<貴州省(2)貴州の段々畑を走っていると……>
旅には目的地が必要だろうか?
もしも、「純粋」な旅というものがあるのなら、それは目的地を持たぬ、旅すること自体が旅の目的、というようなものであろう。そういう旅のなかでは、人はあらゆる肩書きを棄て、部長でもなく詩人でもなく夫でもなく父でもなく……ただ一人の旅人になる。「旅人と我が名呼ばれん初しぐれ」。芭蕉の心境もそういうものだったのだろうか?
貴州省を旅行しているあいだじゅう、なぜか、こんな考えがいつも頭を巡っていた。
おそらくは、貴州という土地のせいなのだ。
貴州は山のなか。
道は登っては下り、下っては登る。上下しながら山の斜面に沿い、右に曲がっては左に折れる。平らな土地など、猫の額ほどもない。その山のなかにも人々が暮らしている。山が削られ、山の天辺の天辺までが段々畑になっている。十月初旬、ちょうど刈り入れの季節であった。段々畑に黄色い稲穂が揺れていた。
走るうちに雨が降りだしてきた。山道も段々畑も雨に濡れる。山全体が霧に包まれる。そういえば貴州はこんなふうに言われる。「天に三日の晴れなく、地に三里の平地なく……」。その山のなか雨のなか霧のなかを登り下りしながら走っていると、ポツンポツンと村落がある。山あいの狭い土地に、杉の木で作られた二階建て、三階建ての家々が、寄り添うように並んでいる。この辺りに漢族はほとんどいない。いるのは苗族。紺の木綿の民族衣装、長い髪をグルグルと頭の上に巻きつける髪型。どこか、鄙びたというのか、世間離れをしているというのか、いかにも山の民といった雰囲気を醸し出している。
彼らが、山を削り段々畑を作ってきた。五十年や百年でできることではない。先祖代々親から子へ、子から孫へ、何百年も営々と山を削り続けてきたのだろう。そのために費やされてきたエネルギーの総量は如何ばかりであったろう。そらおそろしいほどだ。しかし、考えてみれば、そもそも、こんな山地を耕そうとしたことが何かの間違いだったのではないだろうか?
そう、何かの間違いであった。『史記』の本紀は黄帝の記述から始まる。黄帝は凶暴な蚩尤を滅ぼし帝位に就いた、と。ある学者は、この蚩尤こそが苗族なのだ、と言う。戦いに敗れ、黄河流域を漢族に追われ辿り着いたのが貴州の山。この地で平安を得、山を削り段々畑をつくり生活をしてきた。だとすれば、来たくて来たのではない。居たくて居るんではない。段々畑を作りたくて作っているのではない。
通り過ぎた村落の幾つかでは市が立っていた。近隣の村からだろう。人々が山道を、野菜、アヒル、鶏、豚、そういったものを竹の籠に入れ天秤棒で肩に担ぎ、雨を厭う様子など微塵もなく嬉々とした様子で集まってくる。
山のなかの農耕の民。彼らが楽しむ月に一、二度の市。誰の顔も晴れやかだ。彼らが何世代にもわたりコツコツと耕してきた段々畑は悲しいほどに美しい。そして、そこに暮らす人々は切ないほどに屈託がない。
その時、私は榕江という街に向かっていた。有名な風雨橋があり鼓楼がある。そこから広西壮族自治区へ下り桂林へ行こうとしていた。しかし走っているうちに風雨橋も桂林もどうでもよくなってきていた。このままどこにも着かなくてもいい、走りつづけていればいい。走っても走っても果てることのない山々。走っても走っても続く登りと下り。走っても走っても尽きることない段々畑。走っても走っても止まぬ雨。そして、走っているとポツンポツンと現れる村落。そして市で出会う苗族の人々の屈託のない笑顔。これらが、どこまでもどこまでも続いてゆくのだ、終わることなく……。
私は思った。どこにも着かなくてもいい。このまま走り続けていたい。そう、これが旅というものなのだ、と。
(「北京トコトコ」の2002年11月掲載)