<砂漠がオレを呼んでいる>
夏がくる。夏になると砂漠へ行きたくなる。
初めて本格的な砂漠に接したのはいつのことだったのだろう。
思い出してみると、蘭州からトルファンまで列車で旅したときのことだろう。もう二十年以上も昔のことになる。三十六時間ぐらいかかっているはずだ。蘭州を出るとほどなく砂漠に入った。一夜明けると、東の砂漠から陽が昇ってきた。「ふーん、これが砂漠の日の出なのか」。一日、ただただ砂漠の中を走った。右も砂漠、左も砂漠。「こんなに広いんだ」。やがて、西の砂漠に陽が沈んだ。「なるほど、これが砂漠の日没なのか」。そして翌朝、また東の砂漠から陽が昇った。「ああ、また砂漠から陽が昇ってきた」。こんな感じでボーッと見とれているうちに、いつの間にかトルファンに着いていた。そんな記憶が残っている。フワフワと夢心地の砂漠であった。
次は?
そう、河西回廊をバスで走ったことがあった。河西回廊、蘭州から武威、張掖、酒泉を経て敦煌にいたる道だ。千二百キロを三泊四日で走った。地域的には、前に走った鉄路と重なるのだが、砂漠というものに対して以前とは違う印象を持った。列車とバスの違いだろうか。何というか、砂漠の凄味というものを感じた。あの辺りは砂漠といっても砂ではない。小さい石の混じった砂礫である。その灰色一色の砂礫の原が視線の届く限りまで続いている。ウトウトする。目が覚める。どれくらい寝たのだろう。ふと、車窓の外を見ると、これが、うたた寝をする前の風景と全く変わらない。そうやって、砂漠の中を三泊四日走り続ける。いつでも、砂漠に囲まれている。いつでも、灰色が私に迫ってくる。こんな圧迫感を感じ続けていた。そういう凄味である。
この砂漠行で特に印象に残っている光景が二つある。ひとつは、地平線。日本では地平線など見ることはまずないのだが、ここでは、四六時中地平線をみて過ごしていた。特に驚いたのは酒泉から嘉峪関の間。それまでは、バスの左手遠く祁連山脈が見えていたり、あるいは、右手に土で固められた万里の長城が併走していたりするのだが、ここまで来ると、まったくの真っ平らになる。視野からあらゆるものが消える。あっと、息をのむ。あるのは、砂礫の原と地平線と空だけ。四方八方、地平線しかない。三六〇度、地平線が丸く自分を取り囲んでいる。そういう風景である。
もうひとつ忘れられないのは、「道」である。その地平線に向かって一筋、アスファルトの道が、定規で引いた線のように真っ直ぐに伸びている。その凄さも忘れられない。地平線が、三六〇度、私を閉じこめるように取り囲む。そこから脱出する唯一のよすがであるかのように、道が一本真っ直ぐに地平線に伸びていた。走っても走っても、地平線は円いことを止めない。走っても走っても、道は真っ直ぐであることを止めない。「どこかで折り合いがつくのだろうか?」。少なくとも、敦煌まででは、この宿命的な戦いに決着はついていなかった。地平線と道、いまでも、うなされるような心地で夢にでてくる。これがバスで行く砂漠であった。
最近、またひと味違う砂漠を経験した。昨年のことだが、ラクダに乗ってトンゴリ沙漠を旅行した。トンゴリ沙漠というのは寧夏回族自治区から内蒙古自治区、甘粛省にかけて広がる中国で四番目に大きな砂漠である。ここの砂は、河西回廊のような砂礫ではない。サラサラとした砂。王子様とお姫様がラクダに乗って旅する、そういう沙漠である。そこを昼はラクダの背に揺られ、夜にはテントを張り夜空を眺め、二泊三日の旅をした。
この時の砂漠は、美しかった。酒泉の真っ平らな砂漠と違って、アンジュレーションがある。丘があり谷があり。そのアンジュレーションが陰影を生み、曲線を描く。曲線は視力の果てまで続いていた。そして、曲線は官能的なまでに魅惑的であった。その光と陰が織りなすアンジュレーションをラクダに揺られて越えてゆく。
砂漠に包まれ、砂漠に埋もれ、砂漠に眠り、砂漠に親しみ、砂漠に酔うようにして過ごした。砂漠って優しいんだ。ラクダの背でそんなふうに感じていた。
どの砂漠も懐かしい。列車でもいい、バスでもいい、ラクダでもいい。何でもいいから、夏になると砂漠に行きたくなる。
(「北京トコトコ」2003年8月号に掲載)