道濠村、太子河西岸の沖積平野にある。
 1955年に中国ではじめて大規模な発掘調査が行われた前漢代の村落遺跡。
 発掘されたのは1万u余りで、住居址が6つ、窯跡が7つ、井戸が11本、穴蔵などが発見され、付近から前漢の棺槨墓群と童甕棺墓地も1か所ずつ発見され、さまざまな形式の鉄製農具・車馬具・陶器・貨幣など1万点余りが出土。2段に石を敷き詰め、轍の跡がある幅約7mの大通りも発掘。
 遼陽は前漢代には嚢平といい、東北の政治・経済・文化の中心地であった。2000年まえの前漢代における農村の生産・生活・墓制などを研究するのにきわめて重要な遺跡である。

<東京城>(とうけいじょう)
 遼陽市の太子河東方2.5kmの新城村にある。清の太祖ヌルハチが赫図阿拉(ホトアラ・現・遼寧省新賓満族自治県)から遼陽に遷都したさい、後金(清朝の旧称)の天命7年(1622)に築いたもので、清朝初期の関外三都城のひとつ。三年後、瀋陽へ遷都するまでここを都城としていた。
 かつて八つの城門があったが、現存するのは南の天裕門のみ。漢語と満州語で彫った石額を掲げている。東南部に弥陀寺があり、崇徳6年(1641)の銘のある東京新建弥陀寺碑が現存。
 漢語と満州語の天命(1616〜26)銅銭、天命7年(1722)銘の漢語と満州語の石製の門額、琉璃製の装飾用建築材なども城内から出土。

<東京陵>(とうけいりょう)
 清の太祖ヌルハチ一族の陵墓。遼陽市の太子河東方3.5キロの陽魯山にある。東京城の東北1キロの地にある。
 清の太祖ヌルハチが遼陽に遷都のしたのち、後金(清朝の旧称)の天命9年(1624)に祖父景祖・父顕祖をはじめ、皇伯・皇弟・皇子の陵墓を当地に改葬したが、建国当初のことで規模は小さい。
 ヌルハチの祖父の覚昌安(景祖)と父の塔克世(顕祖)らの陵墓は順治11年(1654)にふたたび赫図阿拉(ホトアラ・現・遼寧省新賓満族自治県)に改葬され、現存するのはヌルハチの弟のシュルハチとムルハチ、従弟のクルハチ、長子のチュイン、ムルハチの子のタールチャらの陵墓のみ。
 碑亭はシュルハチの墓の前に建ち、保存状態がかなりよく、彫刻は精美。

<白塔>(はくとう)
 遼陽市の白塔公園にある。金の大定年間(1161〜89)の創建。金の世宗が母后のために建てた重慶寺の塔の俗称。何回も改修されているが、いぜん創建時のおもかげを留める。高さ71m・八角13層の磚塔で、上層になるほど細くなり、遼代の塔に酷似。塔身の八面に坐仏・脇侍・飛矢などの磚像がある。全体の造型と一部の彫刻は芸術的水準がかなり高い。

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《本渓市》(ほんけい)
 遼寧省の東部。遼河の支流である太子河の上流。瀋陽、丹東を結ぶ瀋丹鉄道が通る。鉄・石炭の産地を控え鉄鋼業が盛ん。

<本渓湖>(ほんけいこ)
 旧称を碑渓湖・杯犀湖といったが、清の乾隆年間(1736〜95)に現在名に改称。現在の市名・県名もこれに由来している。
 本渓湖の水源は、本渓市渓湖区の大堡後山の西麓にある慈航寺の傍らの石灰岩の絶壁の下にある深い洞穴である。洞口は東向きで、奥は底まですきとおっている清水をたたえる湖で、岩のすきまから清水が湧出し、一年じゅう涸れることがない。
 洞の左には絶壁に沿って慈航寺が建てられ、硬山造りの正殿が現存している。
 洞内にかつては清の乾隆・道光・同治年間の観音寺・保安寺・後湖寺などの改修を記した碑があった。新中国成立後、洞外に人工湖を開削して、渓湖公園となり、その山水が大勢の人をひきつけている。

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《鞍山市》(あんざん)
 中国人なら小学生でも知っている鉄鋼の町。瀋陽から南西へ100キロ。鞍山鉄鋼コンビナートは、武漢、包頭とならぶ中国三大鉄鋼コンビナートのひとつ。この地における鉄の歴史は古く、前漢の時代には鉄が造られていたという。
 近くには、東鞍山、西鞍山、大狐山などの鉄鉱石の鉱山も多い。

<千山>(せんざん)
 鞍山市の東20kmにある、東北地区の三大名山の1つ。長白山の支脈のひとつである。旧称を千華山といい、積翠山・千朶蓮花(せんだれんか)山ともいう。
 面積約300平方km・海抜700m余りで、奇峰が連なり、峰が999あるので千山と名づけられた。最高峰を仙人台(海抜708m)、第二の高峰を五仏頂という。古くから遼東の名勝で、「無峰不奇、無石不峭、無寺不古」(奇ならざる峰無く、峭し(けわし)からざる石無く、古からざる寺無し)とたたえられている。
 その奇岩奇峰のなかでも有名なのは「千山大仏」。自然の岩であるが弥勒菩薩の姿そっくりに立っている。
 山中は奇峰だけでなく、堂塔がいたるところにあり、遼・金代以来の名勝旧跡も多く、明代に栄えた祖越寺・竜泉寺・大安寺・中会寺・香岩寺の五大禅林をはじめ、無量観・九宮・八庵・十二観などが古くから詩文にも称えられてきた。

<湯崗子温泉>(とうこうしおんせん)
市の南15キロにある硫酸ナトリウム、ラジウムの鉱泉。皮膚病や婦人病に効く。温泉の一隅には、ラストエンペラー・溥儀専用であった「竜泉浴池」という浴場も残されている。

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《営口市》(えいこう)
 遼寧省の南部。遼河が遼東湾に注ぐ20キロ上流の地点にある。遼寧省の重要な港のひとつ。

<西炮台>(にしほうだい)
 営口市の西郊、遼河河口の東岸、船舶の出入口にある。清代に東北沿海の重要な要塞であった。光緒8年(1882)の築造で、大小あわせて3つの砲座があった。
 日清戦争(1894〜95)では清軍が当砲台で日本軍を阻止したが、営口陥落後、日本軍に破壊され、現存するのは台座のみ。その傍らに砲が一門残る。

<楞厳寺>(りょうごんじ)
 営口市新華区民主街にある。1931年の創建。敷地は4万u余りで、遼南地区ではかなり大きな寺院。三つの中庭からなり、前院は山門とその両側の鐘楼と鼓楼、中院は天王殿、後院は大雄殿で、大雄殿の背後に蔵経楼がある。中心をなす大雄殿は間口柱間5間の大木架構造で、かつては樟木造りの十八羅漢像を安置していたが、いまはない。
 新中国成立後、改修がなされ、営口市文物館となり、開放されている。

<金牛山旧石器時代早期遺址>(きんぎゅうざんきゅうせっきじだいそうきいし)
 営口県大石橋の南8kmの丘にある。 1974年から78年にかけて4回発掘され、旧石器時代前期の遣跡を発見。20点余りの打製石器、少数の骨器、60種余りの動物化石が出土し、さらに灰や焼痕のある骨など、火を使っていたことを裏づける遺物も発見された。サーベルタイガー・大ビーバー・中国ハイエナ・ハレボネ鹿・メルク犀などの化石の出土によって、ほぼ北京原人時代とほぼ同時期のものと推定され、中国の旧石器時代前期文化の東北における分布と発展を研究する上で、重要な遺跡。

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《新賓満族自治県》(しんひんまんぞくじちく)
 遼寧省の東部。渾河の支流、蘇子河の上流にあり吉林省に隣接する。後金(清の前身)に関する遺跡が多い。

<永陵>(えいりょう)
旧称を興京陵といい、新賓満族自治県永陵鎮の西北、啓運山の南麓にある。
 清朝の関外三陵のひとつ(他の二つは福陵と昭陵)。明の万暦26年(1598)に築造され、清の順治16年(1659)に現在名に改称。面積は1万1880u。清の太祖ヌルハチの祖先が葬られている。

<赫図阿拉老城>(ホトアラろうじょう)
 新賓満族自治県永陵鎮の東、蘇子河と二道河の合流点の左岸にある。 清の太祖ヌルハチによる後金朝樹立後の最初の都城。明の万暦31年(1603)に築造され、後金の天聡8年(1634)に興京と改称。清朝の関外三都城のひとつ。
 山に取り囲まれ、土をつき固めて城郭を築き、三面が川に臨み、一面が山を負う。内城の周長は2.5km、外城は約4.5km。城内には宮殿や楼閣などの遺跡がある。

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《丹東市》(たんとう)
 遼寧省の南東部。鴨緑江の右岸の町。鴨緑江を越えれば北朝鮮・新義州。鴨緑江には鉄道用の橋が架かり、新義州と結ばれている。
 瀋陽から列車で行くと、瀋丹線の終点。時間にして四時間。かつては安東と呼ばれたが1965年に改名。

<靉河尖古城址>(あいがせんこじょうし)
 丹東市の市街東北15km、靉河の河心の砂州にある漢代の古城址。
南北約600m・東西約500mの長方形をなし、南高北低。現存の残高は約1m。城内から前漢の五銖銭・縄文陶器片・灰色縄文瓦などが出土し、1973年には「安平楽未央」という篆字のある円形瓦当が出土し、当城が漢代の遼東郡西安平県の跡地であることが裏づけられた。漢代以後、遼・金代にも使われた。

<九連城>(きゅうれんじょう)
 丹東市の市街東北12kmにある。
 東は靉河に臨み、靉河を隔てて靉河尖古城と相対し、土山の上に築かれ、きわめて峻険な地。城郭・兵営が連なっていたので、明代に九聯城と呼ばれたのが名の由来である。
明・清両代は朝鮮との通商の要地で、両国の使節の往来に必経の地でもあった。登るとはるかに鴨緑江を望むことができ、春には青草が一面に生えそろい、鴨緑江が緑の中の一本の青い帯のように見える。

<鳳凰山>(ほうおうざん)
 鳳城満族自治県の市街東南2.5kmにある。千山山脈に属し、遼東第一の名山。人間が腕で抱えるように山脈が連なり、南面が欠け、内側は窪地になっている。  とがった石が美しく、遠望すれば奇石がそびえ、山にはいれば峰と道が曲折し、清幽このうえない。頂上近くには白木蓮が多く、花が咲けば芳香がたちこめる。
 最高峰を箭眼峰というのは、相対する大きな岩のすきまが遠くからは箭眼(矢があたって出来る穴)のように小さく見えるからである。山中には明代創建の三官廟や明・清代の石碑や摩崖の題字も多数保存されている。

<鳳凰山高句麗山城>(ほうおうざんこうくりさんじょう)
 鳳城満族自治県の市街東南5km、鳳凰山と高句麗山の間にある。旧名は烏骨城。
 城壁は左右の山の断崖を利用した天然の山壁をもとに築き、不規則な形をなし、全長が15〜16kmで、南面と北面に門がある。城内は盆地のようで、北部に高句麗の石積墓群、東部の平坦地に建築址がある。城内から指圧文や縄文のある瓦の破片、鉄鏃、金銅印などが出土したことがある。

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《朝陽市》(ちょうよう)
 遼寧省の西部。大凌河の中流にあたる。漢が柳城県を置いたとの記述がこの地に関する最も古い記録。

<鳳凰山>(ほうおうざん)
 朝陽市の東部にある。旧称を竜山といったが、のちに和竜山、清代初期に現在名に改称。遠くから眺めると、左右の峰が鳳凰の翼、塔のそびえるやや低い中峰が、鳳鳳が頭をもたげているように見えるので、鳳鳳山という。
 東晋の咸康7年(341)に前燕の慕容氏が都とし、竜城(現・朝陽市)を築いたので竜山といった。
 中峰は有名な景勝地で、上・中・下の三つの寺がある。中寺は雲接寺といい、西側に遼代の塔がある。高さ32mの方形13層の磚塔である。飛天、脇侍などが彫られ、鳳凰山最古の建造物。

<北塔>(ほくとう)
 朝陽市北塔街にあり、南塔とはるかに相対す。唐代の創建で、遼代に改修。高さ41.8m・方形13層の磚塔。塔身は各面に坐仏が1つ、その傍らに脇侍・飛天・小塔・塔名、坐仏の下にそれぞれ双馬・五象・五雀・五鵬が彫られている。上にいくほど細くなり、その高さに比し、細さがきわだち、精巧な造り。

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《錦州市義県》(きんしゅうしぎけん)
 錦州は、東北と華北とを結ぶ交通・軍事上の要地として栄えた。現在も、京瀋線と錦承線が交差する。

<広済寺>(こうさいじ)
 大仏寺ともいい、錦州市古塔区にある。
 創建は遼代で、のちに焼失し、清の道光9年(1829)に再建。
 伽藍は稠密な配置で長方形を呈し、中心をなす仏殿にいまや仏像はないが、檐柱と頭貫に精美な彫刻が施されている。門前に遼の清寧3年(1057)建立の高さ57m・八角13層の磚塔があるが、檐はすでに脱落。新中国成立後、改修をくりかえし、現在は錦州市博物館となっている。

<嘉福寺塔>(かふくじとう)
義県の県城の西南隅にある。遼の開泰9年(1020)の建立で、代々の改修により保存状態はかなりよいが、塔頂はない。 八角13層の磚塔で、高さ42.5m。塔身の各面に仏龕があり、そのなかに蓮座に坐す仏像が彫られている。仏龕の両側に袈裟をまとい、法冠をかぶり、手を垂らした脇侍が立ち、軽やかな姿態で衣をひらめかせた2人の飛天が銅鏡を挾んで立つ天蓋がある。かつては嘉福寺があったがすでに廃滅。塔名はその寺名に由来する。

<万仏堂石窟>(ばんぶつどうせっくつ)
 義県の県城西北9kmの万仏堂村の南、大凌河北岸の断崖にある。 北魏時代の石窟としては、最東・最北に位置する。
 石窟は東西両区に分れ、西区はあわせて9窟で、北魏の太和23年(499)の築造。第5窟に平東将軍営州刺史元景造像碑がある。
 東区の7窟は、韓貞ら74人が北魏の景明3年(502)に築いた私窟で、第5窟の門?に「韓貞造像題記」が彫られている。石窟内の造像は風化がいちじるしいが、残存する碑記・題記・塔銘は遼寧史研究に貴重な資料。東区第5窟・元景碑の書法は竜門(河南省)の造像碑に匹敵すると称えられている。

<奉国寺>(ほうこくじ)
 義県の県城東街路の北にある。もと咸煕寺という。
 中心をなす大雄宝殿は遼の開泰9年(1020)の建立で、高台の上に建ち、雄大壮観で、他にあまり例をみない遼代の平屋建て。間口柱間9間(48.2m)、奥行柱間5間(25.1m)、高さ21m。殿内にはある高さ8m余りの7体の仏像は遼代の塑像であるが、後世の手が加わっている。それぞれの仏像の前に1対の脇侍、東西両端にそれぞれ天王像が立つ。それらの仏像にちなみ、七仏寺・大仏寺ともいわれる。

<医巫閭山>(いふりょざん)
 北鎮県の県城西北5kmにある。
 南北45kmにひろがり、周囲は約120km。主峰の望海山は海抜866.6mで、東北の三大名山でもっとも有名。
『周礼』職方氏によると、古くから幽州(北京市・河北省北部・遼寧省一帯)の鎮山。遼・金代以来、山中に多くの建物が建てられたが、いまはいずれも廃滅し、現存のものは大半が清代のもの。『遼史』によると、遼の東丹王の書斎たる望海堂とその陵墓たる顕陵、景宗の乾陵、世宗や天祚帝らの陵墓があるというが、いまたお詳細は不明。
 杏や梨の花が満開ともなれば、花見客でにぎわう。

<崇興寺双塔>(すうこうじそうとう)
 北鎮県の県城の東北隅にある。
 遼代の創建で、元・明・清代に改修を重ね、いまなお保存状態はよい。 二つの塔は43m隔てて東西に相対し、ともに八角13層の磚塔。東塔は高さ43.85m、西塔は42.63m、基壇上の角にそれぞれ重荷を負う姿態の力士像が彫られ、塔身は各面の中央に坐仏像入りの仏龕、その両側に脇侍、上方に天蓋や飛天などがある。双塔の北側にある崇興寺は清代の再興で、わずかに正殿を残すのみ。塔名はその寺名に由来する。

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