旅チャイナ(トップ)|チベット青蔵鉄道|チベット入域許可書|カイラス倶楽部| <遼寧省・大連> トコトコ走る路面電車を見て胸がいっぱいになった。 大連は懐かしい街だ。それだけに、日本人には重い街でもある。街を歩いていると、今更ながら驚かされる。よくもここまで持ち込んだものだ、と。上野駅と同じ姿で大連駅を造った。その駅から続く街一番の繁華街を「浪花町」と呼び、その先の線路に架かる橋を「日本橋」と名付け、そこから東南に繋がる広場に「大和ホテル」を建てた。 日本の支配は、一九〇五年から敗戦までの四十年間であった。それから更に半世紀を越える歳月が過ぎた。その間、多くのものが消え多くのことが変わった。「浪花町」は天津路に、「日本橋」は勝利橋にそれぞれ名を変えた。そのなかで、当時の建物の多くは今でも使われている。「大和ホテル」が大連賓館として生き残っているように。「関東州の州庁」も「満鉄本社」も「三越」も「東本願寺」も。それらを見ていると、懐かしいような切ないような重苦しいような、何とも複雑な気持ちになる。 そんな私の前を、トコトコと路面電車が走っていく。新鮮な驚きに胸を打たれる。高校までを大連で過ごした北京の友人の話を思い出した。「日本の函館に行って驚きましたよ。小中学校の通学に毎日乗ったのとまったく同じ路面電車が走っているのですもの」。私は大連で、彼女は函館で、同じように驚いた。 日本から持ち込まれたのは一九〇九年。最盛期には百二十七台の車両を擁していたが、今は九十八台。そのうちの二、三割は日本時代のものなのだそうだ。雨の日も風の日も走り続けた。大連にやってきた日本人。日本の支配を受けた中国人。いろんな人のいろんな人生を載せながら、九十年間走ってきた。トコトコトコトコ走る姿を見ているうちに、感謝したいような、励ましたいような、そんな想いで胸がいっぱいになった。 (中日新聞・東京新聞の2001年10月07日日曜版に掲載)
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