旅チャイナ(トップ)|チベット青蔵鉄道|チベット入域許可書|カイラス倶楽部| <湖北省・宜昌―――これほど静かな夕暮れを私は知らない>
奉節は白帝城で知られる。宜昌は三峡ダムで知られる。この奉節と宜昌が三峡を挟む。奉節が入り口なら、宜昌は出口。宜昌が入り口なら、奉節は出口。十九世紀、英仏の蒸気船が長江を遡航し始めた当初から、彼らは長江を三つの部分に分かち捉えようとした。河口から漢口までの四百五十キロ。漢口から宜昌までの二百七十キロ。そして、宜昌から重慶までの二百五十キロ。
その地理的な位置ゆえに、さまざまな歴史を背負ってきた。古来、兵家必争の地であった。遠くは三国時代、劉備玄徳が関羽の仇を討つため呉を攻め、却って大敗を喫しついには身を滅ぼす因となるのが「夷陵の戦い」。その「夷陵」が今の宜昌である。近くは日中戦争期。上海、南京、武漢と攻め上った日本軍の行く手を阻んだのが三峡の激流と大巴山脈の峨峨たる山並みであった。蒋介石は重慶へ逃げ込む。しかしこれ以上は追う道がない。そこで考え出されたのが重慶への空爆であり、空爆の爆撃機を援護するための新型戦闘機の投入であった。その新型戦闘機が零戦であり、そして、その零戦の発進基地として確保されたのが宜昌の飛行場であった。重苦しい歴史がある。
とっぷり暮れたところで夕食にした。詩人にも食事が必要だ。地元の知人が案内をしてくれたのは屋台。「和田さん、宜昌に来たらこれを食べなくっちゃ」と言われて出されたのはスッポン鍋。唐辛子で表面が真っ赤になった鍋にスッポンがぶつ切りにされてでてきた。味がどうとか言う前に、先ず辛い。ひとくち口に含んだだけでも全身がカァーと熱くなり顔から汗が噴き出す。ふたくち含むと、頭が痛くなる。みくち含むと、涙が止まらない。 長江沿いに港町があって、重慶や万県のように山の中の港もあれば、南通のように海のような港もある。でも共通しているのは、水が流れていること。流れることが常。人々の生活も、猿を連れた大道芸人も、大きな荷物を担いだ行商人も、夜逃げも、駆け落ちも誰もが流れていて出会いがあり別れがある。長江沿いの港町には、何とも言えぬ旅情がある。そんななかでも、宜昌は忘れられない港町のひとつだ。静かに暮れる夕暮れと怒濤の火鍋で。 (「北京トコトコ」2003年10月号に掲載)
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