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<風蕭々として易水寒し>

 易水を見たいと思った。そう、「風蕭々として易水寒し」の易水。北京から南西へ百キロ、河北省易県へ車を駆る。

 戦国時代も末、燕の太子・丹は始皇帝の暗殺を企てる。秦の強大な軍事力の前にもはや国を保つ手だてはない。選ばれた刺客が荊軻。「風蕭々として易水寒し 壮士ひとたび去って復た還らず」。こう謡って秦へ旅立ってゆく。匕首ひとつ、成功は難く、生還は更に期し難い。『史記』のなかでも最も美しい場面の一つである。
 この旅立ちまでにも、幾つかの、男たちの荒々しく、また、陰惨な劇が演じられていた。

 太子・丹に荊軻を推薦したのは田光先生であった。太子・丹に相談を受けた田光先生は、自分は年老いたので実行することは不可能であるが、代わりに別な男を推薦しましょうと言って荊軻の名を挙げた。田光先生は荊軻に会い、太子のところに伺候するよう頼んだ上で、みずから首を刎ねて死んだ。太子に依頼を受けたとき、「このことは他言せぬように」と言われたことがその理由だった。「太子が私に事を洩らさぬように念を押されたのは私を疑っているからだ。これでは任侠の士としての面目がない」、と。
 まだある。
 太子の依頼を受けた荊軻は二つのものを求めた。ひとつは燕の督亢(トクコウ)の地図、ひとつは樊於期(ハンオキ)の首。督亢は燕で最も肥沃な土地である。樊於期は太子・丹がかくまっている秦の将軍である。ともに秦の始皇帝が喉から手が出るほど欲しがっているものである。それらを手土産に持参しなければ、始皇帝の引見を受けることはできない。荊軻はそう考えた。
 丹は地図についてはすぐに同意した。しかし、樊於期の首については承知しなかった。自分を頼って逃げてきた者を殺すに忍びぬ、と。荊軻は直接、樊於期に会いに行き首を欲しいと言った。話を聞いた樊於期は喜んで自ら首を刎ねた。
 荊軻が「壮士」と言うとき、その意味は重い。自分のことだけではない。自ら首を刎ねた、田光先生、樊於期。彼らを含めて、「壮士」なのである。
「壮士ひとたび去って復た還らず」。

 易水はほとんど涸れかかっていた。アヒルが十数羽初夏の日差しのなかで餌をあさっていた。緊迫感とも感傷とも余りに無縁な光景であった。易水に立てた満足感と、期待と実際との落差の大きさ、その間をたゆたいながらしばし風に吹かれた。「考えてみれば、二千二百年も昔のことだ。変わっていないことの方が不思議なのだろう」。
 近くに荊軻を祀るために建てられた塔があるというので行ってみた。荊軻塔という。十三層の煉瓦造りの塔が小高い丘の上に、今は訪れる人もなく、静かに立っていた。
 丘に登ると眼下には華北の大平原が広がる。麦の収穫の季節であった。一面の黄色い麦の穂が風に揺れ、刈り入れにいそしむ農民の姿が遠く近く点在していた。荊軻の時代と変わらぬ風景なのだろうか。突然、こんな文章が浮かんだ。「図窮りて匕首見わる」。荊軻は始皇帝の引見に成功し、燕の地図を献上する。始皇帝は巻物の地図を広げてゆく。クライマックスである。まるで絵のような文章だ。荊軻は地図の最後に隠していた匕首をつかみ突きかかる……。
 暗殺という事件と収穫という日常。二千二百年の時の隔たり。荊軻という男気と司馬遷というドラマツルギー。そういうものを溶かし込みながら、大地が麦秀の黄に染まり風に揺れている。そんな想いが脳裏を駆け巡った。

(北京トコトコの2002年7月号に掲載)


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